ミュージカル・ボックス(2)
「大丈夫ですか、進藤先生。はい、良かったら……」
私はそう言うと、保護者との電話が終わって伸びをしている先輩教師「
「有り難うございます、遠野先生。今日は特に話が長かった! あのモンスター」
進藤先生の忌々しげな言葉に私は曖昧な笑みを浮かべた。
夕方の16時半。
仕事終わりまでもう少し、そこから残務を片付けて中々望めない定時上がりを……と思った所に、2年C組の
曰く、進藤先生は成績の悪い子ばかりを贔屓して、絵里ちゃんの様に普段から頑張ってる子を放置している。
これは逆差別ではないか?
頑張ってる子に対して正当な評価をする事が、指導者のすべきことだ。
甘やかされているのは、できない子達にとっても良くない。私たち大人はフラットに子供達を見るべきだ。等々……
「そう言ってるアンタが一番差別してるだろ! って奴ですよね」
そう言って進藤先生はニヤリと笑うと、私の置いたお茶をグイッと飲む。
まあ、この電話のお陰で進藤先生は確実に二時間残業コースで、予定してた街コンもキャンセルすることになるのだ。
この程度のぼやきは仕方ないだろう。
「あ~あ、遠野先生が羨ましいですよ、マジで。だって秋野いろはと遠藤陸がいるでしょ? あんなSSR二枚引きなんて、もう勝ち確定じゃないですか」
秋野いろは……
彼女の顔が脳裏に浮かび、鳥肌が全身に立つのを感じながら愛想笑いをしたが、自分でも分かるくらいに引きつっていた。
「いえ……そんな」
「ま、でもSSRだけじゃなくて、遠野先生自身も生徒の心ガッチリですもんね。その点ももちろん評価してますよ」
そう言って笑顔を浮かべながら、私の背中を叩いたがそれが腰に近くて思わず身体を硬くする。
また……
進藤先生はこの「手癖の悪さ」もあり、女性教師陣からはかなり嫌われている。
私も本来はあまり関わりたくないのだが、何故かやたらと絡まれていて……辛い。
後、生徒をスマホゲームのガチャと一緒にするのも、本当は止めて欲しい。
聞いてるだけでも、胸の奥がモヤッとする。
「おっ、噂をすればSSR」
進藤先生の声に(遠藤君?)と思い、慌てて笑顔で振り向いたが、そこに居たのはいろはちゃんだった。
昨日、彼女に付けられた太ももの傷がズキリとうずくような気がして、思わず眉をひそめてしまう。
「どうした、秋野。遠野先生に用か?」
進藤先生の言葉に、いろはちゃんは笑顔で頷いた。
「はい。数学で分からないところがあって、ご助言頂けたら……と。よろしいですか? 遠野先生」
「え……あ……うん」
「秋野。お前、相変わらず馬鹿丁寧だな。確かに先生は敬うべき存在だが、そこまでかしこまってると中々距離が縮まらないぞ」
「すいません。ですが……遠野先生も、もちろん進藤先生も尊敬してますので」
恥ずかしそうに微笑みながら、深々と頭を下げる彼女に進藤先生は、私たち女性教員達には見せたこともないようなニヤけた笑顔で頷く。
言うまでも無いが、進藤先生はいろはちゃんが殊の外お気に入りだ。
職員室内での噂に寄れば、教頭先生に内々に来年いろはちゃんのクラスを持たせてくれないか、と打診しているとか……
冗談でしょ。
普通に気持ち悪い。
いろはちゃんの本性を抜きにしてもあり得ない話だ。
「お前、ホントにお世辞上手いな。ま、そういう所は大事だぞ。特に秋野はそこらのアイドルくらいに可愛いんだから、いい男掴まえられるぞ」
「ホントですか……でも、私口下手なので。だから進藤先生みたいな、お話が上手な大人の男性は素敵だな……って」
そう言いながらいろはちゃんは私にチラッと視線を向ける。
その言わんとするところはすぐに分かった。
私は内心重い気持ちになりながら、進藤先生に言った。
「あ……じゃあそろそろ、秋野さんに勉強を……なので、ここで」
「秋野、遠野先生はもう終業時間だ。僕はまだこれからやることがあるので、二時間は残るつもりだから、良かったら僕が勉強教えようか?」
え……
私はギョッとしていろはちゃんを見ると、彼女は目をキラキラ輝かせながら嬉しそうに頷いた。
「ホントですか! 有り難うございます。じゃあ……お言葉に甘えてぜひ」
そう言っていろはちゃんは頭を下げる。
私はその様子を見ながらホッと胸をなで下ろした。
良かった……
それに、今夜は彼女の事に悩まされることもない。
いや、今日は金曜日。
土日はいろはちゃんに会わなくてもいいんだ。
そう思うと自然と笑みがこぼれて、二人に頭を下げると「じゃあ秋野さん、勉強頑張ってね」と言って職員室を出た。
●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇
久しぶりにゆっくりできそうだな……
浮き立つ心のままに近所のスーパーでウイスキーとおつまみを買い、今夜の過ごし方をアレコレと考えていた。
やっぱりウイスキー飲みながら、呉羽(くれは)君の動画を見ようかな。
最近ごひいきの男性アイドル。
野性的だが影があって、甘えん坊な所が陸君を彷彿とさせてつい夢中になってしまう。
見ているだけでも元気が出るし、動画を見て少しでもあの子の売り上げに貢献できていると思うと、自分が支えているんだと思えて嬉しい……
友人の雪江には「でたよ、ショタコン。16歳ってあんたの教え子と同い年じゃん」と呆れたように言われたが、好きな物は好きなんだ。
そう思いながら、自宅マンションの入り口に入り、オートロックを解除する。
重い音を立ててガラスのドアが開き、エントランスを通る。
優しいオレンジの間接照明が、優しく迎え入れてくれるようでホッとする。
待ちきれずにスマホを取り出して、音量を消して呉羽君の動画を見ながらエレベーターを待つとすぐに降りてきた。
やった、今日は早……
そう思った私の思考は途中で寸断された。
エレベーターのドアに映る姿。
私の後ろに……いろはちゃんが映っていた。
弾かれたように振り向いた途端、素早くスマホを取り上げられた。
「何で……ここに」
脳内が混乱しきっている。
進藤先生と……居たのに?
