パラレル.エクリプス

わら

プロローグ 第一幕:不破雷蔵の憂鬱


歌舞伎町の喧騒を背に、古びた雑居ビルの二階にひっそりと佇む「不破探偵社」。その薄汚れたドアには、手書きで力なく「不破雷蔵」と書かれたプレートが掛かっている。室内はさらに物寂しい様子だった。積み上げられたままの書類の山には、見覚えのあるクレフリード探偵事務所の封筒が混じっている。空になった複数のカップラーメンの容器は、不摂生な生活を物語り、埃を被った観葉植物だけが、かろうじて生の色を保っていた。その中で、探偵・不破雷蔵は、軋む安物のパイプ椅子に深く腰掛け、煙草の煙を燻らせながら天井を見上げていた。天井の染みは、彼の心に蟠る過去の出来事のように、曖昧でいて拭い去れない。

「はぁ……」

深いため息は、この男の淀んだ現状を如実に物語っている。36歳。かつてはクレフリード探偵事務所で、その冷静さと鋭い洞察力で数々の難事件を解決してきたエースだったという。しかし、6年前、ある失踪事件を追う中で消息を絶ち、事務所にも多大な損害を与えた末に、ひっそりとこの歌舞伎町に舞い戻り、鳴かず飛ばずの探偵業を営んでいる。正確に言えば、「探偵業を営んでいる」というよりは、「過去の栄光に縋りながら、どうにか今日を生き延びている」というのが実情に近い。家賃は三ヶ月滞納。大家の金切り声が、薄い壁を隔てて聞こえてくるのは日常茶飯事だ。

今日の依頼はまだゼロ。午前中から事務所に籠っているが、鳴るのは古びた電話機の無機質な沈黙ばかりだ。不破は、擦り切れたジッポの火を点け、煙をゆっくりと吐き出した。ジッポには、かすかに「R・F」というイニシャルが刻まれている。


そんな侘しい静寂を破るように、事務所のドアが遠慮がちにノックされた。

「どうぞ」

不破が気のない返事をすると、若い女性が不安げな表情で顔を覗かせた。ショートカットから覗く大きな瞳が、わずかに潤んでいる。手に握られたクリアファイルが、彼女の緊張を物語っていた。

「あの……不破探偵社さんでしょうか?」

「ええ、そうですよ。私が不破です。何かご用ですか?」

女性は一歩踏み出し、少しだけ安堵の表情を見せた。「すみません、こんな時間に……」と小声で言いながら、部屋の中を慎重にうかがった。

「わたくし、若手ジャーナリストの柴田文と申します。実はずっと探していた猫がいなくなってしまって……」

不破は内心で小さく舌打ちをした。「猫探しか……」かつての彼ならば、鼻で笑って断っていたかもしれない。しかし、今の彼には依頼を選ぶ余裕などない。どんな小さな仕事でも、一円でも収入が欲しいのだ。


「詳しくお聞かせください」

柴田文は、クリアファイルから数枚の写真を取り出した。ふわふわとした茶色の毛並みの、丸い瞳が愛らしい猫の写真だった。不破はそれを一瞥し、投げ捨てるようにデスクの上に置いた。しかし、その瞬間、写真の隅に写り込んだ、特徴的な模様の入ったキーホルダーを、彼の目は捉えていた。


「いなくなった状況は? 特徴は?」

柴田は、少し戸惑いながらも、猫の名前やいなくなった場所、時間を説明し始めた。不破は、煙草の煙を吐き出しながら、彼女の話を無関心そうに聞いているように見えた。しかし、その冷徹な瞳の奥では、柴田の語る猫の失踪場所が、以前彼が関わった小さな事件の現場に近いことに気づいていた。それは、退屈な日常に現れた、ほんの小さな波紋だった。彼自身、まだこの猫の失踪が、やがて自身を、そして他の人々の運命をも巻き込む大きな渦へと繋がっていくとは知る由もなかった。ただ、目の前の依頼をこなすことだけが、今の彼にとっての、かすかな希望の光だった。

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