佐藤ミルクの死町譚

イズラ

第1章 ミルクはまどろんで

第1話 夢廻り

「や、一日ぶりだね」

 彼女の長い髪がサラリと揺れる。


 ──出会いは、昨日のことだった。

 私は、見知らぬ町で彼女とすれ違った。大人っぽい空気をまとう彼女に、すぐに恋い焦がれた。一目惚れした。

『あの、すいません──』

 それが始まりだった。私たちは霧のかかった町の中で話し、笑い合い、遊んだ。たった数時間でも、何百年もの長さに感じた。そんな、恋情が爆発した時間。それを、もう一度。


「それじゃ、何して遊ぼっか。今日は」

 返事もできぬまま見とれている私に、彼女はただ笑みを向ける。さわやかな喋りかけに、私はようやく言葉を返した。

「……それじゃぁ、カラオケとか」

 私が言い終わる前に、彼女は大きめのリアクションで「いいねぇ!」と笑う。顔にできたしわも美しい。そして、いとしい。この興奮に慣れる時が来るのだろうか。いや、決して来ることはないだろう。

「じゃ、行こっか」

 そう言って、ベンチに座っている私の手を取る。私の細い指を、壊れないようにと慎重につかむ繊細さに、またときめく。


 それからは、あっという間だった。カラオケで朝ごはんを済ませ、それから二時間くらい歌った。その後は町中の公園巡り。昼はラーメン屋さんで特盛ラーメンを食べて……。

 八時間、九時間、十時間はすぐに過ぎていった。

 ──とは言っても、この町にはしっかりとした時計がない。時間は、空色や腹時計で確かめる。


 そしてとうとう夜更けになった。

 二回目のカラオケを終え、街明かりに照らされた大通り沿いを歩く。私たち二人、横に並んで。

 どこを目指すわけでもなく、ただ、地面を見ながら歩く。その場を包むのは沈黙。なぜだろうか、話すことが思いつかない。口を開いていいのかが分からない。先ほどまでバカ騒ぎしていたのが噓みたいだった。

 終いには、彼女が口を開く。

「そろそろ午前かな……」

 そう、一言目は何でもいいのだ。共通の話題だと会話が続きやすい。そんなことを”友達”が言っていたこともあった、だろうか……。

「……友達……?」

 その時、私の、世界の鼓動が乱れる。反芻はんすうする記憶が、私の脳をぐしゃぐしゃにしていく。ついには、目の前の景色にノイズが走り始めた。

「……大丈夫? ……具合でもわ──?」

 私を心配する彼女の言葉も、夜の雑踏も、耳鳴りがかき消してしまう。

 そして、思い出した。

「……そうだよ。これは、この世界は、私が見ている、ゆ──」

「待って!!!」

 視界が真っ黒に染まる寸前、彼女が私の顔に叫ぶ。今まで聞いたことのないような、怒号だった。

 私が言葉にならぬ言葉で聞き返すと、彼女は必死の形相で叫んだ。

「まだ行かないで!!! 行っちゃダメ!!! ダメだよ!!!」

 激情の波が私を襲う。私は何と返したらいいのか分からず、ただ適当な母音の集合体を吐いていた。

「また戻るの!!? あの苦しい世界に!!? 醜い!!!! 薄汚い!!! ドブに落ちたみたいな世界に!!! ……やめて。……帰らないで!!! 帰らないで帰らないで帰らないで帰らないで帰らないで帰らないで帰らないで──!!!」

 彼女は絶叫していた。大粒の涙を流しながら。必死に私の肩を揺さぶり、この場に留めようとする。だが、私の耳はすでにリビングのテレビの音を聞いていた。

『6時になりました。9月3日火曜日の、朝のニュースです』

「……もう、朝……?」

 かき消そうとする彼女の叫びもむなしく、私はついに目覚めた。

 ──すぐに会いに来て。

 その言葉を認識したのを最後に。


 しばらくは、天井をじっと見つめていた。天井、とは言ったものの、二段ベッドの二階を下から見ているだけだ。いつもなら特に何も感じない景色。だけど、今日はなんだか、重々しく見える。今にも落下してきそうだ。

「……いや、違うか」

 脳内の独白に終止符を打ち、勢いをつけてガバッと起き上がる。

「……きっと、落ちてきてほしいだけだ」

 そう自分を納得させ、すぐにベッドの柵をまたいだ。

 ”夢”は終わった。ここからは、”ドブの中”だ。


 朝ごはんのチーズトーストをボーっと見つめる。そろそろ一分経つだろうかという頃、声が耳の鼓膜を震わせた。

「──お姉ちゃん大丈夫~?」

 妹だ。名前は、海藤雀かいどうすずめ。毎朝出発ギリギリに起きては、食パンを咥えて家を飛び出す超マイペース。だが、今日は起きる時間が妙に早い気がする。

「早起きじゃん」

 そっけなく言って、私はトーストにかぶりつく。トロトロのチーズが口の中でとろける感覚。歯を磨いても顔を洗ってもあまり覚めなかった意識が、ようやくはっきりと輪郭を持つ。

