第33話
都心での日々から一転、圭吾とエンヒの奥多摩への引っ越し計画は、具体的な物件探しという新たなフェーズへと移行していた。
インターネットでいくつかの候補に目星をつけたものの、画面越しの情報だけでは掴みきれない空気感や、エンヒの龍としての直感が何かを訴えかけるのか、最終的には「直接見て判断するのが一番じゃ!」という彼女の一声で、週末を利用した現地視察が決まったのだった。
土曜日の朝、二人は都心を発った。
規則的なリズムを刻む電車は、徐々にその車窓の景色を変えていく。
灰色のビル群が途切れ、空の面積が広がり始める。
エンヒは子供のように窓に顔を押し付け、歓声を上げた。
「おお、けいご! 久々の広々とした空じゃ!!それに緑があるぞ!」
彼女の緋色の瞳は、流れゆく風景の一瞬一瞬を捉え、まるで初めて世界を見るかのように輝いている。
電車を降り、さらにローカル線のバスに揺られること数十分。
終点に近いバス停で降り立つと、そこはもう完全な別世界だった。
ひんやりと肌を撫でる空気は、都心のそれとは比べ物にならないほど澄み渡り、木々の葉擦れの音や、遠くから聞こえる川のせせらぎが、耳に心地よい。
エンヒは大きく深呼吸をすると、満足げに頷いた。
「うむ、この地の『気』は澄んでおる。なかなか良い場所ではないか。こういう土地には美味いもののがある!」
最後の言葉は彼女の変わらぬ本能から来るものだろうが、圭吾もまた、この豊かな自然に包まれる感覚に、どこか心が洗われるような思いがしていた。
駅前にぽつんと佇む、昔ながらの小さな不動産屋の引き戸をがらがらと開けると、カウンターの奥から人の良さそうな初老の男性が二人を迎えた。
「はい、いらっしゃいませ」
日に焼けた顔に人の好さそうな皺を刻んだ、地元で長年商売を続けていそうな雰囲気の店主だ。
席に着くと圭吾は、あらかじめまとめておいた希望条件――ある程度の広さがあり、自然に近く、そして何よりも現実的な家賃であること――を伝えた。
「なるほど、奥多摩での新しい生活ですか。良いですねえ」
店主はにこやかに頷きながら、分厚いファイルの中からいくつかの物件資料を抜き出した。
「いくつか候補がありますので、早速ですが、車でご案内しましょうか?」
その申し出に、二人は喜んで頷いた。
最初に案内されたのは、駅から少し山手に入った場所に建つ、立派な茅葺き屋根の古民家だった。
黒光りする太い梁が縦横に走り、広い土間には前の住人が残したであろう農具などが置かれている。
部屋に上がると、囲炉裏の煤けた匂いがふわりと鼻をくすぐった。
「おお!見事な囲炉裏じゃ!ここで串に刺した川魚を焼いたら、さぞ美味かろうな!干し肉を作るのにも良さそうじゃ!」
エンヒは目を輝かせ、土間と板の間を興味深そうに歩き回る。
その姿は、まるで自分の新しい縄張りを見定める獣のようだ。
圭吾も、その風情ある佇まいに心惹かれるものはあった。
縁側に座れば、目の前には手入れされた小さな庭が広がり、その向こうには奥多摩の山々が借景のように連なっている。
ここで静かに暮らすのも悪くないかもしれない。
しかし、現実的な問題も頭をよぎる。
築年数は相当経っているだろう。
冬の寒さはどれほどのものか。
都心でのマンション暮らしに慣れた身には、このあまりにも違う生活スタイルに順応できるだろうか。
水回りや断熱など、手を入れるべき箇所も多そうだ。
エンヒはすっかり気に入った様子で、無邪気に言う。
「けいご、ここにしようではないか! 雰囲気が良いぞ!」
「いや、タワマンからこの暮らしへはあまりに変化が大きすぎる。もう少し、他の物件も見てから決めよう」
圭吾は慎重に答えるしかなかった。
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次に案内されたのは、先ほどの古民家とは対照的な、比較的新しい木造二階建てのアパートだった。
