13. 暗く静かな海にて(後)

「はぁっ……はぁっ……!」


 ――しつこい!


 アリーチェは息を荒げながら、何度目かの傾転と旋回をかけた。

 背後の8号軽戦闘機は未だにくらい付いてくる。

 この状況から抜け出す方法は2つに1つしかない。

 敵機を何とかするか、諦めて撃墜されるかだ。

 当然、後者の選択肢は願い下げである。

 だがしかし、かといってすぐに背後の敵機を何とかする方法があるわけでもない。

 少なくとも、アリーチェ自身に何とか出来るような状況ではない。


「くっ……!」


 毎度かわしてはいるが、一瞬でも照準が重なった瞬間にロマキン機は発砲してくる。

 未だ致命的な被弾があったわけではなく、恐らく大口径であろう8号軽戦闘機左主翼の機関砲がどうも発砲不能らしいことはアリーチェにとって幸運なことだが、しかしこのままでは撃墜されるのも時間の問題である。

 何度目かの発砲、何発目かの被弾。

 機体後部に8ミリ機銃弾が命中する音と、背中に伝わる嫌な衝撃にアリーチェは冷汗が止まらない。

 不意に、強い衝撃がアリーチェの機体に加わる。直感的に目を遣った右主翼の後部縁、高揚力装置フラップ辺りに大きな穴が開いていた。13ミリ機関砲弾が1発当たったのだ。

 これも致命的な打撃ではないが、アリーチェの焦燥を増幅させる。

 雲の向こうで、恐らく空戦をしているのであろうヴィヴィアーナからは「1機撃墜」の報告以来、連絡がない。アリーチェ自身も無線に何かしゃべる余裕がないのだ。


「っ……! ヴィヴィッ!」


 それでも。

 アリーチェが叫んだ時だった。


「『ウミウ』2、高度を200落として、方位1-4-0に向かって真っ直ぐ飛べ」


 無線に聞こえたヴィヴィアーナの声。

 アリーチェはすぐに計器を確認し、操縦桿そうじゅうかんを押し込む。機首下げ急降下だ。

 赤く染まる視界の中で微かに見える計器を頼りに機首を言われた方向へと向けながら、傾転して機体を敢えて背面飛行状態にしながら高度が250メートル下がったことを確認し、また機体を傾転させて機首上げ。

 下に向かってかかる重力負荷を感じながらも正常に戻ってきた視界の中で50メートル高度が上がったことを確認し、そして真っ直ぐ飛ぶ。

 空戦中に真っ直ぐ飛ぶのは自殺行為だ。

 しかし、アリーチェはヴィヴィアーナの指示を信じて、目の前の大きな雲へと機首を向けて真っ直ぐ飛んだ。

 機首下げ急降下からの急上昇によって引き離されたロマキン機は、しかしすぐにアリーチェ機の真後ろに戻ってきた。

 しかし。


「あたしを撃て、リーチェ!」


 無線にヴィヴィアーナの声が飛び込んできた刹那、目の前の雲に機影が浮かび上がり、しかしすぐにその影を突き破るように背面飛行状態のヴィヴィアーナ機が飛び出してくる。

 照準器の中のヴィヴィアーナ機に向かってアリーチェは発砲したが、ヴィヴィアーナ機はそのままアリーチェ機のすぐ下をすり抜けていく。放たれた7.8ミリ機銃弾と15ミリ機関砲弾はヴィヴィアーナ機の居たすぐ後ろの雲の中へと吸い込まれていった。

 アリーチェは自身の武装の照準距離を600メートルに設定しており、照準器の真ん中で目標を捉えた際にその目標との距離が600メートル以内であった場合、発射された弾丸はその目標の両脇か真上をすり抜けてしまう。だが、だからこそ、アリーチェ機の放った弾丸は照準器の真ん中に捉えられたヴィヴィアーナ機に当たることはなかったのだが。

