花に抱かれて見る夢

ミナガワハルカ

 

 もう四月だというのに、まだまだ肌寒い日が続いている。川べりの桜は蕾を固く結び、開こうとはしない。

 小鳥が二羽、青い空を飛んで来て、桜の枝にとまった。そしてすぐに、たわむれるようにして飛び立つ。

 私はふと、自分が桜の木であることに気づいた。


 私は小川のわきに立つ、一本のソメイヨシノだった。

 なかなかの巨木である。私の張り出した枝の下には小道が通っている。今、そこを若い男女が笑いながら歩いていった。うららかな日差しの中、楽しそうに。

 私の樹齢はいくつくらいなのだろうか。これほどの大きさに育つには、どれほどの歳月がかかるのだろうか。

 ぼんやりと記憶をたどってみる。

 しかし、まったく思い出せない。しばらく頑張ってみるが、なにも思い出せない。思い出せそうな感触すらない。まるで、私の意識はつい今しがた突然生じたものであるかのようだった。今まで私は樹木としてありながら、そこに意識は存在していなかったのだろうか。

 この宇宙は、ビックバンによって無から生まれたという。もしかすると、私の意識も無から突然生じたのだろうか。

 ただ、ビックバンの場合は「無」といっても本当の無ではなく、宇宙を生み出す素養のある無だったと考えられている。真空の量子揺らぎというやつだ。

 では、その真空の量子揺らぎはなぜ生まれたのか。

 考え出すときりがない。なんだか眠たくなってきた。私の場合は何が揺らいでいたのだろう。

 そういえばビックバンは、この宇宙自体を生み出した。ということはつまり、この宇宙に流れる時間もビックバンによって生まれた。だから、ビックバンより「前」はない。では私が認識するこの世界は、はたして私が認識し始める前から存在していたのだろうか。私がいなくても世界は存在していたのだろうか。

 とりとめもないことを考えているうちに、いつのまにか、高かった日は西に傾き、道行く人々の影が長くなっていた。

 私は自分がひどく疲れていることに気づいた。

 急速に眠気に襲われる。

 私はそれに抗う術を持たない。暗闇に飲み込まれてゆく。

 私が眠りについた後も、この世界は存在しているのだろうか。

 こうして、私の一日目は終わった。


  †


 目が覚めた。朝のようだ。

 周囲を見回すと、自分の枝が目に入った。蕾がすでに膨らみ、そのうち、気の早いいくつかは花を咲かせていた。

 小さな、白い花。

 気持ちの良い朝の光に、美しく輝く。

 私は何日ものあいだ眠っていたらしい。

 気づくと、私の下に男が一人立っている。先日、私の下を歩いていた大学生だろうか。誰かを待っているようだった。

 案の定、ほどなく一人の女性がやってきて、男に声を掛けた。男は朝日に劣らぬ爽やかな笑顔でそれに応え、行ってしまった。

 私は身体を動かそうとするが、動かない。

 体ごと移動できないのはもちろんだが、小さな枝ひとつ、意のままにはならない。

 風が吹いて、私の枝を少し揺らした。私はまた眠気に襲われる。

 私はあきらめてため息をつき、再び自分の記憶をたどってみた。

 前回の覚醒のことは、はっきりと覚えている。しかし、それ以前のことはさっぱり思い出せない。やはり、私の意識は先日生まれたのだろうか。

 私の誕生と同時に、意識の萌芽のようなものが生じ、長い年月を経て成長し、先日ついに一定の閾値を超えて意識が発生したのかもしれない。

 しかし、と眠い頭で私は思った。私の誕生とはどの瞬間を指すのだろうか。

 この世に存在するソメイヨシノは、すべて一本の樹オリジナルのクローンである。ソメイヨシノは接ぎ木や挿し木によってしか増殖しない。

 接ぎ木された瞬間が誕生だろうか。しかし、よく考えればこれは、動物界アニマリア的価値観に偏った考え方かもしれない。

 接ぎ木とは、増やしたい木から切り取った枝を、近縁種の幹に接ぎ合わせる行為だ。

 私は想像する。

 二人の人間を用意する。一人は私。老人である。昔はさぞかし美しかっただろう。いや、今でもその美しさは健在だ。しかし長い歳月が刻んだ皴は深く暗い。

 もう一人は健康な若者。肌はなめらかできめ細かく、瑞々しさに溢れている。

 次の瞬間、二人の首は跳ね飛ばされる。

 しかし血は出ない。樹木は血を流さない。

 私の首は若者の体に据えられる。継ぎ目はぴったりとは合わないかもしれないが、気にしないても良い。大事なのは、身体と首がずれないよう、つなぎ目をテープでぐるぐる巻きにして固定することだ。あとはただ、水を与えて待てばいい。私の顔は、身体から若さを吸い上げ、どんどん若返っていく。

