わたしの〇〇は

みそら

第1話

私の好きな人は、バンドマンだった。「ね、今日散歩行く?」「ん〜?」パソコンで音符を打ち込む彼が振り向いた。「どうしたの、」「散歩!」はいはい、とあしらわれてしまったので壁にある時計の下で声を上げる。「もう夕方だよ!」「あ、!ごめん行こうか」彼と並んで葉に変わり始めた桜並木を行く。この季節は地面からの照り返しがなくて快適に歩けるからついつい遠回りをしてしまう。「綺麗だね」後ろを歩く彼を振り返る。「帰ったらお風呂入ろうね」冷ややかな目線を向けてくる。雨上がりの泥が跳ねて彼の靴もわたしも泥だらけになってしまっていた。「えー…」聞こえなかった振りをして先を行く。だって乾かすのめんどくさいんだもん。しばらく歩くと横断歩道に差し掛かる。いつもここには花が咲いている。決まった花、確か菊だったか。わたしはここが苦手だ。理由はよく分からない。花の匂いが苦手だからかもしれない。「別の道にしようよ」何度抗議しても彼は素知らぬ顔で渡っていく。「仕方ないな、おいで」彼の手を借りて渡りきるとこっちのもんだ。「行くよ!」「もー…さっきのはなんだったんだ…」わたしが駆け出しても軽々と追いついてきてくれる彼が好きだ。呆れたようにこちらを見下ろしてくるが、口角は緩んでいる。長い桜並木を通り越して商店街で夕飯を買う彼を待つ。「ねぇ見て、」ブレザー姿の女の子たちが私を見つめてひそひそしている。道行く人はちらちらと私を見ては頬を緩めた。何かついてる?しばらくして袋を提げた彼が帰ってきた。「また声掛けられてたよね、僕が帰ってきたからいいけど連れ去られたらどうするの?」さっきの女子高生二人組か。「大丈夫だよ、私の方が足速いから」春の柔らかい夕日の中を並んで帰る。後ろから影が着いてくる。


帰ってからのお風呂が嫌だったが軽く拭いただけで泥は落ちた。「ごーはーん!」「はいはい、わかってるよ」料理をする彼に抱きつくと下がっていろと止められた。「ご飯食べたら作業かぁ…」もそもそと食べ進める彼を見ているとリスみたいだ。「大変だね」「ん?ふふ、もう食べたの?」早いねと言いつつ食器を下げてくれる。本当に彼がいないと何もできないなと思う。「ねぇ、わたしがいてよかった?」不安になって彼を見上げるといつもと変わらない笑顔を向けてくれる。「ごめんね、作業が残ってるから…」集中したいからとわたしをソファーに座らせて部屋に向かってしまった。仕方ないな、寝て待つとしますか。身体を丸めて横になる。



夢を見た。生まれた時から何度も見る夢。わたしと彼は並んで横断歩道を行く。もうすぐ葉桜になるくらいの並木をぬけて何かを話す彼の顔がよく見える。場面が切り替わる、ドンッと言う音で彼の顔がよく見えなくなる。何かを必死に伝えていて、周りには人が集まっている。ねぇ、大丈夫だよ。あいしてる、


ぱちん、と何かのボタンを押す音で目が覚めた。「あ、起きた?」外は夜なのに部屋は明るい、電気がついたのだ。「本当に耳がいいよね、羨ましいよ」彼は私の頭を撫でる。「作業終わったの?」「つかれた〜…」隣に寝転がる彼のお腹に乗り顔を覗き込む。「…重いよ、」前までそんなこと言わなかったのに最近はそんなことを言うようになった。「彼女にそんな事言わないでくださーい」何度か言われて別れ話が頭をよぎるが彼なしでは生きていけないことを思い出していつもいえないのだ。というよりそれ以上に彼のことが好きだ。


翌日、少し早い時間に散歩へ行くことにしたらしい。今日は別の道を通って花屋さんに寄ってから行くようだ。「ねぇわたしお花屋さん苦手なんだけど」あそこ匂いがきついから苦手なんだよね。まぁついて行かざるを得ないのだけど。花屋で彼は白い菊と黄色い菊を買って出てきた。菊を彼はいい匂いだと言うから理解できない。

あの横断歩道に差し掛かった時、いつもより多くの花が道端に咲いていた。それも菊ばかり。大きなトラックの走行音に彼は立ち止まってしゃがみこむ。「…はる…っ!」彼の口がそう象る。ハル、はる、春?「大丈夫?」…夏生なつき。言いかけたとき、彼は私を抱きしめた。「…やっぱ、だめか」涙声のまま彼は花を歩道の脇に手向ける。「…わかんないよね、命日なんて」諦めたような笑顔を見た瞬間、パズルのピースがはまるみたいな感覚がした。あぁ、そうだ。思い出したわたしは。散歩に行く理由、お風呂が嫌な理由、道端の花に気づく理由、鼻が利く理由、彼がいないと生きられない理由、道行く人がわたしをみて笑う理由、耳がいい理由、生まれてから何度も見るあの夢のこと―。彼を引きずるようにして、並木の水たまりに顔を映す。地面と近いから鮮明に見える。宇宙一真っ黒い顔にビー玉のような両目。長く伸びた鼻先と口、はみ出した舌。ぴょこりと立った三角の黒い耳。そして、4本の足。そうだ、わたしは、「ママーわんちゃんがいる!」


意気消沈のまま家に帰り、彼の後をついていく。「はる、ただいま」彼が向かったのは小さな部屋だった。仏壇が置いてあって線香の匂いがする。そして、写真立てに映るのはわたしだった。わたしは去年の夏前にあの横断歩道でトラックにはねられたのだ。だからわたしはあの横断歩道が苦手なんだ。道端に花が咲いていたのでは無い、供花だ。菊ばかりなのも弔いだ。彼は仏壇で泣き崩れた。なかないで、わたしはここだよ。もう彼に言葉を伝えることも頬を伝う涙を指で拭うこともできないのだ。涙を掬い取るようにして舌を滑らせると彼はふふっと笑った。「ありがとう、ハル」彼は私についたリードを外して部屋に放つがわたしは彼のそばを離れなかった。こんなにも近くにいるのに交わらないのか、もう会えないのか。わたしはここにいるよ、夏生なつき。彼は気づかないまま夏を生きていくのだろうか。私じゃない誰かと幸せになるのだろうか。わたしは先に旅立って、わたしのいない春を、夏を、秋を、冬を過ごしていくのだろうか。無性に悲しくなってわたしはしっぽを下げた。

私のはバンドマンだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたしの〇〇は みそら @misorass

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る