アンナチュラルハッピーエンド

篝 麦秋

1

 本来ならばこのご時世、受付なんて必要ない。でも私は一生、この仕事を続けていく自信がある。まだもう少し、私たちの世界には生身の人間が必要だからだ。


 最初、それは血に見えた。


「タオルに血液が付着してない。流血ってわけじゃなさそうだ」


 判断するのは、私が勤める病院長である最上さいじょう与識よしき先生だ。金髪にサングラスといった風貌でも、白衣さえ着ていればある程度医者らしく見える謎の現象がこの人には生じる。まあ文句の一つでも口にすればどんな目に遭わされるか分かったものじゃない恐怖心で誰も何も言わないし言えないという割合の方が多いか。横目で見られたら反射的に土下座体勢を整えてしまうようなご面相の持ち主ときている。この人に盾突けるのは、この人の血を分けた息子たちくらいだ。彼らが返り討ちを恐れなければ、だが。


「寄生虫のようなものですか」

「皮膚と肉とのあいだを縦横無尽に駆けまわられちゃ死ぬほど痛いだろうよ。だから寄生虫ともまた違うな」


 先生は患者さんを抱きあげた。生後三ヶ月の男の子。ホテルにあるようなブラウンのふわふわしたバスタオルにくるまれていて、それごと与識先生の腕に抱かれる。


 するとどうだろう。どんな変化が起きるだろう。

 ベッドを挟んだ真向かいの両親は、心配そうにわが子を見つめていた。疲労で顔色を失ってしまった妻の背中を抱く夫の顔色もまた優れないのは明白。それでも二人はただじっと、まっすぐに子どもを見つめている。その目は間違いなく、産まれて間もないわが子を憂慮する二人の親だった。


 そして、杞憂では済まなかった。与識先生に抱かれた赤ちゃんは、呼吸が荒くなる。ぜえぜえと喉に痰を絡ませて激しさを増す。全身に発生していた、出血のような痣も動き出した。地上に出てきたミミズが土中に戻ろうとのたうちまわるがごとく、眼球の血管が血走るがごとく……。


「ひぎゃあ……」


 生まれた激痛にさいなまれ、幼い子どもが全身を震わせた。


「やめて、返してください」


 母親は放っておけるはずもなかった。喘ぎながらベッドによじ登って、与識先生から息子を奪い取る。先生も特に抵抗することなく赤ちゃんを手放して、彼女へ返してしまった。


 するとどうだろう。どんな変化が起きるだろう。

 母親の腕に抱かれた赤ちゃんは、まず呼吸を落ち着かせていく。喉に絡ませていた痰はどこへ消えたというのか、すうっと雑音が減少してやがて消えゆく。体に出ていた痣も、寒さに凍えるかのように動きを鈍らせて、どんどん色味を薄くしていく。震えなんて母親に抱かれた瞬間に消えていた。


「なるほど。まったく意味が分からない」


 お手上げだと、与識先生は外人さんのようなポーズを見せた。首をすくめて手をあげて、嘆息まですればもう完璧。


「ただ、病気じゃないな」


 一見しただけで分かることは、少なくともそれくらいだった。

 この赤ちゃんの病状は、医者に治せるものではない。


 赤ちゃんの震えは母親に伝染していた。今にも泣き出しそうに彼女がつぶやく。「見捨てるんですか、うちの子を」

「まさか」与識先生は苦笑混じりで首を振った。「俺は患者を決して見捨てたりしない」


 この人は、自分が受け入れると決めた患者さんに対しては必ずこう答える。


「助けるんじゃない。俺が診た時点で、その患者は助かることが決まってる」


 だから心配するなと言われても、胸中の疑心暗鬼は払拭できないだろう。助けるためにどんな手段を取られるのか、本当にわが子が助かるのかどうか。不安は多いだろう。不安しかないだろう。

 でも、不安しかない闇の中から見いだした希望が、この病院だったんでしょう?


 だったら、私も先生のために尽力する。


愛理めぐり、つがるに連絡してくれ」


 最上医院の受付嬢、愛理とは私のことだ。

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