 一方、首を飛ばされた私の体からは、新しい頭が生えてくる。だがその顔は老いたままで、若返ることはない。

 こうして、私は二人に増殖した。

 新しい私と、古い私。若者の体に接がれた瞬間が、新しい私の誕生だろうか。

 いや、結論を急ぐ前に、一方で挿し木という方法もあることに注目してもらいたい。増やしたい木から切り取った枝を、そのまま地面に挿しておく方法だ。

 老いた私の首を切り飛ばすところは接ぎ木と同じだ。違うのは、憐れな若者の体を必要としない点だ。

 私の首は、切断後、地面に挿される。

 地面はよく耕され、ふかふかでなければいけない。そして、ほどよく湿っていなければならない。そばに雑草があるなど論外だ。

 あとは、たっぷりの水と日光、そして養分。そうすれば、私の首は地面から水と養分を吸い上げる。私は深く根を伸ばす。

 暗く湿った土の中、根は螺旋を描いてからまって、脊髄を作る。

 次には骨を作る。臓器を作る。

 そうして体全体を再生していくのだ。

 このように、私はべつに他の人間に接合されずとも増殖できる。であればやはり誕生というのは、他の体に接合された瞬間ではなく、頭が胴体から切断された瞬間を指すのが植物界的価値観というものであろう。

 ソメイヨシノは、切断され、切断され、増え続けてきた。私はそうして生まれてきたはずだし、やがて切断され、切り刻まれて増殖していく。切断されるたびに、新しい私が誕生していく。私は切断され、バラバラになっていく夢を見ながら、再び眠りへと落ちて行った。

 樹木は血を流さない。だがなぜか、夢の中は赤い血が溢れていた。


  †


 目が覚めた。

 風は相変わらず冷たいが、日差しは暖かい。

 小川の流れはさらさらと清冽で、顔を洗うとさぞかし気持ちよさそうに見える。

 気がつくと、また私の下に彼が立っていた。あの、大学生らしい若者だ。黒のパーカーにスキニーのパンツ。長身で痩せたスタイルに良く合っている。

 彼は暇そうにスマホを見ている。今日も誰かを待っているのだろうか。

 ふと見ると、私の花はもう五分ほども咲いていた。

 白く輝く花が春風に揺れる。

 しばらくして、若い女が近づいてきた。私は、おやと思った。この前とは違う女だったからだ。この前はショートカットだった。今日の女はロングヘアーで、身長も違う。

 男は女に笑顔を向ける。相変わらず爽やかで、愛嬌がある。だが同時に、私はそこに、あざとさを感じ取ってしまった。自分が容姿に恵まれていることを自覚しているような、自信に満ちた笑顔。なぜか、急に自分の中にもやもやとしたものが湧き立つのを感じて、私は戸惑った。


  †

 

 八分咲きとなった私を、小学生が取り囲み、写生している。皆が私の美しさを褒めそやし、画用紙に写し取ろうとしている。

 私を見つめる子供たちの眼差しの、真剣なこと。

 ああ。もう少し待てば、満開となった、完全な美しさの私を見せることができたのだけど。私は胸を張り、子供たちの視線に応えようと懸命に咲き誇る。だがその実、私の頭の中は、その日に見た夢のことでいっぱいだった。

 そう、わたしは初めて夢というものを見たのだ。

 夢の中で、私は人間だった。人間の、美しい少女。

 少女は何事かに打ちのめされていた。嘆き、悲しみ、絶望していた。

 そして少女は、自らの命を絶った。彼女は刃物で、自らの手首を切ったのだ。

 樹木は血を流さない。だが人間は違う。少女の手首からは夥しい量の血が流れた。その血は地面に吸い込まれていく。

 私はなぜか、泣きながら、その血を懸命に吸い上げていた。根を深く伸ばし、咽び泣きながら、ただひたすら吸い上げた。

 でも、どんなに吸い上げても、少女から流れ出る血は止まることがなかった。


  †


 夜の帳が街をおおいはじめるころ、最後の蕾がひっそりとひらき、ついに私は満開となった。夜気に濡れた純白の花弁が、一様にゆっくりと揺れる。

 私を見上げるものは皆、その美しさに沈黙するだろう。だがそれは触れることのできない死者の記憶。命の終わりに咲いた、ひとときの祈り。風もないのに揺れるのは月の吐息であり、あるいはあの日の約束の残り香だった。

 そう、私は思い出した。私が見たのは夢ではなく、記憶だった。

 昔、何かで、薔薇を人間に接ぎ木する話を読んだことがある。

 私は接ぎ木ではなく、人間の血を吸い上げて生まれた。私の誕生の瞬間は、路傍で死んだ少女の血を根から吸い上げた、あの時だったのだ。

 今、私の下には彼が立っている。あいかわらず自信に満ちた、憎らしい笑顔。愛しい横顔。

 誰かと連絡を取るのに夢中で、私を見ようともしない。私はこんなにも、こんなにも美しく咲き誇っているのに。

 私は静かに枝を伸ばす。

 音もなく、しかし確かに。

 花弁にまぎれた指先が、そっと男の髪を撫でる。あのときと同じ優しさで。あの夜と同じ温もりで。

 彼が振り返るより早く、私の幹が割れ、枝が伸びる。淡く光る無数の花弁が、背後から彼の身体をやさしく抱きとめる。

 甘く、柔らかく、花の香と血の味が混ざるような粘膜で彼を包みこむ。それは比類なく心地よい。彼に拒むことなどできない。男とはそういうもの。

 私の白磁の肌に透ける淡い光が夜気に滲む。私の一片一片が音もなく闇にほどけていく。そう、私は夢を喰んで咲いた精霊。

 私は再び夢を見る。

 春が終わり、花が散ったら。

 私たちの残す実は芽吹くだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花に抱かれて見る夢 ミナガワハルカ @yamayama3939

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