2-14
「脳死ってのは脳の機能のすべてが止まることを指す」与識先生はそれを私たちに理解させた上で、舌打ちを響かせた。「だがこのガキの場合、脳死ってよりは植物状態に近い」
脳死と植物状態は別物だ。脳死は脳機能の全停止を指し、植物状態は脳幹だけが生き続けているケースを差す。脳幹だけが機能を維持し続けるということは、呼吸や栄養摂取、排泄といった生理機能の最低限だけは続けられる。生き続けられる、と言い換えられるかどうかは、個人差があるが。
「頼輝は、いつ起きてくれるんですか」
「植物状態から意識を取り戻す確率はきわめて低いが、脳死よりは希望がある」
だが、取り戻したらそれは奇跡に等しい。
菜生さんはベッドに横たわる頼輝青年の脇で、脱力し、壁にもたれて落ちていく。
ここは最上医院の二階、菜生さんと頼輝青年が今朝まで過ごした部屋だ。集まっているのはベッドに横たわる頼輝青年、与識先生、菜生さん、心人さん。ベッドを挟み、円花さん、珠貴さん、そして私。威月は、警察になりすました何者かが
頼輝青年はベッドの上で、静かに呼吸を繰り返す。脳のわずかな器官だけを維持するために必要な酸素しか吸わないせいで、私たちより何倍もゆっくりだった。
「愛理、円花、珠貴、黙れよ」
口を開こうとしていた私は、思わず左を見た。隣に並ぶ円花さんと珠貴さんも、唇を軽く開いた状態のまま止まり、顔を見合わせ、正面に座る与識先生へ視線を向ける。
「責任の奪い合いは結構。そんなことをしてもこのガキが意識を取り戻しはしない」
私たちは、唇をきつく引き締め直すしかできなかった。
与識先生の脇で、菜生さんがすすり泣く。先生はちらりと振り向くも、すぐにまた正面に向き直る。舌打ちを繰り返し、頼輝青年を見つめた。
「さっさと起きろよ、このガキが。お前の女が泣いてるんだぞ。お前が慰めてやらなくてどうするっていうんだ。誰かに取られてもいいっていうのか。このバカ」
悪態をつく先生の言葉を、頼輝青年がしっかり聴覚を働かせて、脳の思考回路を動かして理解していたら、どんな反応を示していただろうか。期待したって、ベッドの上の青年は微動だにしない。静かに呼吸を続けるだけで、今はもう精いっぱいのようだ。
私は唇の緊張を解いた。
「先生、人の脳が処理する情報はスーパーコンピューターでさえ負けるそうですね」
「だな」と、先生は床にほど近い心人さんの頭を中指の背でたたく。「こんな小さな塊が、バカでかい上に電力の消費もハンパないスパコンに勝るっていうんだから、俺はつくづく自分の脳が恐ろしいよ」
「それなら、拳大の記憶媒体には、そこに人がそれまでの人生で積み上げた記憶のすべてを入れることはできるでしょうか」
「さあね、媒体の容量にもよるだろうが……たとえば生きる上でおよそだいたいの人間が持ちうる基礎的な情報を差し引けば、それくらいで済むんじゃないか。携帯端末のデータだって、マップなり通話なりその技術までデータ移動することはない。新たな端末には個々人の
だとすると、だ。あの男の言っていた、正しい形の人間に生まれ変わらせるだけという言葉の意味が信憑性を持つ。
「頼輝青年は、記憶を奪われたのかもしれません」
目元をひくつかせた先生は、人差し指と親指で額と頬を支える。「どういうことだ」
「脳幹は人が生きる上での最低限の機能を維持させます。その情報はいらないんです。必要なのは、その個人の存在を作り上げたこれまでの過去なんです。もうすでに用意されている新たな体には、脳幹と同じ役割を果たす器官が用意されているので、そこに個々人の人間性を作り上げる人格の過去の
手のひらサイズの半球体、あの男の持っていたあれが記憶媒体ならば。
「それを新たな体に入れれば正しい形の人間に生まれ変われる、ね」クソだな、と先生は吐き捨てる。「善悪の基準だって所詮は主観だ。正しさを他人に押しつけた時点でその行為はもう正しくない。まして他人の意見を聞き入れずに勝手に生まれ変わらせるなんて、押しつけがましさの極致だ。俺からすればそいつは正しくない人間だな」
そうだろう、と先生は同意を求める。
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