 3秒。

 ヴィヴィアーナ機が飛び出してきた雲にもう1つ影が映る。

 すぐに飛び出してきたのは8号軽戦闘機――ヴィヴィアーナ機を追っていたジェグロフ機だった。発動機から橙色だいだいいろほむらを吐きながら。

 ヴィヴィアーナ機目掛けて発砲したアリーチェの弾丸を、雲の中でほとんどそのまま真正面から浴びたのだ。

 アリーチェは慌てて傾転して火達磨のジェグロフ機を躱す。

 その背後で、不規則な回転を始めてしまったジェグロフ機の主翼がロマキン機の回転羽を弾き飛ばし、その衝撃でロマキン機も大きく均衡を崩してしまったのが見えた。


「『鳥籠』より『ウミウ』。こちらは目的を完了した。これより針路を変更する」

「そいつは良かった。こちらも変針する」

「了解……」


 ヴィヴィアーナとアリーチェが連邦機と戦っている間に、「ハチクイ」は予定通り「積み荷」を投下したらしい。

 推力を失い、きりもみ回転に入って墜ちていくロマキン機と、最早バラバラになった火の玉として墜ちていくジェグロフ機を横目に、アリーチェ機はやや緩慢な動きで西南西へと機首を向けた。そこへヴィヴィアーナ機が合流してくる。


「言ったろ、あたしが微笑んでやるって」

「……ありがとうございました」


 顔が見えなくても、ヴィヴィアーナの表情が容易に想像出来るようだった。その想像に、アリーチェはふっと笑ってしまう。

 ヴィヴィアーナ機は機体後部に多数の弾痕があるが、尾翼の昇降舵エレヴェイター方向舵ラダーは失われておらず、主翼は殆ど無事で、当然操縦しているヴィヴィアーナも無傷だ。機体下部から漏れていた燃料も極端に増えているようには見えない。

 アリーチェ機も同じような状況で、要するに2機とも無事だった。


「そちらからはこちらが見えていたんですか?」


 やや息の整ったアリーチェはヴィヴィアーナに尋ねた。

 ヴィヴィアーナとジェグロフ機の空戦はアリーチェからは見えなかったが、ヴィヴィアーナの指示はアリーチェ機とロマキン機の様子が――特に細かい位置や高度が見えなければ出せないものだった。

 ヴィヴィアーナは少しの沈黙の後、いつもの飄々ひょうひょうとした声音で答える。


「完全に見えてたわけじゃないよ。ちらっと見えた最後の位置から、あんたの癖と考えるであろうことを予想して、それで後はあんたの真正面に入れるようにこっちも機動を合わせた。あたしの尻を追いかけてきてる奴を何とかしてもらいたかったからね」


 アリーチェは絶句した。

 一体どういう空間把握能力と思考能力をしているのか。

 いっそあきれる程の才覚だった。


「そういやあの敵機、知らない機種だったな」

「そうですね。『鳥籠』が記録してくれたでしょうか」


 「旋風」には撮影機器が搭載されているわけではない。

 近年戦果確認や情報収集の目的で一部の国では戦闘機の照準器に写真機や動画撮影機を仕込む動きがあるが、帝国ではまだ試用段階であって実戦で実用されているような代物ではなく、今回ヴィヴィアーナ達が乗っている「旋風」にも撮影機器は搭載されていなかった。

 なので、今回遭遇した8号軽戦闘機――無論、ヴィヴィアーナ達はこの名称すら知らないわけだが、この新型の敵機を写真や映像で残すことは出来なかった。一応、「ハチクイ」も直接視認しているので見張り員が写真くらいは撮っているだろう、と考えられる程度だ。

 いずれにせよ――


「ま、後は帰るだけだ。それが最大の心配事だな」


 ヴィヴィアーナとアリーチェは、この後洋上にこの機体を乗り捨てなければならない。

 つまり機外脱出して海面に落下傘降下するか、海面に機体ごと不時着水するかだ。

 どちらを選ぶかと言われれば、当然後者である。

 身一つで海面を漂うのは単純に危険だし、また回収船が発見し損ねる危険性があるからだ。それに「旋風」の機体内部は空洞が多い為、着水しても暫く海面に浮かんでいる。

 なので不時着水して、機体が完全に沈む前に回収してもらう、というのが事前に決まっていた。

 そして、それを先に実行することになったのは、ヴィヴィアーナの方であった。


 1時間半程の飛行で暗静海中部の公海上まで辿たどり着いた頃、ヴィヴィアーナ機の発動機は停止した。燃料切れである。

 燃料節約の為にそれなりに高い高度で飛んでいたが、それでも予定していた空域に辿り着く前にその時が来てしまった。

 しかし、ヴィヴィアーナは特に動揺した様子は見せなかった。アリーチェもそうであったし、当然「ハチクイ」の搭乗員の誰かが慌てている様子もなかった。予定より少し届かなかっただけであり、回収地点が多少変更になっただけである。