 雀は、気が付いたらいなくなっていた。ダイニングをきょろきょろと見まわしていると、キッチンから声が聞こえた。「お姉ちゃんに早起きじゃんって言われたー」という嬉しそうな声が。私も、思わず口角を上げた。そして、それが今日最後の”幸せ”だった。


「うわっ」

 教室のドアの前でたむろしていた連中は、私をにらみつける。まるで、”空気の読めないやつ”に向ける視線だ。何が悪いのだろうか。私はただ、あいつらの間を通り抜けただけだ。本当に、何が悪いの?


「それでさー、カレシがさー」

 無駄にデカい声で自慢話をする輩。見ているだけでため息が出る。まぁ、これに関しては無視すればいいだけなのだが。そんな簡単なこともできないほどに、今朝は眠くて、イライラする。

 そうだ、このまま眠ってしまおうか。そう思い、チラッと時計を見ると、8時15分。ホームルームまで10分もある。

「……寝るか」

 誰に宣言するわけでもなく、ただ声に出した。そして、机に突っ伏した。すると、すぐに意識が遠のいていく。やはり、二度寝は気持ちがいい。


 目が開けると、青い空が見えた。街路樹の葉っぱたちもささめき合っている。車も何秒かに一度通り過ぎる。だが、場は静寂そのものだった。とても、気持ちがいい。

「──■■ちゃん」

 その時、誰かが名前を呼んだ。どこか遠くで、いや、もしかしてらすぐ近くかもしれない。どちらにしても、その声は、私のことを呼んでいた。

「なぁに……?」

 そよ風を感じながら穏やかな返事を返すと、その人物がこちらに駆け寄ってくるのが分かった。

「■■ちゃん、こんな所にいたの……!?」

 それは、確かに聞き覚えのある声だった。顔を向けてみると、”彼女”だ。息を切らしながら、私の目を見つめている。

「どうしてここに?」

 相変わらず穏やかな気持ちのまま、私は彼女に問いかける。すると、彼女は少し困ったような顔をした。私が首をかしげると、ようやく話した。

「……転移する座標はランダムなの……」

 それを聞いて、私はふんふんとうなづいたものの、意味は一ミリも分かっていない。”座標”なんて言葉、地理や数学の授業でしか聞かない。そうだ、もうすぐホームルームは始まるのだろうか。だとしたら、目覚めなければいけない。

 私がそんなことを考えていると、彼女は困り顔のまま、さらに続けた。

「つまり、■■ちゃんが眠りに就くと、その意識がこの町の”どこか”に飛ばされるんだ。だから、気配を感知するたびに、私はそこに向かわなきゃいけないの」

 長々と説明され、私はようやく納得した。が、同時に焦りを覚えた。この世界、この町は、ただの夢じゃないのだろうか。本当に、どこかに存在するのだろうか。問いは次々と浮かんでくる。そして、不思議と冷や汗をかく。

 ──ダメだ、もうすぐ、チャイムが鳴る。

 突然、脳がそう叫んだ。

 私は、はっきりとした意識の中で、私の顔を不安そうに見つめる彼女に問いかけようとする。それは、今までずっと聞きたかったこと。それなのに不思議と聞く気にならなかったこと。

「あなたの──」

 だが、一歩遅かった。うるさい音声が鼓膜を叩き、私を夢から引き戻した。

 ゆっくりと起き上がり、担任の方をぼんやりと見る。

 ──すぐに会いに来て。

 今回も、その言葉が脳に染みついていた。


 次の再会は、かなり後だった。

 風呂から上がり、洗面所で歯を磨き、自室のベッドへと向かう。廊下の床はギシギシと鳴り、夜の静寂を強調していた。

 ドアを開くと、雀がベッドの二階でゲームをしていた。

「あ、お姉ちゃんあがったー」

 その言葉を聞き流し、私は一直線にベッドへと向かう。もう、我慢の限界だった。

「おやすみ!」

 投げやりに言うと、すぐに布団にもぐり、枕に頭を沈めて、目を閉じた。雀は「おやすみ」とだけ返して、部屋を出て行った。もちろん、電気もしっかり消して。


 日付が変わっても、私はまったく寝就けなかった。妹はとっくに風呂から上がり、ベッドの二階で眠っているというのに。私は、脳が興奮しているのか、眠れなかった。やはり、”早く寝たい”と思う日に限って眠れない。でも、今回は別に、”明日”が楽しみなわけじゃない。”夢”が楽しみなのだ。まぁ、どちらでも変わらないが。

