消えない香水

sui

消えない香水



ユウは、中古の古いマンションに引っ越してきた。


その部屋は少しだけ時代遅れの雰囲気があって、壁紙の隅には細いヒビが走り、押し入れの奥には使い古された小さな棚がひとつだけ残っていた。

でも、なんだか妙に落ち着く部屋だった。


ただひとつだけ、不思議なことがある。

夜になると、ふとした瞬間――部屋のどこからか、甘くて懐かしい香水の香りが漂ってくるのだ。


それはラベンダーと、古い紙と、少しだけ雨の匂いが混ざったような、胸の奥がきゅっとなる香り。

けれど、どこを探しても、香水の瓶なんて見当たらなかった。


ある夜、ユウは夢を見た。

自分の部屋に、見知らぬ女性が座っていた。

髪の長い、少し昭和っぽい服装の、静かな人。

彼女はただ、笑って言った。


「この香り、好きだったの。ここで暮らしてたとき、よく窓辺でつけてたのよ。

――でも、誰ももう覚えてないのね」


目が覚めると、あの香りが強くなっていた。

引き出しの奥を開けてみると、包み紙にくるまれた古い香水瓶が見つかった。

うすいガラス越しに、ほんの少しだけ、香りが残っている。


その日からユウは、夜になると少しだけ香水の蓋を開け、窓辺に置くようになった。

すると、ときおり窓ガラスに、うっすらと人影が映るようになった。

泣いているようでも、笑っているようでもない、穏やかな横顔。


ユウは気づいていた。

あの香りは、誰かの生きた時間そのものだった。


それは過去に確かにあった、夕暮れの記憶、言葉にならなかった想い、

ひとりぼっちじゃなかった証。


ある晩、風の強い日に、香水の瓶は自然と倒れ、最後の一滴が窓辺に落ちた。


それきり、香りはもう漂わなくなった。


けれどユウの中には、あのやさしい時間の気配が、今も静かに息づいている。


まるで、誰かの人生の余韻を、ほんの少しだけ分けてもらったみたいに。

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消えない香水 sui @uni003

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