 懸念点といえばその頃にはすっかり日が暮れて、暗静海はその名の示す通り暗く静かな海となっていたことだ。

 ヴィヴィアーナの不時着を空から観察していたアリーチェから見れば、暗い海に僅かに見えた白波で漸く僚機が不時着したのだと確信した程である。

 いずれにせよ、救助の為の会合点はこのヴィヴィアーナの不時着位置に変更しなければならない。

 海面に浮かぶ「旋風」の機上でヴィヴィアーナがいた狼煙のろしの光を目印に、アリーチェ機も暫くその空域を旋回していたが、やがてアリーチェ機もヴィヴィアーナの近くに不時着水することとなった。


「ッ……!」


 作戦通りとはいえ、飛行機乗りとして良い気分のする類のものではない。

 不時着水に成功し、飛行の浮遊感が失われると、アリーチェは着水の衝撃で頭を打たないように手で押さえていた照準器に額を押し付け、無事に命があることに安堵あんどした。

 共和国領空での共和国軍機との対峙たいじ、連邦軍機との空戦、そしてこの不時着水。その緊張感が、思わず緩んだのだった。

 息を吸い、息を吐き、そして軽く自身の頬を張って落ち着くと、アリーチェは風防に手をかけた。

 「旋風」の風防は引き戸式だ。把手に手をかけ、風防を後ろに向かって引く。


「……あれっ」


 風防は、びくともしない。

 確かに元々決して軽くはないが、それにしても重すぎる。

 アリーチェは力を振り絞って風防を引くが、風防は全く動かず、少しずつ彼女の中に焦りを募らせていく。

 まさか。

 遂には計器類に足をかけ、精一杯踏ん張ってみたが、風防は少しも動かない。

 まさか、まさか。


うそ……んでる……!?」


 実は被弾や不時着の衝撃で風防が開かなくなる、という事例は少なくない。

 地上への不時着等でもよく聞く事例だ。

 しかし、よりにもよって、今出くわすとは。

 アリーチェは自身の不運を呪った。

 地上への不時着時になったのならば、ゆっくりと検討する時間があることが多いし、飛行場への不時着等ならばすぐに整備員が駆け付けてきて工具等で外から開けてくれる。

 だが、ここは海のど真ん中であり、そしてこの機体は現在海に沈みつつあるのだ。

 呼吸が浅く、早くなるのを抑えながら、アリーチェは風防を引っ張った。


「開いて……開いてよっ……!」


 時間にして10分余りだろうか。

 風防とアリーチェの格闘に終止符を打ったのは、果たしてヴィヴィアーナだった。

 自身の機体からアリーチェ機に泳いできたらしい彼女は、自動式拳銃と短剣を手にしていた。帝国軍制式採用のファッブリ1625拳銃。空軍将校が任官時に自弁購入するものである。

 彼女の拳銃を見たアリーチェは、すぐに自身の拳銃を抜いて風防の枠付近に向けた。ヴィヴィアーナが機体後部に避けたのを見計らって、引き金を引く。風防に開いた穴から少し横にずらして、再び撃つ。それを弾倉が空になるまで繰り返した。

 横一列に並んだ8個の穴を拡げるように、短剣を差し込んでえぐる。ヴィヴィアーナも外から手伝ってくれた。

 そして――


「ヴィヴィッ」

「はいはい、リーチェ。よく頑張った」


 風防に開いた大きな穴から、アリーチェは抜け出した。ヴィヴィアーナはそれを受け止めるように抱き上げ、主翼の上に立って、しかし2人とも主翼から滑り落ちてしまった。

 水飛沫みずしぶきを上げながら海面に顔を出し、呼吸を整えながら主翼につかまってお互いの顔を確認し、それからどちらからともなく噴き出してしまう。


「助けられてばかりでしたね、ヴィヴィ」

「いや、あたしはあんたに助けられたよ、リーチェ」


 数分後。発煙筒を手に主翼に腰掛け、肩を並べて話す2人の目の前に、帝国の旅行会社の標識を付けた飛行艇が着水した。

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