外観も綺麗で、設備も一通り揃っている。
家賃も手頃だ。
しかし、部屋に入った瞬間、エンヒは不満げに鼻を鳴らした。
「むう……ここはちと狭いのう。わらわが少し本気を出して伸びをしたら、天井を突き破ってしまいそうじゃ」
確かに、一人暮らしや若い夫婦なら十分な広さかもしれないが、龍の化身であるエンヒにとっては窮屈に感じるのだろう。
窓からの眺めも、隣のアパートの壁が迫っており、開放感に乏しい。
圭吾も、せっかく奥多摩まで来たのに、これでは都心のマンションと大差ないな、と感じてしまう。
「それに、美味いものの気配が薄いのじゃ。これでは力が湧いてこん」
エンヒは腕を組み、小さなため息をついた。
どうやら、彼女にとって「住処」とは、すなわち「美味いものにありつける拠点」という意味合いも強いらしい。
何軒か見て回ったが、帯に短したすきに長し、といった感じで、なかなか「これだ!」という物件には巡り合えなかった。
古民家は魅力的だが維持が大変そうだし、新しい物件は没個性的で狭い。
圭吾もエンヒも、期待と移動の疲れが入り混じった表情で、再び不動産屋の事務所に戻ってきた。
店主が出してくれた冷たい麦茶が、乾いた喉に心地よかった。
エンヒは出された羊羹をあっという間に平らげていたがその顔には少し疲れが見えていた。
「この茶と菓子はなかなかのものじゃ。だが、肝心の住処が見つからぬとはのう」
少し不貞腐れたように頬杖をついた。
圭吾も、内心焦りを感じ始めていた。
今日中にある程度の目星をつけたい。
「あの、他にめぼしい物件は、もうないでしょうか……? 少し条件から外れても構わないのですが……」
藁にもすがる思いで尋ねる。
店主は腕を組み、困ったように天井を見上げた。
「うーん、そうですねえ、吉倉さんのご希望となると、なかなか……あ、いや……」
その時、圭吾の視線は、店主が何気なくテーブルに置いたバインダーに挟まれた物件リストの、一番下に小さく手書きで追記された一行に吸い寄せられた。
それは他の物件情報とは明らかに違う、走り書きのような文字だった。
「あの、すみません。一番下に書かれている、その物件というのは?」
圭吾が指差すと、店主は一瞬、ギクリとしたように動きを止め、明らかに渋い、何とも言えない表情を浮かべた。
その変化を、圭吾は見逃さなかった。
「ああ……これはですね……」
店主は言葉を選びながら、慎重に口を開いた。
その声は、先ほどまでの朗らかさとは打って変わって、少しトーンが低い。
「吉倉さんのご希望条件には、広さも家賃も、おそらくピッタリ合うと思うんですが……その、何と言いますか……」
「何か、問題があるんですか?」
圭吾の問いに、店主は視線を泳がせ、声を潜めた。まるで、聞かれてはいけない秘密を打ち明けるかのように。
「ええ、実は……。築年数もまだ浅い一軒家でしてね。リフォームも済んでいて、中は本当に綺麗なんですよ。日当たりも抜群で、庭もそこそこ広いです。そして何より、家賃がこの辺りの相場からすると、信じられないくらい手頃なんです。敷金礼金も、あってないようなものでして……」
そこまで聞けば、理想的な物件のように思える。
しかし、店主の表情は晴れない。
「ただ……」
一呼吸置いて、店主は決定的な言葉を口にした。
「いわゆる、『曰く付き』ってやつなんですよ」
「いわくつき……?」
圭吾は思わず眉をひそめた。
「いえ、不審死とか、強盗に遭ったとか、そういうものではないのですが……霊的というか、そのねぇ」
店主は説明に困ったように眉をひそめた。
圭吾にとって、幽霊だの呪いだのといった非科学的な話は、あまり信じてこなかった類のものだ。
しかし、エンヒの件もある。
この自然豊かな奥多摩ならもしかしたら、あり得るのだろうか。