なんで……オートロック……なんで?
「うわ、この男の子知ってる。今、超人気だよね。赤城呉羽だっけ? クラスの馬鹿女達が騒いでた。陸君にそっくり、って。先生、この子好きなんだ? だろうとは思ったけど、ホント期待裏切らないね」
「……返して」
「もうちょっと見せてよ。そしたら裏切ったおしおき、ちょっとは軽くしてあげるから」
「なんで……先生はどうしたの? それに……なんでここが」
「教えて欲しい?」
「当たり前でしょ……それに……帰ってよ!」
いろはちゃんは私のスマホから顔を上げると、ニンマリと笑った。
「それ、三つ目のお願い?」
「そ……そうよ! 人の家に……勝手に来ないで! それってストーカー……」
やっとの思いで言うと、いろはちゃんは大げさな仕草で自分の両手で身体を抱えるようにした。
「わ、酷い。先生にお勉強教えてもらおうと、頑張って追いかけてきたのに……可愛い生徒を追い返すんだ」
「月曜日……教えてあげる……だから、帰って」
そう言うと、私はエレベーターのドアを開けると、すぐに中に入ったが当然いろはちゃんもスルリと中に入ってくる。
その直後、私のブラウスの首元のフリルを掴むと、自らの顔の近くに引っ張った。
首元が急激に締まる感覚と例えようのない苦しさで、酷くむせ込みそうになる。
「嬉しかった?」
言葉を出せない私に、いろはちゃんの声がからかうようにレベーターの狭い箱の中に響く。
「私を厄介払いできて嬉しかったでしょ? これで週末まであの女に邪魔されずに済む。ゆっくり可愛い男の子の動画でも見て、過ごそうかな。って」
そこで言葉を切ると、彼女は冷ややかに言った。
「あの後、すぐにお母さんから電話って嘘ついて、学校出たの。遠野先生のお家、実は前から知ってたから先回りして。絶対どっかで寄り道してくると思ったから。いつも週末はウイスキーとおつまみで1杯やってるんでしょ? で、後は物陰に隠れてスルリ、って」
「なんで……私の事」
「秘密。それよりさ……」
そう言いかけたとき、ドアが開いたので彼女は私の手を引いてホールに出た。
この子は……どこまで私を……
そう思ったとき、私は自分の中で何かが弾けるような気がした。
「ねえ……やめてよ!」
そう怒鳴るように言うと、彼女の手を無理矢理振りほどいた。
「こんな目に遭うくらいならもう死んだ方がまし! なんで自分の生徒にこんな事を……何なのよ、あなたは!」
他の住人にも聞こえるだろうか。
もうそんなことさえどうでも良かった。
このままじゃ私の生活がこの悪魔に塗りつぶされてしまう。
そうなるくらいなら……
「死んだ方が……まし」
「そうなんだ……死んだ方がまし? ねえ、先生。それって本気で言ってるの?」
彼女が全く動揺していないことに、焦りを感じながらも必死に頷く。
すると、彼女はニコニコと笑いながら私に近づくと両肩に手を置いた。
そして……次の瞬間、足を払われると共に世界が一回転した。
え……?
ポカンとしていた私は、次に見た景色に総毛立った。
外……見てる?
私の上半身は手すりの外に出ていて、いろはちゃんが掴んでいる私のブラウスの端。
そして、左足で何とか……落ちずに済んでいた。
「へ……え?」
「どうする? 手……離そうか?」
な……え?
「や……やあ……」
舌が上手く回らない。
舌から吹き上げる風と漆黒の暗闇が、とても現実の物とは思えない。
「死んだ方がマシなんだよね? 私に付きまとわれるくらいなら」
「やだ……やだ……」
自分がボロボロと泣いているのが頭のすみっこで分かったけど、そんなのはどうでもいい。ただ、怖かった。
自分が宙に……浮いている。
「助けて……下さい。お願い……」
「やだ。私を裏切るような人……死ねばいいんだ」
怖いよ……ママ……陸君……助けて。
そう思ったとき。
突然世界が回った。
そして、自分のお尻が硬いコンクリートの床に着いたのが分かり、全身から冷や汗が吹き出し鳥肌が立った。
股の間が酷く生暖かい。
助か……った。
「あ~あ、先生お漏らししちゃった。いくつだっけ? 私、そんなの園児くらいしか見た頃無いよ」
いろはちゃんのからかうような、面白がっているような言葉が耳に飛び込んだ途端、安堵と羞恥心が湧き上がり、私は子供のように泣き出した。
そんな私の顔を無理矢理持ち上げて彼女は言う。
「『死んだ方がマシ』『殺してやろうか』そんな事を言う人って、本当に死ねないし殺せない。……殺したことも殺されそうになったこともないクセに、オモチャみたいに使う人って……馬鹿みたい」
「もう……やだ。なんで……私ばっか……どうして」
「知りたかったら私ともっと仲良くなってよ。でもお漏らししちゃった子のお世話を先にしないとね。先生、おうち帰るよ……お仕置きのグッズも持ってきたんだ。私を切り捨てようとした上にお漏らしもしちゃったから、たっぷりと……」
イチゴのような唇と、壊したいほど澄んだ青 京野 薫 @kkyono
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