第13話

 ワインを片手に、星空の下で弾む会話。

 梟の鳴き声と虫の音が響く山中で、一人と一龍の穏やかな笑い声が響いていた。


 アヒージョとワインがもたらした幸福感に包まれ、圭吾は目の前の不思議な少女、エンヒへの好奇心を抑えきれなくなっていた。

 彼女が言っていた「祠の奥」。

 そこは一体どんな場所なのだろうか。


「なあ、エンヒ。君がさっき言ってた、祠の向こうの世界って、一体どんなところなんだ? 君みたいな龍が普通にいるような場所なのか?」


 軽い気持ちで尋ねた、その一言が引き金だった。

 ワインのコップを持っていた右手の手の甲に、焼印でも押されたかのような、鋭い激痛が走った。


「うっっ!!」


 思わず声を上げ、反射的に手を見る。

 手の甲の皮膚の下で、何かが蠢き、熱を持っている。

 痛みと驚きで、持っていた樹脂製のコップが手から滑り落ちた。

 カラン、と軽い音を立てて地面に転がり、残っていた淡い黄金色のワインが、あっけなく乾いた土に染み込んでいく。


 そんなことには構っていられなかった。

 圭吾の手の甲には、信じられない光景が広がっていた。

 皮膚の上に、淡い光を放つ複雑な紋様が、まるでタトゥーのように浮かび上がってきているのだ。


 それは、幾重にも重なった桜の花びらのようにも、あるいは精緻な鱗のようにも見えるデザインで、エンヒの瞳と同じ、美しい緋色と、輝く金色が混じり合って構成されていた。


 そして、それはただの模様ではない。

 まるで生きているかのように、ドクン、ドクンと脈動し、明滅を繰り返している。


「な、なんだこれ!?」


 圭吾が混乱していると、隣にいたエンヒが、その紋様を目にした途端、息を呑み、緋色の瞳をこれ以上ないほど丸くして叫んだ。


「そ、そ、それは……!! まさか……『龍の契約の紋』じゃと!? な、なぜお主の手にそれが!?」


 エンヒは椅子から転げ落ちるように立ち上がると、慌てふためいて圭吾の手を掴んだ。

 その小さな手は、ほのかに暖かかった。


「お、お主! さっき、なぜ私の名を呼んだのじゃ!? まさかとは思うが、契約の意思を持って呼んだわけではあるまいな!?」


「ええ!? 契約!? 何のことだよ! ただ名前を呼んだだけだ! それより、この紋様は何なんだ!? 急に痛くなって……! どうなってんだ!」


 圭吾は痛みと混乱で叫んだ。

 エンヒはワナワナと震えながら、信じられないといった表情で紋様と圭吾の顔を交互に見ている。


「これは……これは、龍が生涯にただ一度だけ、真に認めた者にのみ捧げる、魂と魂を結ぶ絆の証なんじゃ! 古からの、最も神聖な契約の一つ! じゃが……じゃが、まさか……こんな形で結ばれるなど!」


 エンヒは頭を抱え、うめき声を上げた。


「わ、私が…! 私としたことが、お主の作った飯の美味さに、完全に魂ごと絆されてしもうた! それで、お主が私の名を呼んだ瞬間、魂が勝手に……! 意思とは関係なく、契約を結んでしまったのじゃ…!」


「俺は何も悪くないじゃないか!英雄!? 王!? 何言ってんだ、俺はただのサラリーマンだぞ! どこにでもいる……普通の会社員だ!」


 圭吾の反論に、エンヒは顔を真っ赤にして、さらに慌てふためいた。


「そんなことはどうでもよい! 問題は、この紋は龍と契約者の魂を文字通り結びつけてしまうということじゃ! 一度結ばれたら、解除は容易ではない! そして……放っておけば、鍛えていない人間の弱い魂では龍の力に耐えきれず、お主の命が危ういことになる!」


