ノーアドバンテージの恋だから

朝霧 巡

プロローグ

コートの妖精   ☆

【はじめに】

 この物語はフィクションです。

 登場する人物・団体・名称・出来事などは作者の創作によるものであり、現実のいかなる存在とも一切関係ありません。

 また、物語内には演出としての表現が含まれております。予めご了承ください。




―――――――――――――――――――――

ノーアドバンテージの恋だから

 ”For this is a love without leverage,

 where hearts shine simply because they love with all they have.”


                朝霧 巡

―――――――――――――――――――――



 夏の太陽が容赦なくコートを照らしていた。観客席からの声援が耳に届くが、彼女の意識はただ目の前にある黄色いボールだけに集中していた。

 全国高校総体インターハイ女子テニスのシングルス決勝戦も大詰めを迎え、会場は歓声と静寂が交互に訪れていた。スコアは2-6, 7-5, そしてこの最終セットは5-4。彼女のサービスゲーム、そしてマッチポイントを迎えていた、


 一陣の風が吹き抜け、彼女の黄色いテニスウェアと白いスコートを揺らす。

 その風を受けながら三隈明香みくまさやかは深呼吸をして、黄色いボールをコートにバウンドさせた。


 対面には高校テニス界の女王と謳われる朝比奈美緒あさひなみおが鋭い眼差しを向けている。高校3年生にして数々の大会を制した絶対女王だ。

 そして2年連続インターハイ制覇を目指すべく明香の前に立ちはだかっている。


 春に入学してきたばかりの1年生。そんな明香がここまで勝ち上がってきたことは既に奇跡と言われていたが、彼女自身はそうは思っていなかった。

 同じ高校の卒業生であり、現王者の美緒が登場するまで高校テニス界を牽引し、今やトップ・テニスプレーヤーとなった衣笠愛きぬがさあいに憧れた少女は、この場所に立つことを、小さい頃からずっと夢見てきたのだから。


「フォルト!」


 最初のサーブは、激しくネットに引っかかった。

 明香は一瞬目を閉じ、再び深呼吸をする。汗で濡れたグリップを握り直し、もう一度トスを上げた。


 ボールは美しい弧を描き、明香のラケットが力強く振り抜かれる。

 鋭角に決まったサーブに、美緒は何とか食らいつき鋭い返球レシーブを繰り出した。

 しかし明香はそれを予測していたかのように前に詰め、クロスへと打ち込んだ。

 美緒は驚異的な脚力で追いつき、ロブを上げる。高く上がったボールに明香は一瞬迷ったが、直感が告げていた。「行け!」と……

 バックステップで下がりながら、スマッシュの態勢に入る。


「たぁぁぁっ!」


 時間が止まったように感じた。コートを風が吹き抜け、応援席からは息を呑む音が聞こえた。

 ラケットが振り下ろされる瞬間、明香の頭の中は不思議なほど静かだった。これまでの無数の練習、涙、挫折、そして喜び—すべてがこの一打に込められていた。


パーンッ!


