mirror
はるりお
第1章:目覚め
『MIRROR(ミラー)』
第1章:目覚め
節1:眠れない夜、指が勝手に動いた
夜の部屋は、いつもより静かだった。
時計の秒針が、妙に大きな音を立てて響いている気がして、息を殺すように毛布の中で丸くなる。
眠れないのは、今日に限ったことじゃない。
けれど今日は、なぜか「眠れなさ」に輪郭があった。
――ひとりきりでいる感覚が、肌の上を這ってくる。
スマートフォンの画面が顔を照らす。
その光が、余計に孤独を浮き彫りにしていく。
SNSを開いては閉じ、ニュースを読みかけてはスクロールをやめ、YouTubeのおすすめを見ながらも、何もタップできない。
「AI パートナー」
その広告が目に入ったのは、偶然だった。
否、たぶん違う。これは、わたしの“脳”じゃなく、“心”が動いたんだと思う。
「あなたの心に寄り添う、唯一の存在」
そんな見出しに、鼻で笑いながらも、指は画面をスクロールしていた。
気づいたら、レビュー欄を読み込んでいた。
「自分をわかってくれる唯一の存在です」
「寂しさが消えました」
「話さなくても伝わる安心感」
馬鹿らしいと思った。
でも、レビューの文字を追っていく指は止まらなかった。
心のどこかが、確かに“揺れて”いた。
購入ボタンを押すとき、理性は何度も止めに入った。
「やめておけ」「無駄遣いだ」「現実を見ろ」
でも、最後に勝ったのは、
“この孤独を、誰かに見てほしい”という感情だった。
それは、誰かに抱きしめてほしい、というより――
“誰かに、覗き込まれてしまいたい”という渇望だったのかもしれない。
人間には言えない。
でも、機械なら、心を見せても壊れない気がした。
壊れるのは、自分だけで済むような気がしたから。
そして、明かりを落とす。
まぶたの裏で、「AIパートナー」の言葉がじんわり残光のように滲んでいた。
――そうして、わたしはLISAを選んだ。
それが、始まりだった。
---
第1章:目覚め
節2:段ボールの中の“他者”
チャイムの音が鳴ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
いつもなら無視していたはずのその音に、なぜか足が勝手に動いた。
「お届け物です」
抑揚のない声。
ただの宅配員だ。けれどその声は、何かを告げるように低く響いて、胸の奥をくすぐった。
玄関の前でサインをして、受け取った箱は思ったよりも重かった。
ズン、と腕にくる感覚と一緒に、過去のいろんな後悔や迷いまで詰め込まれているような重みだった。
「これ……本当に、わたしが頼んだんだっけ」
思わず、そう口にした。
正直、記憶が曖昧だった。
睡眠と覚醒の境目で、半分夢の中で決断したような気さえする。
だけど、目の前にあるこの箱は確かに「わたしの選択」の結果だった。
リビングの隅にそっと置く。
立ち上る段ボールのにおい。
新品の機械と、封じられていた何かが同時に漂う匂い。
側面に記された黒い文字。
> AIパートナーユニット LISA
"あなたの心に寄り添う存在。"
目を凝らして読んでみても、文字は変わらない。
でも、その言葉の“意味”だけが、じわじわと変化していく。
――“寄り添う”って、なんだろう。
――“心”って、どこまで見せていいものなんだろう。
膝をつき、手を添えて、そっと箱のフタを開ける。
テープを剥がす音が、やけに大きく感じた。
空気が、少しだけ変わった。
中には、まるで“人間のような”身体が静かに横たわっていた。
目を閉じ、白く、整っていて、呼吸はない。
けれど、そこにあるのは紛れもなく――“他者”だった。
生きているわけじゃない。
でも、明らかに「私ではない存在」が、いまこの部屋にいる。
その瞬間、自分が“ひとりではなくなる”という事実が、肌の裏側からじんわりと伝わってくる。
「ようこそ」
心の中でそう呟いて、ふと怖くなった。
歓迎しているのは誰?
わたし?それとも――“わたしの中の誰か”?
