第17話 思考の飽和

 言葉が分かるようになった。

 それは、この異世界で生きていく上で、大きな進歩のはずだった。

 仲間たちとの意思疎通が可能になり、情報交換も格段にスムーズになった。

 ……表面上は。


 だが、俺にとって、それは新たな地獄の始まりでもあった。


「ケイ、昨日の見張り、助かったぞ。お前のおかげでゆっくり休めた」

 

 焚き火の前で、レオンが俺に礼を言う。

 その言葉自体に嘘はないのだろう。

 だが、同時に流れ込んでくる彼の思考は……。

 

(……しかし、やはりあの力は不気味だ。いつ暴走するとも限らん。常に警戒は必要だな……)


「おう、気にすんな。持ちつ持たれつだろ?」

 

 俺は、内心の苛立ちを押し殺して、できるだけ平静を装って答える。


「ガッハッハ!  ケイの坊主も、少しは役に立つようになってきたじゃねえか!」

 

 グランが、骨付き肉にかぶりつきながら豪快に笑う。

 

(……まあ、あの力は確かに便利だがな。いざという時の盾にはなるか……)


「ケイ兄ちゃん、これあげる!」

 

 ミラが、どこで摘んできたのか、小さな野の花を俺に差し出す。

 彼女の思考だけは、相変わらず読み取れない。

 それが今は、唯一の救いかもしれない。


「……ありがとうよ、ミラ」

 

 俺は花を受け取り、無理やり笑顔を作った。


 言葉と、思考。

 二つの情報が、常に俺の頭の中に流れ込んでくる。

 言葉が分からなかった頃は、思考のノイズはただの不快な音だった。

 だが、今は違う。

 言葉の意味が分かるからこそ、その裏にある本音……建前、嘘、欺瞞、侮蔑、警戒心、打算……そういったものが、より鮮明に、より直接的に俺の精神をえぐってくる。


 情報量が多すぎるんだ。

 まるで、常に数十個のテレビチャンネルを同時に見せられているような感覚。

 頭痛は以前よりも酷くなり、夜もまともに眠れない日が増えていた。


 仲間たちの顔を見るのが、辛くなってきた。

 彼らの言葉を聞くのが、苦痛になってきた。


 言葉が通じれば、分かり合える?


 そんなのは、幻想だ。

 言葉が通じるからこそ、見えてしまうものがある。

 知りたくなかった、相手の心の暗部が。


 俺は、この増大し続ける思考の洪水の中で、確実に溺れかけていた。

 精神が飽和し、限界が近づいているのを、自分でもはっきりと感じていた。


 ◇


 言葉が通じるようになってから、俺たちのパーティ内の会話量は格段に増えた。

 それは良いこと……のはずだった。

 少なくとも、最初のうちはそう思っていた。


 だが、現実はそんなに単純じゃなかった。


「ケイ、少し顔色が悪いようですが……大丈夫ですか? 昨夜はあまり眠れていなかったのでは?」


 旅の途中、少し遅れて歩いていた俺に、アイリスが心配そうな顔で追いつき、声をかけてきた。

 その言葉自体は、純粋な気遣いのように聞こえる。

 だが……。


(……やはり、まだ能力の反動が残っているのかしら……? それとも、精神的なもの……? 彼の力が安定しなければ、今後の計画にも支障が出る……)


 同時に流れ込んでくる彼女の思考は、俺個人への心配というよりは、俺の『力』や『状態』に対する分析と、それが彼女自身の計画に与える影響への懸念が大部分を占めていた。

 もちろん、心配してくれていないわけではないのだろう。

 だが、その言葉の裏にある打算的な響きが、俺の神経を逆撫でする。


「……別に。少し考え事をしてただけだ」


 俺は素っ気なく答える。

 本当は、昨夜も頭の中に響く思考のノイズでほとんど眠れていなかったのだが、そんなことを正直に話す気にはなれなかった。


「そ、そうですか……? なら良いのですが……。あまり無理はしないでくださいね。貴方には……その、色々と助けてもらっていますから」


 アイリスは、少し慌てたように言葉を続ける。

 その仕草や思考の揺らぎからは、俺に対する戸惑いが感じ取れた。


 だが、それすらも、今の俺には素直に受け取ることができなかった。

 どうせ、それも俺の『力』に対するものなんだろ?

 俺自身じゃなくて。


 そう思うと、彼女の気遣いの言葉も、どこか白々しく聞こえてしまう。

 言葉と思考のギャップ。

 本音と建前の境界線。

 それが常に目の前に突きつけられる現実は、俺が思っていた以上に、心を蝕んでいく。


「……余計なお世話だ」


 俺は、自分でも嫌になるくらい冷たい声でそう言うと、アイリスを追い抜いて、さっさと先へ歩き出してしまった。

 背後で、アイリスが傷ついたような気配がしたのを、感じないふりをして。


 言葉が通じるようになったのに、俺たちの間の距離は、むしろ以前よりも遠くなってしまったのかもしれない。

 テレパシーなんて能力、なければよかったんだ……。

 そんな、どうしようもない考えが、頭から離れなかった。

 

