2-1
鼻水と涙を垂らしながら来院してきた顔を、私は知っている。
「メグちゃーん」
両腕を中途半端に持ち上げ、肘を折り手首をぶらんと下げながら近づいてくる姿はもはや幽霊だった。ここは病院なのに、その辺をやつは分かっていない。待合いスペースで診察順を待っている患者さん数名がいぶかしげにやつを見つめた。そして私とやつを交互に見始める。気まずいなんてもんじゃない。
「受付さん、お子さん泣いてますよ」
ご親切に進言してくれた若い女性に否定する。違います、まったくもって違います――バツイチですから私、とまでは言わないが。
「
「やだそっち後ろにパパいるじゃ~ん」
受付の真後ろは分厚いカーテン一枚が仕切りとなり、診察室とこちらを分断している。
つまり、私が呼ぶ呼ばないに関わらず、声は筒抜けだ。
「うるっせえぞ七番目のどら息子! 患者がいる手前でぎゃーぴーやかましいんだよ! いつまでも泣いてんじゃねえ! ガキか!」
忠告する余裕もなく怒鳴られた水守はまた泣く。今度は来院時と別の理由で泣く。三十も近い男が父親に叱られて号泣しているのだ。一見すれば三十路間近とは誰も思わない若さというか、幼さ。末っ子という特性だろうか。それは内面にもよく現れている。甘やかされて育った結果打たれ弱く、何か困ったことがあれば兄に頼りたがる。水守は何かあればここに飛び込んできて、兄全員の連絡先を知る私を真っ先に頼る。
「水守、どうしたの」
カーテンをすり抜けて出てきてくれたのは円花さんだった。なじみの兄弟の登場に、水守はまた涙腺をゆるませて、短い足をせわしく動かして突進した。ヒール履きの円花さんの背は高く、抱きついた水守の顔はちょうど胸あたりに位置する。そんな水守の背中と頭を抱いて、円花さんはよしよしと慰めた。
「ごめん愛理、ちょっと抜けるね」
受付脇の休憩室へ、円花さんは水守を連れて行った。私はカーテン越しの与識先生の指示を受けて、診察室から出てきた患者さんの会計、新たに招く患者さんの名前を呼ぶ。それを終えると、カーテンの隙間からのぞく金髪サングラスのご面相があった。しかし冷静に考えると、この人ふつうに怖いな。街中で見かけたら絶対に避けるタイプだ。
「悪いが」と、親指で示す方角は水守の消えた休憩室。「あのバカの話、少し聞いてやってくれ。どうせ仕事で手に負えないようなことがあったんだ」
「分かりました」
「対処できそうなら頼む。こないだ事務仕事を自力でやって、納税漏れで税務署からこっぴどく叱られてな。バカのくせに好奇心だけは旺盛で困ってるんだ」
「ほんと末っ子って感じですね」
「お前に惚れながら無理やり手込めにしないの、心人がいかにも長男って感じだろ」
長男長女は恋愛が下手というやつか。その点、水守の甘え上手はたしかに末っ子特有という感じがする。……その他は、まあ、いい。どれも変わり者ばかりだけど、心人さんはそんな弟たちをまとめる兄としての自覚をおおいに持ち、みんなを大切にしている。家族を大事にする、とてもイイ男。私なんかにはもったいないくらい。
「俺が言うのもあれだが、たまには心人に優しくしてやれよ」
にっと笑い、与識先生は引っ込んだ。本当、この人が言うのもあれだ。
次の患者さんを診察室に呼び出し、さて、休憩室で待つ水守と円花さんのところへ向かう。看護師二名と医師・受付がそれぞれ一名ずつ休むスペースには、スチールテーブルにパイプいすが人数分並んでいる。漂ってくるのはココアの香りで、甘いものが大好きなのも末っ子感がする。かわいいものだ。これで私より年上とは信じられない。
「それで、水守、どうしたの」
「逃げられちゃったんだ」
「逃げられた? 誰に」
「会社の人」
そこまで経営状態が危機的だったなんて聞いていない。いや、納税漏れが会社のイメージに厳しく働いたのか。どうして決算を自力でやろうとしたんだ。無理なら外部に頼るなり手段はあったはずなのに、泣き虫末っ子社長め。
「それで、会社がまわらなくなってどうすればいいか悩んでるのね」
「会社ってまわるの?」
小鳥のように黒目の大きな水守に見つめられる。まあなんてかわいらしいのかしら、という時期はとっくに過ぎた。人の思考ができない鳥さんか。
「経営がうまくいかなくて悩んでいるのねって聞いてるの」
「そこは副社長と、秘書の子がなんとかしてくれてる」
心人さんいわく、水守の会社はあの二人でほぼ成り立っている。社長に決算に手を出させる考えはまだしも、信用のおける二人だ。その辺は間違いない。
「じゃあなんで会社の人に逃げられたの?」
水守はマグカップを両手で持ってすすり、首をかしげる。
「わかんない」
こっちは首ががくんと折れた。
「どういう職種の人たちがいなくなったの? 経理? 事務?」
「奇病患者の人たち」
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