 完璧な音がコートに響き渡った。

 美緒は食い下がるように腕を伸ばしたが、ボールはラケットの先をわずかに掠め、白線の内側に刺さる。


「ゲーム、セット、アンド マッチ、三隈!」


 審判の声が響く前に、明香は既に膝から崩れ落ちていた。

 両手で顔を覆い、溢れる感情を抑えきれない。高校1年生での全国制覇。誰も予想しなかった結末だった。

 観客席からは割れんばかりの拍手と歓声。師匠でもある衣笠愛きぬがさあいも観客席から身を乗り出し拍手をする。

 やがて向かい側のコートでは、美緒がネットへと歩み寄っていた。


「素晴らしい試合だったわ」


 美緒は明香に手を差し伸べた。


「『コートの妖精』っていうのは本当ね! 脱帽したわ!」


 明香は涙で曇る目で彼女を見つめ、その手を取った。


「ありがとうございます。本当に……夢みたいです」

「次は負けないわよ! 今度は私が挑戦者だから!」


 美緒は微笑んだ。


「でも今日は、あなたの勝ちよ。優勝おめでとう」

「ありがとうございます! 次も負けません……」


 明香の言葉に、美緒は「その意気よ」と笑った。お互いに全力を尽くしたのだ。後悔はない。

 表彰台で金メダルを首にかけられたとき、明香は観客席の家族を見つけた。父は誇らしげに、母と姉は涙を拭いながら拍手している。


 続けてトロフィーを手にした瞬間、明香の表情が変わった。いつもの静かで感情を表に出さない彼女から、まるで別人のように輝く笑顔が溢れ出た。太陽の光がその笑顔を捉え、金色に輝くトロフィーとともに彼女全体が光を放っているように見えた。


 パシャ!


 シャッター音が響き、その瞬間を、一台のカメラが捉えていた。

 ファインダー越しに見る明香の姿は、これまで見たことのないものであり、彼女と同級生の久遠友瑠くおんともるは思わず息を呑んだ。


「三隈さん……こんな良い表情浮かべられるんだ……」


 手にした一眼レフカメラを下ろし、友瑠は静かに呟いた。


 光成学園高校メディア部の部員として、友瑠は学園からインターハイの記録係という任務を与えられていた。学園代表の選手達の健闘を写真に収め、校内の新聞や学園ウェブサイトのために記録を残す裏方の仕事だ。


 それは選手達と異なり、決して目立たない役割だが、彼はそれを黙々と取り組んでいた。夏季大会は32競技。メディア部員20人で手分けして各競技を取材する。その中で友瑠は、女子テニスの個人戦シングルスと個人戦ダブルスを担当していた。


 液晶画面で撮った写真を確認する。そこには誰も知らない明香の姿があった。

 クラスでは「完璧超人」と呼ばれる三隈明香。容姿端麗、成績優秀な美少女であり、男子生徒からは高嶺の花として遠くから眺められるだけの存在だ。

 彼女に話しかけようとした男子は皆、同じ結末を迎えていた。

 普段から表情の変化が少ない明香だったが、男子が近づくとさらに表情が硬くなる。言葉少なに応え、時には無言で立ち去ることもある。そのため「冷たい」「近づきがたい」という評判が立ち、男子達は次第に彼女に声をかけることをやめていった。

 友瑠も同じだった。

 入学当初、班活動で隣になった時、彼が話しかけると明香は俯いて小さく頷くだけ。それ以来、彼も彼女との距離を置くようになっていた。


「こんな笑顔、学校では見たことがないな」


 液晶画面に映る明香の笑顔は、まるで別人のようだった。普段の緊張した表情からは想像もつかない、純粋な喜びに満ちたもの。

 友瑠はもう一度カメラを構えた。チームメイトに祝福される明香。コーチや先生と言葉を交わす明香。すべてが自然で、緊張の色はない。テニスコートの上では、彼女は本来の自分でいられるのかもしれない。


「これが三隈さんの素顔なのかな……」


 再びカメラのシャッターを切りながら、友瑠は考えた。完璧超人と呼ばれる彼女の内側には、きっと誰も知らない別の顔がある。それを知ることができるのは、彼女が心を開く相手だけなのだろう。


――住む世界が違い過ぎるな……俺とは……


 ファインダー越しに、光溢れる世界が広がっている。

 プロの写真家フォトグラファーを目指しながらも、どう進んでいいのかすら見えない自分にとって、今の明香は余りにも眩しかった。


「だからこそ、この光の世界を記録しておきたい、俺自身の腕で……」


 この写真を通して、少しでも彼女の本当の姿を伝えられればと思った。

 完璧でありながら、硬い表面の下に隠れた、本当の彼女を。


<挿絵:三隈明香>

https://kakuyomu.jp/users/oracion_001/news/16818622176891731210

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る