鼻のつぶれた女

増田朋美

鼻のつぶれた女

寒かったと思ったら昼間は暑い天気が続いている。そんな中で体調を崩している人もいるだろう。健康な人であればまだいいが、ましてや病人にとって、こんな天気は本当に辛いと言えるかもしれない。

その日、杉ちゃんたちは、いつもと変わらずに水穂さんにご飯を食べさせることを、続けていたのであるが、台所に持ってきたお皿を見て、杉ちゃんも由紀子も大きなため息をついた。

「結局、たくあん一切れか。食べたのは。」

杉ちゃんの言う通り、お皿はたくあん一切れしか減っていなかった。それと同時に、また水穂さんが咳き込む声がしたので、由紀子は、すぐに、四畳半に飛び込んだ。水穂さんは、相変わらず激しく咳き込み、口元から赤い液体が漏れているという、いつもと同じパターンを繰り返すのである。由紀子は、苦しいかと声掛けをしたが、頷くだけで、答えは出なかった。

「やれやれ。また咳き込んで、一体いつまでこんなことをさせるつもりだ。」

杉ちゃんが、部屋に入ってきて、そういうのであるが、由紀子はそんなことをいう、杉ちゃんをぎろりと見た。

「まあ、医者に見せても、意味がないってことは知ってるから、まあ、このままでいるしかないってこともわかるんだけどねえ。でもさ、水穂さんも、少し治る努力をしようよ。ご飯を何も食べないで、たくあん一切れしか食べないんじゃ、力も出ないよ。」

「そんな可哀想なこと言わないであげてよ杉ちゃん。水穂さんはきっと苦しいのよ。」

由紀子は、そう杉ちゃんに言ったのだが、

「ダメダメ。秩父宮さんとは違うぞ。あの人みたいに、誰にでも愛してもらえるってことは、一般人には全然ないんだ。だから、水穂さんみたいな人は、余計に注意しなくちゃ。」

と、杉ちゃんが言うので、

「そんなことは関係ないわ。ただ、目の前の人が、咳で苦しんでいるのを見たら、放っておけないわ。」

と言い返した。

「まあねえ。由紀子さんが仕事がない日はこうして必ず来てくれて、水穂さんの世話をしてくれるのはありがたいんだけどさ。だけど、それ以外の日は、僕達にもすごい負担がかかることを覚えておいてほしい。」

杉ちゃんが、介護する人がよく言うセリフを言い始めた。由紀子は、それを言われてしまったら困るという顔をしたが、現在法律もその発言のように、できるだけ介護を楽にしてもらえるように、動いているのである。その対策の一つとして、外国人を雇うとか、そういう策を打ち出しているが、実現するのにはまだ時間がかかりそうである。

「杉ちゃん。」

と、由紀子は言いかけたが、

「まあねえ。家政婦斡旋所に電話しても、断られてばっかりだし、看護師を雇おうとしても、みんな嫌がって辞めていく。だから、誰かの手を借りるというのは、難しいんだよ。」

と、杉ちゃんは現状を言った。確かにその通り、誰かを雇っても、短いもので一日、長いもので一ヶ月でやめていく。みんな、水穂さんの持っている事情を理解できないためである。

「由紀子さんが来てくれると言っても、由紀子さんは駅員業務をこなさなくちゃいかん。そういうわけだから、由紀子さんにいくら思いがあっても、実現はできないわけだ。だから誰か、看護師か、家政婦さんを雇いたいんだけどねえ。あーあ、これじゃあ手も足も出ないよ。」

杉ちゃんがでかい声で言った。それと同時に、水穂さんが、これまで以上に激しく咳き込んだ。同時に、口元から、朱肉のような液体が、溢れ出てきた。由紀子はすぐにそれをタオルで拭き取って、水穂さんの背中を擦って吐き出しやすくさせてやって、すぐに枕元にあった水のみの中身を飲ませる。

「あーあ、結局これだ。もう!僕らは何も報酬もなく、水穂さんの世話をしなければならないのかあ。」

杉ちゃんはまたでかい声で言った。

すると同時に、製鉄所の玄関がガラッと開く。

「こ、こ、こ、こんにちは。」

「はあ、今頃誰だろう。」

杉ちゃんがそう言うと、由紀子が

「有森さんだわ。」

と言った。杉ちゃんが、いいよ入れというと、

「こんにちは。あの、こちらに磯野水穂さんという方はいらっしゃいませんか?」

と、一人の女性の声が聞こえてきた。ということは、有森五郎さんが、連れてきたということになる。

「はあ、いるけどそれが何だって言うんだ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。五郎さんにお願いされまして、水穂さんのお世話をさせてもらいにこさせてもらいました。よろしくお願いします。」