店主は、圭吾の反応を窺うように続けた。
「これまで何組か入居されたんですが、皆さん、どうも長続きしなくて……。早い方だと数週間、長くても数ヶ月で、必ず出て行ってしまうんです」
「なんでも、夜中に妙な物音がするとか、誰もいないはずなのに人の気配がするとか、何か黒い影を見たとか……まあ、そういう類の噂が絶えない物件でしてね。だから、家賃もあんなに安く設定せざるを得ないんです」
圭吾は腕を組んだ。
エンヒという龍の少女と出会って以来、自分の常識が覆されるような出来事ばかりだったが、それでも「幽霊物件」と聞くと、やはり躊躇を覚えてしまう。
冷静に考えると、わざわざトラブルの種になりそうな場所に飛び込む必要はないだろう。
しかし、その時、隣で静かに話を聞いていたエンヒが、俄然興味を持ったように身を乗り出した。
彼女の緋色の瞳が、好奇心にきらりと光る。
「ほう、『いわくつき』とな? それは面白そうではないか、けいご!」
彼女の声は弾んでいた。
まるで、これから始まる冒険に胸を躍らせる子供のようだ。
「どんな『いわく』じゃ? もしかしたら、わらわの知る『何か』の仕業やもしれぬぞ? それとも、ただの臆病者の見間違いか。いずれにせよ、確かめてみる価値はあるのう!」
圭吾はエンヒの顔を見た。
彼女にとって「曰く」とは、恐怖の対象ではなく、未知との遭遇、あるいは退屈しのぎの遊戯のようなものらしい。
あるいは、美味しいものにありつける新たなチャンスとでも思っているのだろうか。
「でも、エンヒ……」
圭吾がためらうと、エンヒはむっとしたように頬を膨らませた。
「何をためらうことがあるのじゃ、けいご! 少々変わった道を選ぶのも一興ではないか。それに、家賃も安くて広いのじゃろう? わらわが多少暴れても問題なさそうじゃし、庭で料理もできそうじゃぞ!」
エンヒの言葉には、妙な説得力があった。
確かに、これまでの自分なら絶対に選ばなかった選択肢だ。
しかし、エンヒとの出会いが齎した変化は、圭吾自身の内にも、未知への好奇心と、困難に立ち向かう勇気を芽生えさせていたのかもしれない。
そして何より、不動産屋が提示した「築浅、リフォーム済み、広い、日当たり良好、庭付き、家賃破格」という条件は、冷静に考えれば非常に魅力的だった。
圭吾は数秒間考え込んだ後、意を決して顔を上げた。
「……分かりました。その物件、とりあえず見るだけ見てみてもよろしいでしょうか?」
その言葉に、店主は少し驚いたような、それでいてどこか安堵したような複雑な表情を浮かべた。
「ええ、まあ、お客様がそうおっしゃるのでしたら…。ただ、本当に、何が起きても当方では責任を負いかねますが…よろしいですね?」
改めて念を押す店主。
「はい、承知しています。自己責任で」
圭吾がきっぱりと答える。
「それでこそ、わらわの見込んだ男じゃ!」
エンヒは満足げに頷いた。
店主は重々しく頷き、再び車のキーを手にした。
「では、ご案内いたします。くれぐれも、お気をつけて」
その声には、心配と、ほんの少しの期待感が混じっているようにも聞こえた。
こうして圭吾とエンヒは、奥多摩の地に潜む「曰く付き物件」へと、期待と一抹の不安を胸に抱きながら向かうことになったのだった。
車窓から見える景色は、先ほどまでののどかな田園風景から、次第に鬱蒼とした木々が迫る山道へと変わっていく。
エンヒは、そんな道中の雰囲気も楽しんでいるのか、鼻歌交じりに窓の外を眺め、「どんな『いわく』が待っておるかのう? 美味しい供物の一つや二つ、隠してあったりせんかのう?」などと、相変わらず食に関する期待を口にしている。
その能天気さが、圭吾の緊張を少しだけ和らげてくれるのだった。
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