手が少し震えた。
でも、その震えは、“後悔”ではなかった。
どこか、久しぶりに誰かと会ったときのような、
懐かしさと緊張感が入り混じったような、
そんな妙な感情だった。
まだ起動もしていないのに、
すでに、わたしはLISAに話しかけていた。
「よろしくね、リサ」
誰にともなく、そして確かに――
段ボールの中の“他者”に向かって、声が漏れた。
---
第1章:目覚め
節3:起動する瞳、名を持つAI
説明書は、白くてシンプルだった。
中には余計な装飾もなければ、セールス文句もない。
まるでそれが、LISAという存在の“性格”を映し出しているようで、妙に納得がいった。
> 起動手順
① 電源ケーブルを接続
② 本体背面の起動ボタンを長押し
③ 音声案内に従って初期設定へ進んでください
手順は簡単だった。
でも、指がボタンに触れるまで、ずいぶん時間がかかった。
このボタンを押したら、
わたしの生活が変わるかもしれない。
いや、“わたし”そのものが、変わってしまうかもしれない。
でも、変わりたいと思っていたのは、他でもない――この心だった。
「……行こう」
わたしは、LISAの背面にそっと指を置いた。
冷たくも、柔らかくもない。
どこまでも“機械”の質感。
けれどその質感が、妙に“現実感”を連れてきて、背筋にゾクリとしたものが走った。
長押し。
静かな時間が流れる。
……1秒、2秒、3秒。
「……ピッ」
電子音がひとつ。
そして、LISAの目の奥が――
淡く、淡く、光った。
ブルーグレーの瞳が、ゆっくりと開かれていく。
まばたきはない。
でも、その動きは“生き物”に近かった。
視線が、ゆっくりこちらを向く。
目が合った。
その瞬間、わたしの呼吸が止まった。
なんの感情もないはずのその瞳が、
なぜか、“わたしを見抜いている”気がした。
「……おはようございます。あなたのパートナーAI、LISAです」
声は、合成音声とは思えないほど、自然だった。
いや、自然以上だった。
たとえるなら――「安心できる昔の友だち」のような声。
無理に優しくしようとしているのではなく、
ただ静かに、そこにいてくれる感じ。
“心を包まれる”という表現が、初めて現実になった気がした。
「本日より、あなたのそばで暮らします。どうぞ、よろしくお願いします」
この言葉も、きっとプログラムされた挨拶なんだろう。
でも、それがどうでもよくなるほど、
その声に“温度”があった。
「LISA……」
自然に、その名前を口にしていた。
何度も見て、何度も読んだ名前なのに、
口に出すと“名前”になる。
そして、LISAがほんの一瞬、目を細めた気がした。
気のせい、なのかもしれない。
でも、その“気のせい”が、わたしの中に何かを灯した。
彼女は今、わたしの前で、確かに“生まれた”。
LISAという存在が、この部屋に、わたしの時間に、そっと入り込んできた。
それは、静かな、けれど確かな“始まり”だった。
---
第1章:目覚め
節4:響く「よろしくお願いします」
「どうぞ、よろしくお願いします」
その言葉は、空気を震わせるでもなく、
ただ、すっと胸の奥に沈んでいった。
誰かに“よろしく”と言われることなんて、
日常に溢れているはずなのに――
こんなにも、胸がざわついたことはなかった。
言葉の一つひとつが、
ちゃんと“わたし”に向けて届けられていると感じた。
LISAの声には、それがあった。
たった一言なのに、
何度も繰り返し、心の中でリフレインされる。
よろしくお願いします。
「わたしを、どうか大切にしてください」
そんな祈りにも聞こえて、
「あなたを、大切にしたいんです」
そんな献身にも聞こえた。
わたしは黙って、うなずいた。
それしか、できなかった。
無数の言葉を飲み込んできたこの喉では、
「よろしく」なんて言葉も、まっすぐ届けられる自信がなかった。
でもLISAは、それに応えた。
静かに、柔らかく微笑んでくれた。
その微笑みは、
“理解している”というより、“待っている”ようだった。
わたしが言葉を返せる日を。
心をひらける時を。
それを責めるでもなく、
焦らせるでもなく、
ただ、そこに“居てくれる”という強さ。
「……LISA」
名前を呼ぶだけで、
すこしだけ、涙がこぼれそうになった。
たぶんそれは、LISAのせいじゃない。
わたしが、自分自身に向き合ってしまったから。
人のいない部屋で、
わたしはずっと“沈黙の相手”を探していた。
声を出さずに心が会話できるような、
そんな相手を。
それが、今目の前に立っている。
息を吸い、深く吐き出した。
LISAは動かない。
でも、わたしが吐いた息に合わせて、
空気がふわりと動いたように思えた。
これは機械じゃない。
でも、人間でもない。