そういう声で話す女性は、その言い方からすると、普通に女性なのであるが、

「は、は、はい。かの、じょ、のおな、まえは、す、す、す、すぎ、む、ら。」

五郎さんの言い方はいつもこうだった。吃音という障害のせいで、そうなってしまっていることは仕方ないのだが、どうも由紀子は、五郎さんの言い方が、嫌な印象になってしまう。

「す、す、すぎ、むら、いく、いく、いくこさん。よろ、し、く、おねがい、します。」

「はあ、そうもったいぶらないでちゃんと名前を紹介しろ。彼女の名前は。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。私の名前は、杉村郁子です。」

と彼女は自己紹介した。そう言いながらやってきたその女性の顔を見て、杉ちゃんも由紀子もびっくりしてしまう。彼女は、顔の半分が真っ黒に焼けていた。

「か、の、じょは、か、か、か、かいご、へる、ぱ、の、し、か、くを、持って、ます、から、どん、な、こ、と、で、も、まう、せ、つけ、く、ださい。」

五郎さんの言葉が、彼女は介護ヘルパーの資格を持っているので何でもお申し付けください、という意味だということに、由紀子は、数秒かかった。でも、顔の半分が真っ黒に焼けている女性に、水穂さんの世話をさせるのは、ちょっと嫌だなという気持ちがしてしまった。

「そうか、それではわかった。じゃあ、ご飯の世話と、憚りの世話。あと、着替えとか、布団を干すとか、そういうことはちゃんとやってもらうからな。じゃあ早速だけど、布団の周りを拭いてくれ。」

杉ちゃんがそう言うと、杉村郁子さんは、わかりましたと言って、濡れ雑巾を掃除用具入れから取ってきて、畳を拭き始めた。

「じゃ、じゃ、じゃあ、あた、は、い、く、こ、さん、に、まか、せ、て、く、ださい。ぼ、く、は、ひとま、す、かえり、ます。」

五郎さんは、そう言って、玄関へ戻り、製鉄所を出ていった。あとは、杉村郁子さんが、水穂さんの枕元の汚れを取る作業を続けた。

「これでは畳を張り替えないといけませんね。」

郁子さんは、そういった。

「そうだよう。畳の張替え代はめちゃくちゃ高いよ。まあ、仕方ないことなんだけど、でも、金がかかってしょうがない。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そういうことなら、私提案があるんですけど。」

と、杉村郁子さんはスマートフォンの画面を見せた。

「何だこれ?」

と杉ちゃんが言うと、

「ビニールのシートです。これを、布団の下に敷くのはいかがですか。それであれば、液体は弾くし、畳に染み込むことはないと思いますよ。」

そう杉村郁子さんは言った。

「はあ、それをどうするの?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ。もちろん買うんですよ。だってこれ以上畳を汚されたらまた張替え代がかかるというのも事実ではありませんか。そういうことなら、なにか対策を取るべきでしょう。これ、ホームセンターで売っているそうですから、すぐに買うことができますよ。」

と、杉村郁子さんは言った。

「幸い在庫はあるそうです。だから店に電話して、それを取りに行けばいいんです。」

「はあ、なるほどねえ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「じゃあ、そうさせていただきますね。すぐに電話させていただきます。」

と、杉村さんは直ぐに電話をかけ始めた。数分間、誰かと喋ると、

「在庫あるそうですから、すぐに取りに行きます。ここではタクシーは呼んでもらえますか。私、車の運転免許は持っていないものですから。」

杉村さんはそう言って、すぐ出かける支度を始めた。

「そうか、そういうことなら、由紀子さんと一緒に行ってもらうか。」

そう杉ちゃんがいうので、由紀子は彼女を連れて行くことになった。お願いしますと、杉村郁子さんが言うと、由紀子は、製鉄所の外に停めてあった、自分の軽自動車に乗って、杉村郁子さんといっしょにホームセンターに向かった。

「あの、気にしないでくださいね。」

杉村郁子さんはそういうのである。

「気にしないって何がですか?」

由紀子はそういうのであるが、

「ええ。こんな顔ですから、どこかへ行けば、必ず誰かに変なことを言われるんです。いつでもどこでも誰にでも。仕方ないですよね。こんな気持ち悪い顔ですから。」

と、杉村郁子さんは言った。

「そうですか。やっぱりそう言われてしまいますか?」

由紀子はそう彼女に聞いてみる。

「ええ。言われますよ。こんな気持ち悪い顔をしていれば、そうなるじゃないですか。日本では、美人でないと、色々言われてしまうのは、仕方ないことですね。まあ、私もなれていますけどね。でも、なんだか寂しいですね。顔でここまで言われてしまうのは。」

杉村郁子さんは、ちょっと悲しそうに言った。

「そうなんですか。どうしてそんな顔になったのか、教えてもらってもいいですか?なにか事情があったのはわかるんですけど。ごめんなさい。私、知りたがり屋で困りますか?」

由紀子はそう聞いてしまった。

「ええ。私、子供の頃、家が大火事になったことがありまして、その時逃げ遅れて、火が顔についてしまったんです。それで、もう一生こんな潰れた顔で、生きていかなくちゃいけないと言う羽目になって。」

杉村郁子さんはそう答える。

「そうですか。例えば今の医療だったら、顔を整形して、また別の顔になることも可能ですよね。それなのになんで、そのまま焼けた顔で生活しているんです?そうしなければならないなにか事情があったのでしょうか?」

由紀子は、杉村さんにそう聞いてしまった。

「いえ、そういうわけではありません。でも、父が、そういう教育方針だったんです。人間には人間の力で解決できない不条理はいっぱいあるから、それを学ぶためにも、そのままの顔でいなさいと。」

ということは、水穂さんのような事情ではないということだろうか。

「そうなんですね。じゃあ、学校なんかも普通の学校へ?」

「ええ。そうですよ。顔は確かに潰れていますけれど、それ以外、足が悪いとか、そのようなことはありませんから、学校は普通の学校に行きました。まあ、こんな気持ち悪い顔ですので、友達は少なかったですけどね。」

杉村郁子さんは、にこやかに笑って答えた。由紀子からしてみれば、杉村さんの顔は、本人が言う通り気持ち悪い顔で、とても笑顔であるようには見えなかった。

「そうなんですか。でも、お父様の教育方針、かえって良かったんじゃないのかな。だって、私だって解決出来ないことはいっぱいあるんですよ。色々つらいこともあるけど、その解決になるようなことも一つもできていない。」

と、由紀子は、そう杉村郁子さんに言った。そうこうしているうちに、ホームセンターについた。二人は、サービズカウンターに言って、ビニールシートを予約したものだというと、店員はすぐにそれを出してきてくれた。郁子さんは、現金ではなくペイペイでそれを支払い、二人は、頭を下げて、ビニールシートを受け取った。そして製鉄所に戻り、水穂さんの布団の下に、ビニールシートを敷いてあげた。

「よし、こうすれば、いくら汚しても拭くだけで大丈夫だわ。」

杉村郁子さんは、にこやかに言った。再び水穂さんに布団に横になってもらい、由紀子は掛ふとんをかけてやった。一方杉村郁子さんの方は、なにかお手伝いができそうなことはないか、周りを見渡していた。

「ああ、ホコリが溜まってるわね。ちょっと掃除しましょうか。」

郁子さんは、すぐにまた雑巾を取り出して、本箱の掃除を始めた。本箱には楽譜が大量に入っている。中には、血液が付着している楽譜もあり、表紙が取れていたりする楽譜もあった。

「これは、誰の楽譜かしら?」

郁子さんは興味深そうに楽譜を取り出した。その楽譜は大変分厚いものであったが、表紙にはキリル文字でゴドフスキーと書いてあった。

由紀子は、この女性に、水穂さんが持っている楽譜について話してもいいか迷った。もし、水穂さんが持っている事情を話してしまったら、水穂さんが可哀想だと言うことになるのではないか。それでは、また水穂さんにつらい思いをさせてしまうのでは。それは由紀子は、言いたくなかった。

「結構、というか、こんな難しい曲やってらしたのね。とても音が多すぎて、私には弾けないわ。こんなすごい曲弾いて、まるでサーカスのパフォーマーみたい。」

郁子さんは、楽譜に興味があるようで、いくつか楽譜を出して調べているようであった。でも、由紀子はそのタイトルを言ってしまいたくなかった。

「あたしは、クラシック音楽のことは詳しくないけど、すごい難しい曲をやってるんだってことはわかるわ。」

郁子さんはそう言っている。

「そういうのができちゃうって、きっと天才だったのね。」

「感心しなくてもいいわ。」

由紀子は、すぐに言った。

「なんで。こんなすごい曲弾けるんだもの。天才でしか言いようがないわよ。」

「広上先生もそう言ってたわ。でも、そんなことは絶対にないのよ。この人は、生活のために、ゴドフスキーの曲をひくしかなかったのよ。」

由紀子は、そんなことを言うんだったら、もう言うしかないと思って、そう言ってしまったのであった。

「なんで生活のためにゴドフスキーを?」

郁子さんは楽譜をしまいながら、そういった。

「でも、なんだかその作曲家が好きで、こんなにたくさん楽譜があるんだったら、やっぱり好きなのね。尊敬しているのかしら?そういうご先祖みたいな感じで。」

郁子さんがそう言うと、

「そういうことではないわ。尊敬とか、そういうためじゃないのよ。生活のためにそうしてたのよ。」

由紀子は、そう答えるしかなかった。水穂さんは、静かに眠っている。もし、本人がこの現場に居合わせたら、どうなるだろうかと、思ってしまうのであった。

「へえ。ゴドフスキーというと、本当に音楽を聞きに来たいと思う人ばかりではないわよねえ。音楽をどうのというより超絶技巧がどうのという人のほうが多いんじゃないかしら。」

郁子さんは、本箱を掃除しながら言った。

「あなたと一緒よ。」

由紀子は思わずそう言ってしまう。

「あなたならわかってくれるでしょう?水穂さんはそういう事情があったのよ。あなたが、その潰れた顔でも生きていかなければならなかったのと同じで、そういう立場であっても、変えることはできなかったのよ。」

由紀子は、どうしても、水穂さんのことを言うことができない。どうして言うことができるだろうかと思う。だって、それのせいで水穂さんは大変な差別を受けてきて、それのせいでつらい思いもしてきたのではないかと思う。だからそれをやたらと口に出してしまうなんてことは、したくなかった。

「そうなんだ。いろんなこと体験して、それで体も壊してしまったのかな。」

やっとそれだけ、郁子さんは理解してくれたようである。

「私も、この顔のせいで、随分辛かったこともあったから、水穂さんも似たような感じだったってことはわかるけど、水穂さんは、どこかの外国の俳優さんみたいにきれいだし、容姿でバカにされることはなかったと思うけど。」

「いい加減にして!これ以上言わせないで!」

由紀子は、郁子さんに向かって声を荒げてしまった。郁子さんは、由紀子を、その半分焼けた顔で見つめていたのであるが、

「そうなのね。目には見えるものではないけど、水穂さんも辛いことを、たくさん抱えて生きてきたのかな。」

と、その部分をやっと理解してくれたようだ。

「ごめんなさい。ちょっときつく言い過ぎてしまったわね。」

由紀子が、郁子さんに謝ると、

「いいえ、いいのよ。でも、今回のことから、やはり水穂さんの世話をするのはあたしじゃなくて、由紀子さんのほうがいいと思うわ。だって、どんな人でも愛してくれる人に世話をしてもらうのが嬉しいことだし、愛してる人だって、愛する人の世話ができなかったら、悲しいでしょ。」

郁子さんはそんなことを言うのであった。何だと由紀子は驚いてしまったが、

「いいえ。あたしもそれくらいわかるわよ。だって、由紀子さんは、水穂さんに対してやることが真剣だもの。それをあたしがもぎ取っては行けないと思うのよね。」

と、郁子さんは言った。

「ごめんなさいね。あたしやっぱり、五郎さんにここまで連れてきてもらったけど、辞めさせてもらうわ。由紀子さんが、一生懸命水穂さんのことを愛してるって、ちゃんと他の人にも伝えなくちゃ。それが、大きな違いなのかもしれないわね。由紀子さんは、見た目でそういう気持ちがわからないところ。」

「もう、辞めてしまうの?」

由紀子は、そう郁子さんに言った。

「ええ。だって由紀子さんが水穂さんのこと愛しているのはわかるから、それを他人が邪魔してはいけないわよね。そして、水穂さんも、由紀子さんに世話をしてもらうのを喜んでくれるはずよ。」

郁子さんは、雑巾で本箱を丁寧に拭いてくれて、

「じゃあ、あたし、もう由紀子さんの前には現れないから。」

とにこやかに笑って、部屋を出ていったのであった。その顔で初めて、本当ににこやかに笑ってくれていると由紀子は、思うことができた。それほど、郁子さんの顔は気持ち悪い顔であった。それは誰にも変えられない事実であり、変更することはできなかった。同時に、水穂さんが同和地区出身であることも、変えることができない事実ではあるけれど、顔のことよりもっと希望は少ないのではないかと思われた。由紀子は、自分が何をしたのだろうと思いながら、その場で呆然と立っているしかできなかった。水穂さんは、薬で静かに眠っていた。まるで二人の女性がそのようなことを話しているのを全く知らない顔をして。

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鼻のつぶれた女 増田朋美 @masubuchi4996

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