イチゴのような唇と、壊したいほど澄んだ青

京野 薫

ミュージカル・ボックス(1)

 舌の上に乗っている真っ赤な赤い玉。

 イチゴ? それともコーラ?

 どんな味なんだろう、と一瞬考えたがすぐにそんな事はどうでも良くなった。


 なぜなら単に現実逃避をしているだけなのだから。

 こんな所誰かに見られたら……

 もちろん私……遠野京子とおのきょうこの高校教師としてのキャリアは終わる。


 自分のクラスの生徒。

 16歳の少女。

 この二つだけでも破滅には充分すぎるくらい。

 彼女……秋野あきのいろははその事を知った上で私に言ったのだ。

 そして、彼女は伸びた舌を引っ込めると、無表情に目だけををキラキラと光らせて、さっきの言葉を繰り返す。


「先生。私の言ったこと、もう忘れちゃったの? 教師ってそんなお馬鹿でもやれるんだね。もう一回だけ言うからメモでも取っとく?」


「……覚えてる」


「じゃあ何でやらないの? 簡単でしょ?」


「せめて……手を……」


「やだ。手も指もダメ」


「誰かに……見られたら……ここ、生徒も結構来るんでしょ」


「だからここにしたの。生徒の良く来るコンビニの裏側。ドキドキしない? 早くしないと先生……終わりだよ。ってか、あめ玉一つも一人で舐めれないの? それでよく先生できるよね」


 私はあまりの言葉に唇を引き結んで目を閉じた。

 16歳の少女に……こんな……

 そんな私の内心を知ってか知らずか……いや、彼女は知っているだろうが、薄く微笑むと言った。


「よしよし、泣いちゃダメだよ先生。仕方ないから今回だけは手伝ってあげる。ちょっとづつ上手になろうね。じゃあ……口、開けて上を向いて。」


 私はあまりの悔しさに無言のまま俯いていると、突然私の頬に彼女の両手が添えられ無理矢理に上を向かされた。

 そして、いろはちゃんの光の消えた夜の様な瞳が私をじっと見る。


「私、ノロマは大嫌い。……何するんだっけ?」


 いろはちゃんはポツリと続けた。


「バラしてもいいんだね? 先生がショタコンだって事。で、自分のクラスの生徒に犬みたいに発情する変態だって事」


「……だめ……絶対」


「ヤダ、絶対言う。あ~あ、陸君も可哀想に。あなたみたいな変態に目をつけられたお陰で、彼クラス中の笑いものじゃん。『遠野京子先生はクラスの生徒の遠藤陸えんどうりく君の使用済みタオルの匂いを嗅いでました』なんて、彼もおしまい。全部おしまい。私が陸君なら……自殺しちゃうな」


 そう言ってニヤリと笑ういろはちゃんを見て、私は絶望的な気持ちで口を開いた。

 彼女は無表情で私の口の少し上に、自分の口を持ってくると……ゆっくり開いた。


「目、閉じちゃダメ。開けて」


 その少し後で、私の口の中にいろはちゃんが舐めていた飴玉が落ちてくる。

 そのヌルヌルした生暖かい感触に吐き気を感じたが、必死に我慢した。


「飲み込んじゃダメだからね。飴は舐める物でしょ? ゆっくりと舐めるんだよ」


 私は嫌悪感で目から涙が溢れそうになりながら、口の中で転がす。

 こんなに奇妙なイチゴ味なんて、生まれて初めて。


「あらら、先生大丈夫だった? 陸君の事好きなんだよね? なのに別の生徒……しかも女子の私と間接キスだって。これってヤバくない? 裏切り……だよね? あ~あ、やっちゃった」


 そう言うといろはちゃんはクスクスと笑った。

 おかっぱの髪に日本人形のような美しさ。

 そんな彼女の顔が酷く歪んで見える。


 そう。

 私は自分の教え子の男の子を愛している。

 片思いだけど。

 そして、先週の月曜日。

 そんな彼が教室に置き忘れていた体育の授業の後のタオル。

 じわりと汗で濡れていたそれを、無人の教室で見つけた私は……手に取って、顔に当てた。マズいとは思った。

 でも、誘惑に逆らえなかった。


 その結果……私は終わった。

 自分の守ってきた普通の生活も、ちっぽけな尊厳も、仄かな恋心も。

 秋野いろはが居た。

 たったそれだけの事で全部終わった。


 ああ……この子を……殺したい。

 そう思いながらじっと見る。


「何、その目。言いたいことがあったらいいよ。でもさ……向こうから来るのって、うちの学校の生徒じゃない?」


 私はハッと我に返ると、いろはちゃんの言う方に目を向けた。

 確かにズッと向こうに何人かの影と、高い笑い声が聞こえる。

 私は慌ててバッグを取って歩き出し、駐車場の奥に停めた車に乗り込むといろはちゃんも当然のように隣に座る。


「ねえ……もう、帰って。一緒に車にいるのなんて……駄目だよ」


「やだ。このまま車、出して」


「だから……見られたらどうするの!」


 思わず声を荒げた私は、ハッとして目を泳がせた。

 しまった……

 だけど、いろはちゃんは予想に反して怒った様子は無く、むしろ面白がっているような笑顔で私を見る。


「わ、怒っちゃった。怖い。でもさ、怒るヒマあったら車出した方が良いと思うよ。私はそんな先生の顔も好きだけど、他のみんなに見られるの、やだな。結構近づいてきてるよ、あの子達」


 私は心臓が大きく跳ねる音を感じ、慌てて車を出した。

 とにかく……適当な所でこの子を降ろそう。

 冷や汗だろうか。

 汗があごを伝っているのが分かる。


「先生……可哀想に。凄い汗」


 そう言っていろはちゃんは私の頬とあごにそっとハンカチを当てる。


「あり……がとう」


 そう言った直後。

 私はギョッとして危うくハンドルを切り損ねそうになった。


 いろはちゃんの手が私のスカートの奥に入っていたのだ。

 太ももの一番上まで。


「ねえ……何……するの?」


 唇を震わせながらそう言うと、彼女は小さな声で囁くように言った。


「おしおき」


 次の瞬間、彼女が手を置いていた所に鋭い痛みが走り、思わず小さな悲鳴を上げた。

 なんで……

 彼女は深く爪を立てると、私の太ももを引っ掻いたのだ。


 堪らず道の端に車を停めて、スカートをまくった。

 すると太ももの一番奥から3本のひっかき傷が4センチほど伸び、血が滲んでいた。


「なんで……こんな……」


「言ったでしょ。おしおき。覚えてる? 私の舌の上の飴を、キスして取って欲しかったの。なのに何で嫌がったの? ……ねえ、なんで断ったの?」


 無表情で言ういろはちゃんの言葉は理解できなかった。

 何を言ってるの、この子……

 そんなの……できるわけ……


「その傷、当分消えないよ。良かったね。これで陸君に何かの間違いで抱かれることになっても説明できないね。あ、女とも……ね」


「そんな事……しない」


 私は泣きながら言った。

 自分の生徒にこんな事をされて怯えている自分。

 その滑稽さと惨めさに。


「先生、泣かないで」


 そう言っていろはちゃんは今度は私の目にハンカチを当てて……言った。


「と、言うべき何だろうけど……私、先生の泣いてたり怯えてる顔の方が好き。先生の心と身体につけてあげる。二度と消えないくらいの傷を」

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