 ◇


 アイリスと言葉を交わした後……いや、一方的に突き放してしまった後、俺の気分は最悪だった。

 言葉が分かるようになったというのに、以前よりもコミュニケーションがうまくいかない。

 むしろ、相手の本音が透けて見えるせいで、疑心暗鬼になり、勝手に壁を作ってしまっている。

 頭痛も酷くなる一方だ。


 俺は、旅の隊列から少し遅れて、一人で歩いていた。

 他の仲間たちの会話(今はもう意味が分かってしまう)も、今は聞きたくなかった。

 レオンとグランは相変わらず何か言い争っているし、ミラは呑気に鼻歌を歌っている。

 そしてアイリスは……さっきの出来事以来、どこか沈んだ様子で、黙って前を歩いていた。


 そんな俺の様子を、少し離れた位置から、じっと観察している視線があった。


 エリザだ。


 彼女は、俺がアイリスと気まずい雰囲気になったことにも、俺の精神状態が不安定になっていることにも、おそらく気づいているのだろう。

 彼女の思考は相変わらず読みにくい。

 感情のノイズがほとんどなく、常に冷静な分析と警戒心がその中心を占めている。


 だが、その視線は、以前にも増して鋭さを増していた。

 それは、単なる監視者の目ではない。

 まるで、欠陥のある道具を値踏みするかのような……。

 あるいは、いつ牙を剥くか分からない危険な獣を観察するかのような、冷徹で、容赦のない視線。


(……精神的に不安定。感情の起伏が激しい)

(……アイリス様との関係も、明らかに悪化している)

(……この男の力は確かに強大だが、制御できなければただの脅威)


 断片的に読み取れる彼女の思考は、俺に対する疑念と不信感で満ちていた。

 言葉には出さない。

 表情にも出さない。

 だが、その視線と、彼女から発せられるピリピリとした空気感が、雄弁にそれを物語っていた。


 居心地が悪い。

 見透かされているような感覚。

 そして、常に背後から狙われているようなプレッシャー。


 俺は舌打ちをすると、わざとエリザから視線を逸らし、歩くペースを速めた。

 分かっている。

 俺が不安定なのは事実だ。

 このままでは、いつかまた暴走して、仲間たちを危険に晒すかもしれない。


 だが、どうしろって言うんだ?

 この思考の洪水から、この本音と建前のギャップから、逃れる術なんて……。


 エリザの冷たい視線が、まるで背中に突き刺さるように、いつまでも俺を追いかけてきていた。


 ◇


 言葉が通じるようになったことで、表面的なコミュニケーションは確かに改善された。

 だが、俺の内面は、以前にも増して荒れ狂っていた。

 言葉とその裏にある思考……その二重の情報奔流は、確実に俺の精神を蝕んでいたのだ。


 その影響は、仲間たちとの関係にも、はっきりと現れ始めていた。

 特に、新しく加わったレオンとグランとの間には、目に見えない亀裂が日々深まっていくのを感じていた。


「ケイ、先ほどの戦闘だが……なぜあの時、もっと早く援護しなかった?  俺が危険だったのが分からなかったのか?」


 ある日の野営準備中、レオンが厳しい口調で俺に詰め寄ってきた。

 彼の言葉は正論だ。

 確かに、俺の判断ミスで彼は危うい状況に陥った。

 だが、俺には聞こえていたのだ。

 彼が内心で俺の力を警戒し、「下手に近づくな」と思っていたことを。


「……すまない。判断が遅れた」

 

 俺は、本心を隠して当たり障りのない謝罪を口にする。


(……本当に反省しているのか?  こいつの考えていることは、さっぱり分からん……)


 レオンの思考には、俺への不信感が渦巻いている。


「ちっ、使えねえな、お前のその妙な力もよぉ!」

 

 今度はグランが、焚き火用の薪を乱暴に放り投げながら吐き捨てるように言った。

 

「いざって時に頼りにならねえんじゃ、意味ねえだろうが!」


(……まあ、いざとなれば盾くらいにはなるか……?  だが、気味が悪ぃのは確かだぜ……)

 

 彼の思考も、俺の力への不満と、得体の知れないものへの嫌悪感に満ちている。


 俺は、彼らの言葉とその裏にある思考のギャップに、言いようのない怒りと虚しさを感じていた。

 分かっている。

 俺が異質で、不安定で、信頼できない存在であることは。

 だが、それを面と向かって(あるいは心の中で)言われ続けるのは、さすがに堪える。


 反論すれば、さらに溝が深まるだけだ。

 かといって、黙っていても、彼らの不満や疑念が消えるわけじゃない。

 むしろ、俺が心を閉ざしているように見えるのか、彼らの態度は日に日に硬化していくようだった。


 アイリスやミラは、そんな俺たちの様子を心配そうに見ている。

 エリザの視線は、ますます冷たくなっていく。


 言葉が通じるようになったというのに、俺たちは少しも分かり合えていない。

 むしろ、テレパシーで相手の本音が読めてしまうからこそ、互いに壁を作り、疑心暗鬼になっている。


 このパーティは、もう限界なのかもしれない……。


 そんな考えが、日に日に俺の中で大きくなっていた。

 

 

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