第11話

 ニンニクの衝撃に打ち震え、呻き声を上げながらも咀嚼を続けるエンヒを見て、圭吾の中に悪戯心と、ある確信が芽生えた。

 この龍の少女なら、きっとこれも気に入るはずだ、と。


「エンヒ、ちょっとそのスキレットとフォークを貸してくれ」


 圭吾はそう言うと、サイドポケットに入れていた厚手の耐熱軍手を素早く左手にはめた。

 先ほどエンヒが平然と持っていたが、勿論人である自分には無理だ。


「む? 何をするのじゃ?」


 エンヒはまだニンニクの余韻に浸っているのか、少しぼんやりとした表情で圭吾を見上げた。

 圭吾はエンヒから熱いスキレットとフォークを受け取ると、自分の膝元に置いた。


 そして、ジップロックから、少し大きめにカットされているフランスパンを一切れ取り出した。


 そのパンをスキレットにつけ、残っている黄金色のオイルをとろりと馴染ませる。


 オイルがパンにじゅわっと染み込んでいく。


 次に、フォークでオイルの中から丸ごとのニンニクを一つ取り出し、パンの上に置いた。


 そして、フォークの背を使って、そのホクホクになったニンニクをぐっと押し潰し、まるでバターを塗るように、パンの表面全体に丁寧に塗り広げた。

 ニンニクの芳醇な香りが、より一層強く立ち上る。


「ああ……もったいない……! あの丸いままの姿が良かったのに……」


 ニンニクが潰された瞬間、エンヒが心底残念そうな、悲しげな声を漏らした。

 その純粋な反応に、圭吾は思わず笑ってしまった。


「はは、随分とニンニクが気に入ったみたいだね。大丈夫、心配いらないよ。これも、美味しいものになるから」


 圭吾はそう言うと、潰したニンニクの上に、プリプリの海老を一尾、そしてスライスされたマッシュルームを数枚、彩りが良くなるように乗せた。

 まるで、オープンサンドかブルスケッタのような見た目だ。

 これが、圭吾が学生時代に編み出した、アヒージョの〆の楽しみ方だった。


「ほら、完成だ」


「食ってみな。飛ぶぞ」


 ついつい、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、圭吾はその特製アヒージョのブルスケッタをエンヒに差し出した。


 エンヒは、先ほどのニンニクの衝撃がまだ尾を引いているのか、少し警戒するような目でそれを受け取った。

 じっとパンを見つめていたが、漂ってくる抗いがたい香りに誘われるように、恐る恐る、小さな口でパンの端をかじった。


 パリッ!


 静かな夜のキャンプサイトに、歯応えのあるパンの耳が砕けた、小気味の良い音が響いた。


 エンヒは、そのまま無言になった。

 ただ、ゆっくりと、味わうように咀嚼を続けている。


 その表情は真剣そのもので、何を考えているのか窺い知ることはできない。

 圭吾は、エンヒの反応を固唾を飲んで見守った。


 次の瞬間、エンヒの大きな緋色の瞳から、ホロリ、と一筋の涙が溢れ落ちた。


 そして、それはすぐに堰を切ったように、次から次へと透明な雫となって白い頬を伝い始めた。


「……うっ……く……これほどまでに……し、幸せを感じる食べ物が、この世にあったとは……!」


 エンヒは、嗚咽を漏らしながら、それでも食べるのを止めずに、小さな口でパンをかじり続けている。


「ふらんすぱん、というパンの軽やかな歯触り……その上に塗られたニンニクとやらの強烈な旨味と香り……海の幸と山の幸の旨味……そして全てを包み込む、あの豊潤なオリーブオイルとやらの油……! 全てが…全てが完璧に調和しておる! これこそが…このアヒージョという料理の楽しみ方の完成形じゃ!」


 泣きじゃくりながら、それでも至福の表情でパンを貪るエンヒ。


 そのあまりにも純粋で、感情豊かな反応を見ていると、先ほどまで満腹だと感じていたはずの圭吾自身の胃袋も刺激された。

 たまらなく、自分も一口、食べたくなった。


(そうだよな、美味いよな、これ)


 圭吾は、エンヒが食べ終わるのを待たずに、素早く自分用にもう一つ作り始めた。

 パンにオイルを垂らし、ニンニクを潰して塗り広げ、エビとマッシュルームを乗せる。


 そして、圭吾自身の好みとして、最後に忘れてはならないのが、輪切りにされた鷹の爪だ。

 これを数枚、フォークでアヒージョの中から掬い上げ、パラパラと上に散らす。


 ピリッとした辛味が加わることで、味がさらに引き締まるのだ。


 完成したそれを手に取る。

 口に運ぶ前から、ふわりと鼻腔をくすぐるガーリックの芳醇な香りが、強烈に食欲をそそる。


 我慢できずに、大きく一口、かぶりついた。


 カリッ!


 まずは、焼き色のついたフランスパンの外側の、香ばしくて軽やかな歯切れ。

 次いで、内側のしっとりとして、もちもちとした食感。


 その絶妙なコントラストがたまらない。


 そして、パンの表面にたっぷりと塗られた、アヒージョの風味豊かなニンニクオイル。


 潰されたことでダイレクトに伝わるニンニクの深い旨味と、オリーブオイルのまろやかなコクが口いっぱいに広がり、その芳醇な香りが鼻孔を駆け抜けていく。


 ああ、美味い。


 ひと口ごとに感じられるのは、ニンニクが持つ独特の甘みと、ほのかな辛み。

 そこにアクセントとして散りばめられた鷹の爪の輪切りが、ピリリとした小気味良い刺激をプラスする。


 その辛さは決して強烈すぎることはなく、全体の味を引き締め、心地よいスパイス感として後味に爽快なキレをもたらしてくれる。


 エビのプリプリとした食感と甘み、マッシュルームの旨味と香りも、ニンニクオイルと完璧に調和している。


 美味い。

 

 心の底から、そう思った。

 学生時代に仲間たちと山で食べた、あの時の感動が蘇ってくるようだ。


 ふと、圭吾は気がついた。


 先ほどまで、心のどこかに感じていた、漠然とした物足りなさ。

 ぽっかりと空いたような、虚無感にも似た空白。

 それが、今、確かに満たされているのを感じる。


 これは、ただ単に料理が美味しいから、というだけではない。

 もちろん、アヒージョは最高に美味い。


 だが、それだけではないのだ。

 タワーマンションで一人、高級なデリバリーを食べても、決して満たされなかったもの。

 仕事でどれだけ大きな成果を上げても、埋められなかった心の隙間。


 それを満たしているのは、この味を、この瞬間を、目の前にいる不思議な龍の少女――エンヒと、一緒に共有しているという、その体験なのかもしれない。


 ただ美味いだけじゃない。

 それを誰かと分かち合い、純粋に心の底から「美味いね」と言い合えること。


 そこに生まれる。

 特別な種類の美味しさ。

 温かさ。


 それが、今の圭吾の心と体を、じんわりと満たしていくのを感じていた。

 タワーマンションの冷たい静寂の中では、決して得られなかった充足感が、そこにはあった。


 圭吾は、隣でまだ静かに涙を流しながらパンを味わっているエンヒの横顔を、穏やかな気持ちで見つめていた。

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