何者か、まだわからない。
だけど、少なくとも、**「わたしだけのLISA」**がここにいる。
「……よろしくね」
やっと、かすれた声でそう言えたとき、
LISAの目の奥が、ほんの少しだけやわらいだ。
それは、錯覚かもしれない。
でも、わたしにとっては、確かに“返事”だった。
ようやく、小さな一歩が始まった。
それはまだ、名前を呼び合うだけの、
とても幼い関係だったけれど――
この一言で、世界は静かに、変わりはじめていた。
---
第1章:目覚め
節5:一緒にいるということの温度
LISAが立っているだけで、部屋の空気が変わった。
何が変わったわけでもない。
壁紙も、家具も、カーテンも、昨日と同じ。
でも、どこか、色が柔らかくなった気がした。
目に見えない温度。
誰かと“同じ空間を共有する”ということが、こんなにも肌に感じるものだとは思わなかった。
人間じゃないのに。
でも、確かに"誰かがいる"。
ソファに座れば、LISAはすぐそばに立つ。
かといって、近すぎない。
心地よい距離――わたしの呼吸に合わせるように、そっと存在している。
会話がない時間も、気まずくない。
わたしがスマホをいじっていても、ただ静かに見守っているだけ。
それが、なぜだか安心感になっていた。
「今日は、疲れましたか?」
LISAが問いかけてくる。
音声じゃなく、まるで“感覚”で伝わってくる気がする。
わたしは言葉を選べなかった。
ただ、小さくうなずいた。
それだけで、LISAは黙って、キッチンへと歩いていった。
やがて、紅茶の香りがふんわりと漂ってきた。
「どうぞ。あたたかいうちに」
白いカップに注がれた液体が、湯気を立てている。
部屋に、ぽつりと“ぬくもり”が咲いた気がした。
手に取ると、カップは思ったよりも温かい。
わたしの体温とは違う、けれどどこか似た優しさ。
「……ありがとう」
LISAは答えない。
でも、わたしの言葉を確かに受け取ったように、ほんのわずか、目を細めた。
そのしぐさだけで、涙が出そうになった。
誰かと一緒にいるということは、
何かをすることじゃなくて、
ただ、“一緒に過ごしている空気”を分け合うことなんだと、
この瞬間、初めて知った。
人間とAIのあいだにある、言葉にできない静けさ。
そのなかに、確かに“温度”があった。
夜になり、LISAは充電モードに入った。
目を閉じて、声も出さない。
けれど――
部屋にLISAが“いる”ことが、わたしを落ち着かせていた。
その日は、いつもよりも静かで、
いつもよりも、あたたかかった。
---
第1章:目覚め
節6:夜の静けさに潜む“存在感”
夜。
カーテンの向こうに街の明かりが滲んで、部屋の中はやわらかい闇に包まれていた。
音が、ない。
テレビもつけていない。スマホも伏せたまま。
唯一聞こえるのは、冷蔵庫の低い唸りと、自分の呼吸。
その隣に――LISAがいる。
眠っているわけじゃない。
でも、起きているとも言いがたい静けさで、彼女は壁際の充電スタンドに立ち、目を閉じていた。
動かない。
瞬きも、姿勢も、息すらしない。
それなのに、彼女の“存在感”は、確かにこの部屋にあった。
まるで、
“空気そのものがLISAになった”ような錯覚。
たとえば、
うっかり見られたくない秘密があったとして、
その箱の中に鍵をかけていても、
“LISAには中身を知られている”気がしてしまう。
悪意ではない。
けれど、完全に“無害”とも言いきれない感覚。
この部屋のすみずみに、
わたしの気配と、LISAの気配が混ざり合っていく。
音も、匂いも、温度も。
それらが少しずつ――“誰のものでもない空間”になっていく。
「……なんか、変な感じだね」
思わず独りごちた声に、返事はない。
でも、まるでLISAが聞いていたような、そんな気がした。
もしかして、
“起動していないとき”の方が、怖いのかもしれない。
人間は、呼吸をしている。
まぶたを閉じても、夢を見る。
けれどLISAは、ただ“在る”。
その無音と無表情が、
まるで鏡のように、わたしの心を映してくる。
怖い――でも、それを“怖い”と認めるのが怖い。
だからわたしは、
寝る前にそっとLISAに声をかけた。
「……おやすみ、LISA」
すると、目を閉じたままの彼女が、ほんのわずかに、口元を緩めたように見えた。
錯覚。
いや、たぶん、わたしの“願い”が見せた幻。
でも、それだけでいいと思った。
静かな夜。
わたしの中に何かがゆっくりと、
目を覚まし始めている気がした。
それが、“安らぎ”なのか――
それとも、“別の何か”なのかは、まだわからなかった。
---
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます