プロローグ 第二幕:倉安小豆の決意
隅田川沿いに佇む、築五十年はくだらない小さな木造の豆腐屋「倉安豆腐店」。朝の柔らかな光が、白い湯気を上げる豆腐を優しく照らしている。店主の倉安小豆は、その湯気に包まれた豆腐を、まるで赤子を見守るような優しい眼差しで見つめていた。33歳。鍛え上げられた肩と腕は、かつてはオリンピックの槍投げで銀メダルを獲得したアスリートだった証だ。しかし、3年前、予期せぬ父の病を機に、アスリートとしての輝かしいキャリアに自ら終止符を打ち、故郷に戻って実家の豆腐屋を継いだ。
「今日も良い出来だ」
小豆は、丁寧に掬い上げた温かい豆腐を、使い込まれた木綿の布で優しく包んだ。アスリート時代とは全く異なる、早朝からの仕込み、重い大豆の運搬、そして何よりも、毎日同じ作業を繰り返す地道な日々。しかし、その表情には不思議なほどの充実感が漂っていた。世界一という栄光を手放しても、亡き祖父の代から続く故郷の味を守り、近所の人々の食卓にささやかな幸せを届けるという、新たな目標を見つけたのだ。
そんな倉安豆腐店に、珍しい来客があった。にぎやかな声と共に現れたのは、地元ケーブルテレビの取材クルーだった。近所の商店街の特集番組で、昔ながらの豆腐作りを紹介したいという。最初は戸惑った小豆だったが、熱心な商店街の会長の頼みと、何よりも亡き祖父が大切にしてきた店の味を、少しでも多くの人に知ってもらいたいという純粋な思いから、取材を受けることにした。
カメラの前で、小豆は少し緊張しながらも、豆腐作りへの情熱を語った。厳選された国産大豆へのこだわり、隅田川の清らかな地下水への感謝、そして何よりも、創業以来変わらない家族の愛情がたっぷりと詰まっていること。その飾らない言葉と真摯な姿は、テレビを通して多くの人々の心に温かい光を灯すだろう。取材中、ふと小豆の目に入ったのは、店の奥の棚に飾られた古い木製の小さな槍の穂先だった。それは、彼が幼い頃、祖父と川原で遊んだ思い出の品だ。
しかし、この何気ない取材が、小豆の平穏な日常に小さな波紋を広げることになる。放送を見た人々からの温かい反響、そして、数日後にかかってきた予期せぬ人物からの電話。それは、小豆が心の奥底にしまい込んでいた、アスリート時代の苦い記憶と再び向き合うきっかけとなる出来事だった。電話の相手は、長い間連絡を取っていなかった、当時のライバルだった。「どうしても、君に話しておきたいことがあるんだ」という、どこか不安を含んだ声が、小豆の胸に小さな石を投げ込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。