2-8

 頼輝青年への態度には冷たさがにじむものの、それ以外においては非常に腰の低い人だ。対人する人の数だけ、人には顔があるということか。

 先生は蜜緒の作ったナポリタンを上機嫌に食べてくれた(三度確認したおかげで取り違えなかった)。私のジェノベーゼと円花さんのアラビアータと珠貴さんのカルボナーラは分け合って食べて、血のつながりがほとんどない四人でも、家族団らんと呼べるほのぼのとした夕食タイムを終えた。

 来客の菜生さんに浴室を真っ先に貸し出し、続いて私、円花さんと珠貴さんは一緒に入り、最後に与識先生が入浴する。五十越えのおっさんが入ったあとの風呂なんかいやだろ、という気づかいで与識先生はいつも最後に入浴する。若い頃は女にモテた、という心人さんによる与識先生の若かりし時代も想像がつく思いやりを私たちは受け取っている。


 窓から見える下弦の月が、空のてっぺんでまばゆい光を放つ、深夜一時。ベッドからのろのろと起き上がる。


「こんばんは、愛理」

 窓を開けてあげれば、闇夜の闖入者来る。

「おかえりなさい。実家なのに玄関から入らないなんて変な人ね」

「変な人って言い方はどうなんだ」

「変な人じゃないなら変態じゃない。女の部屋に深夜忍び込むなんて」

「いうなれば夜這いなんだよな。でも怪しまれるどころか、愛理は危機感のかけらもなく受け入れてくれるから、それもそれで男としてのプライドがガタガタに傷つくんだけど」


 最終的には何もしないのだから、男性の中ではとびきり変な人だ。

 紙袋を片手に、心人さんは窓際から床に降り立つ。フローリングの上で靴を脱ぐと、窓に寄せておいてあるベッドへどっかりと腰かけた。


「こんな時間に帰ってくるってどうしたの、めずらしい」

「水守が泣きながら連絡してくるから、話を聞いた。そうしたらもう、ここに来るしかなくなった」


 やれ長男様と末っ子の関係だもの、こうくるのは予想外ではなかったけれども。

 紙袋に入っていたコーヒーを受け取り、ベッドに座った自分のももに挟み込む。熱めのコーヒーが、じんわりと体を温めてくれる。心人さんは自分の分を飲んでほっと息を吐き出し、部屋にコーヒーの香りを散漫させた。


「奇病患者がいなくなった、さらわれた可能性がある……擁護団体様のご登場かな」


 現実問題、そのうち二人がここにいますとは伝えられない。与識先生による箝口令が敷かれている手前、もし私が口を滑らせたら、とばっちりを受けるのは心人さんだ。


「と思ったんだけど、どうやら違うみたいなんだよね」

 コーヒーを吹き冷ましながら飲む心人さんに、思わず顔を向ける。月光に照らされた長男の美麗な顔立ちは父譲りでありながら、とても優しげだった。

「奇食倶楽部は晩餐会と称して、行き場と身内のない奇病患者を死んだことにしてその体を弔う権利を勝手に所有する。その亡骸は荼毘に付されるんじゃなくて、奇食倶楽部会員、通称大食漢グルマンディーズどもの胃に納められる。よって晩餐会直後の大食漢どもは、信じられないくらいぶくぶく太る。ところが俺の知っている連中は、みんな平常運転で奇病患者保護活動にいそしんでいた」

「じゃあ別の団体の奇食家なんじゃない」

「奇食家はその特異性から、組織設営にかなり神経質なんだよ。あっちで一つ、こっちで一つなんて組織を立ち上げていたらいつか一網打尽にされる。そうならないためには、秘匿性を極限まで高めたごく少人数の一個の団体として存在するのが得策なんだ」


 たった一つしかない奇食に興じる物好きどもが、関わっていない。


「じゃあ個人……でも四十人弱を一気に誘拐するとなればそれなりの規模ってことよね」

「ところで愛理、これ知ってる?」


 心人さんは懐から携帯端末を引き抜いた。フォルダを開くと画像を表示させる。それは蝶の羽の模様だった。上の羽には目玉、下の羽にはハートを描いたデザイン。今でも非常に女性受けが高く、何かとファッションアイコンに利用されている。

胡蝶こちょうのシンボルマークでしょう」

「これが水守の所有するアパート、四十人弱がいなくなった建物の壁に残されていた」

 私は首を振りながら答えた。「模倣犯よ」

「俺もそう思った。でもね」


 よく見るんだ、と端末を押しつけられる。受け取り、凝視した。それは部屋の壁だった。クリーム色の壁紙に、初めは黒に見えたその色味。眠気から覚めた眼球が、ようやく確かな色彩感覚を取り戻す。


「血なの」

「鑑定で、限りなく胡蝶と肯定できる人物の血液と判明したそうだ」

「だって死んだじゃない」


 過激派奇病テロリスト、胡蝶は死んでいる。奇病患者はこの世に存在してはいけない、別世界の住人であるというごくわずかな少数派の意見を汲み、奇病の根絶という大儀のもと凶行を繰り返す。

代表格だった胡蝶は、五年前に警察の対テロ特殊部隊SATによって射殺されていた。


「それとも、警察はまったくの別人を殺していたってでもいうの?」

「俺はそんな間違い犯さないよ」


 そう、そうだ。奇病患者に対しても思いやる姿勢を持つ心人さんが、どうしてそんな凶悪犯を間違える。一般人と間違えて殺すなんて、この人は決してしない。


「それに警察だって、当時きちんと鑑定している。司法解剖だって行って、その体細胞はサンプルとして科警研が凶悪犯罪者の遺伝子解明のために取っておいてある。ただ今回、保存されているDNA情報がこの血液とほぼ一致した」


 過激派奇病テロリストを殲滅する。十年前に国家が掲げた理想を、当時心人さんが所属していた対テロ特殊部隊は五年で成し遂げた。個人で活動を行うテロリストがごくわずか残っているものの、かつてのように一般人も巻き込む無差別テロは起こらなくなった。

 五年が過ぎた今、過激派奇病テロリストのあいだで崇拝の対象になっている胡蝶がよみがえったともなれば、混乱は必至だ。


「もちろん極秘情報だよ、外部にはいっさい漏れてない」

「どの口が外部に漏れてないなんて言うの」

「そこはほら、俺は元職員だから」


 国家の危機管理の甘さは夜中に成人男性を部屋に入れる私以上だ。


「俺の言いたいこと分かってくれるよね、愛理なら」

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