「命が危ない!? 嘘だろ!?」


「嘘などではない! すぐにこの契約を解除せねば!」


 エンヒの緋色の瞳は、焦りと真剣な光を宿していた。


「ど、どうすれば解除できるんだよ!」


「私の知り合い……あの長老ならば、契約解除の方法を知っておるかもしれぬ。じゃが、長老は、この世界にはおらぬ。祠の奥にある『門』を通り、私達の世界へ行かねばならぬ!」


「私達の世界!? 門!? 急に何なんだよ、話が飛びすぎだろ!」


 圭吾は叫んだが、エンヒの真剣極まりない瞳を見ていると、これが冗談や作り話などではないことが、嫌でも理解できた。

 手の甲の紋様は、依然として熱と痛みを伴って脈打っている。


「ぐずぐずしておる暇はない! 一刻も早く行くぞ!」


 エンヒは圭吾の腕を掴み、祠の方向へと引っ張ろうとした。


「ちょ、ちょっと待て! 今すぐは無理だ……!」


 圭吾はエンヒの手を振り払った。


「せめて……せめて明日の朝にしてくれ……」


 急に、圭吾の体が鉛を飲み込んだかのように重くなった。

 立っているのが辛い。

 猛烈な眠気が襲ってきて、目が勝手に閉じそうになる。


 なんだ、これ…?

 登山の疲れか…?


 そう思い込もうとしたが、意識が霞がかかったように朦朧としてくる。

 エンヒは、圭吾の異変に気づき、ハッとした表情で彼の顔を覗き込んだ。


「お主! 顔が真っ青ではないか! まさか、もうこれほどまでに! 契約によって、魔力を消耗しておるのじゃ!」


「魔力……? 何だよそれ……そんなファンタジーみたいな……」


 圭吾は力なく呟いたが、エンヒは構わず説明を続けた。


「この紋は、龍の持つ強大な魔力と生命力の源流と、契約者の魂を繋ぐもの。お主はただの人間ゆえ、その莫大な力に耐えきれず、急速に魔力と生命力を奪われておるのじゃ!」


 圭吾は、ふらつきながら近くにあったテントのポールに寄りかかった。

 立っているのがやっとだ。エンヒは圭吾の肩を掴むと、その小さな手を彼の胸に当てた。


 手のひらから、温かいような、それでいて清涼な、淡い緑色の光が流れ込んでくる感覚があった。

 すると、鉛のようだった体が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


「少しだけ、私の気をお主に流し込んだ。じゃが、これは一時しのぎにしかならぬ。今は休むが良い。じゃが、朝になったら、必ず出発するぞ。良いな? さもなくば、日の出と共に、お主の命が尽きるやもしれぬ」


 エンヒの言葉は、有無を言わせぬ響きを持っていた。

 圭吾は、もはや反論する気力もなく、頷くのが精一杯だった。

 エンヒに支えられるようにして、テントの中へと潜り込む。


「分かった……朝になったら……ちゃんと話そう……」


 それが、圭吾が言えた最後の言葉だった。

 取り出してあった寝袋に包まると、まるでスイッチが切れたかのように、深い深い眠りの底へと落ちていった。


 手の甲の紋様だけが、暗闇の中で淡く光り続けている。


 テントの外では、エンヒが一人、消えかけたランタンのそばで、満天の星空を見上げていた。


「はぁ……まさか、人間の作る飯と酒ごときに、この私が魂ごと絆されるとはな……。私もまだまだ未熟ということか」


 エンヒは自嘲気味に呟き、ふと、自分がやって来た祠の方向を振り返った。

 その緋色の瞳には、先ほどの動揺は消え、強い決意の色が宿っていた。


「だが、契約を結んでしまった以上、致し方ない。まずは、長老に会えば、きっと道は開けるはずじゃ。吉倉圭吾、お主が何者であろうと、この私がお主を無事に帰さねば、龍の誇りが許さぬからの」


 星空の下、小さなテントの明かりだけが、静かに揺れている。


 それは、吉倉圭吾という一人のサラリーマンにとって、想像もしなかった異世界への旅の、静かな幕開けを告げる灯火だった。

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