 イライラで無意識に声を荒げそうになるも、ぎりぎりのところで抑える。家族は眠っているのだ。迷惑をかけてはいけない。もう、子供じゃないんだから。

 ──もう、子供じゃないんだから。

 そういえば、雀も言ってたっけ。朝。


『お姉ちゃんに早起きじゃんって言われたー』

『そう、良かったね。偉いじゃんちゃんと起きて。今日は何かあんの?』

『いやぁ~?』

『じゃぁ、なんで?』

『それはねぇ~、もう5年生の二学期だから』

『はは、なんだそれ』

『もう、子供じゃないんだから。早寝早起きはしっかりとしなきゃね』

『おお頼もしい。それじゃぁ、皿洗いも手伝ってもらおっかなー』

『それとこれとは別だよーだ』


 あぁ、思い出すだすとさらに目が覚めてしまう。早く眠りたいのに。

 目をつむっているのも限界になってきた私は、ため息をついて起き上がった。暗くて時計は見えないが、多分もう午前1時くらいだろう。次の日が平日なら、いよいよ焦り始める時間だ。

 だが、今日は違う。とっくに”焦り”は通り過ぎていて、もはやポジティブに考え始める始末だ。

「……別に眠れなくてもいいか」

 自分に言い聞かせるために出した声は、ベッドの二階で寝ている人物の意識をつっついてしまった。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 いや、きっと、ずっと起きていたのだろう。寝起きにしては、声がはっきりしている。

「……大丈夫だよー」

 心配させないよう、私は微笑みながら返した。だが、むくっと起き上がった雀は、怪訝けげんそうな顔でこちらを見つめる。

 私は知らんぷりで目をそらし、掃き出し窓のカーテンをサッと開ける。ちょうど、月がこちらを覗いていた。

「わぁ、満月だ」

 雀は嬉しそうに言うと、急いで梯子はしごを降りる。それを後目しりめに、私は窓のカギを開ける。そして、ゆっくりと窓を滑らせた。

 途端に生暖かい夜風が吹き込み、カーテンを大きく膨らませる。寒くはなかった。まだまだ残暑だ。

 サンダルを履き、ベランダへと出る。雀も、裸足のまま出てきた。私たちは柵の上に腕をのせ、外の景色を見た。

 マンション4階からの住宅街。葉っぱたちはささめきあっている。車も何十秒かに一度通り過ぎる。だが、場は静寂そのものだった。本当に、気持ちがいい。

「なんか久しぶりだねー。こういう感じ」

 雀は、少し恥ずかしそうに言った。私も、恥ずかしさを抱えながら、それでも少しの間、感傷に浸る。

 そのまま眠ってしまいそうになっていた時、雀が私に声をかけた。

「お姉ちゃん、最近寝不足なの?」

 「そんなことないよ」と返しそうになったが、改めて考えてみれば、妹に嘘をつく必要もない。久々に穏やかな気分で、「寝不足かなー」と返す。すぐに「なんで?」と聞かれる。「なんでだろう」と答える。「本当は分かってるくせに」とイヤミな

感じで言われた。「アタリ」と返した。

「──私さ、最近楽しくないんだよねー、いろいろ。勉強とか、人間関係とか、なんか、全体的に。だから、頭の中がすっきりしてないの」

「だからちゃんと眠れてないの?」

「そ。ちゃんと眠れないから、変な夢見ちゃうし」

 考えてみれば、あの夢の中の町も、”彼女”も、リアルに不満な私が作り出した”幻想”なんだろうな。だから、本当は存在しないんだ。きっと。

 でも、それでいい。少しだけ、リアルにも希望が見えてきたから。もう、大丈夫。

 だから──

「だからね、雀。お姉ちゃん、これからは──」

「■■ちゃん?」

 その時、ハッとした。

 私の横で夜景を見ているのは、妹じゃない。名前の分からない、”彼女”だ。というか、私が腕をのせている柵も、うちのベランダの柵じゃない。私は、私たちは、町明かりを反射する黒い川を覗いていたのだ。

「■■ちゃん。聞こえたらちゃんと返事してよ」

 怒り気味に言われ、私はやっと彼女の方を見る。その顔は、相変わらず美しい。──でも、なぜだろう。この前のような”ときめき”は感じない。何も変わらないはずなのに、なぜか全く違う人物を見ているような気分だ。

「……あの、あなたの名前は……?」

 だからか、その言葉もすんなりと出てきた。突然の問いに、彼女はさらに不機嫌になる。それでも、答えてくれた。

「……確かに、このタイミングならちょうどいいね。私は、佐藤さとうミルク。この町の住人。そして、君も今から、この町の住人だよ」

 最後の一言を理解するのには、数秒かかった。その次に出たのは、「え?」という掠れた声だけだった。

「君の名前は?」

 微笑み気味になって問い返す少女に、私はそれ以上の言葉を発せなかった。

「ま、いっか。これから私のことは、ミルって呼んでね」

 ミルは、悪魔のような笑みを浮かべていた。

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