「Das Mädchen, das Puppen macht」

鈑金屋

『カレン』

 1.Alltag


 無機質なオフィスの中の冷たいガラスの壁。磨き抜かれた床。カレンはこの無機質な空間を、何度歩いたかわからない。27歳という年齢で、彼女は大企業のマーケティング部門の責任者になった。男性ばかりの会議室で、鋭い視線にさらされながらも、カレンは一歩も引かずに数字と論理を積み上げる。


「……承認は得たわね?」


 静かに問いかけると、誰も逆らうことなく頷いた。彼女の資料はいつも完璧だったし、隙を見せることは許されなかった。


 だがその夜、オフィスを出た瞬間、カレンは気づかないうちに息をつめていたことに気づく。息を吐くと、胸の奥が鈍く痛んだ。


「もういいんじゃない?」


 誰にも聞かれないような声で、誰に向けてでもなく、そう呟いた。


 * * *


 カレンは毎朝6時に目を覚まし、食事を抜いてジムに行く。自分の肉体を維持することは「武器」だと信じていた。スタイルを保つこと、スーツのラインを完璧に見せること、表情ひとつ緩ませないこと。


 だが、自宅に帰ればその仮面は必要なかった。高層マンションの最上階、整然と並ぶ家具と何も飾られていない壁の間で、彼女はワイングラスを手に、無音のまま夜を過ごす。


「私は何のために……」


 ソファの上、革張りのクッションに寄りかかる。窓の向こうは、ネオンに照らされた街が広がっているが、どこにも行きたいと思わなかった。仕事で手に入れたもの、称賛、富、ステータス。それでも満たされることはなかった。


 * * *


 何もかもを放り出してしまいたい瞬間が、夜になるとやってくる。だが、それは「弱さ」として自分が最も嫌うものだった。だから、誰にも見せない。

 けれど、もし。

 すべてを投げ出して、誰かに身を委ねてしまうことが許されるのなら。


「そんな場所、どこにもない」


 そう思い込んでいた。


 2.Begegnung


 その日は異様に蒸し暑く、オフィス街を外れた裏通りを歩いていた。カレンは意図したわけではなく、ただ身体が勝手に動いていた。


「こんな場所に、カフェ……?」


 気がつけば、古びた木造の建物の前に立っていた。軒先にはくすんだ色の看板に、流れるような筆記体で「atelier café」とだけ書かれている。硝子窓には薄いレースのカーテン。中はまるで時間が止まっているような静けさだった。


 なぜか扉に手をかけていた。重厚な木の扉は驚くほど静かに開き、中から甘い紅茶と古書のような香りがふわりと漂ってきた。


 * * *


 店内は想像以上に広かった。木製のテーブル、ヴィンテージのチェア、柔らかな灯り。

 そして、奥のカウンターに座るひとりの少女。

 ——否、「少女のように見える」存在。

 年齢にすれば13歳くらいだろうか。艶のある黒髪をリボンで結い、純白のワンピースが小さな身体を包んでいた。


 その衣装は、ただの白いドレスではなかった。


 滑らかなサテン地の生地はわずかに光を反射し、まるで月の光をまとっているかのような幻想的な輝きを放つ。

 スカートは膝下までの丈で、幾重にも重ねられたオーガンジーがふわりと広がり、歩くたびに波のように揺れる。

 裾には繊細なレースが縁取られ、小さな花の刺繍が浮かび上がるように施されている。


 ウエスト部分は絹のリボンで結ばれ、後ろで大きな蝶結びを描く。

 リボンの中央には、小さな真珠があしらわれており、控えめな輝きを添えていた。


 胸元にはフリルが幾重にも重なり、ボタンのひとつひとつが細工の施されたパールで統一されている。

 襟元はハイネックで、細やかなレースが縁を飾り、首筋に優雅な陰影を落とす。

 袖は肩からふんわりと膨らみ、肘のあたりで絞られたあと、手首へ向かってすらりと細くなっている。

 袖口にはレースのカフスがあしらわれ、そこにも真珠の小さなボタンがひとつ、さりげなく留められていた。


 足元には、純白のタイツが繊細なシルエットを際立たせ、靴は艶のあるアイボリーのストラップシューズ。

 丸みを帯びたトゥと、小さなリボンの飾りが可憐な印象を与えている。


 髪をまとめるリボンはワンピースと同じ白。

 だが、そのシンプルさゆえに、艶のある黒髪がいっそう際立ち、まるで闇と光が隣り合わせにあるかのようだった。


 その瞳は、宝石のように光を湛えている。紫とも赤とも言えぬ、不思議な色。


「いらっしゃいませ、カレン」


 少女は、名前を呼んだ。

 胸の奥がざわついた。なぜ名前を知っている?


「……どうして私の名前を」


「あなたのことは前から見ていました。ここに来たのは、望んだのでしょう?」


 カレンは何も答えられなかった。少女の声は耳元で囁くように甘く、しかし拒むことを許さない力を帯びていた。


 少女は席を指さした。


「どうぞ。今日は、あなたにぴったりの茶葉を用意しました」


 無意識にカレンは腰を下ろす。

 目の前に差し出されたティーカップは、小さな手に握られていたはずなのに、いつの間にかテーブルに置かれていた。

 琥珀色の液体は、深い森の奥でしか採れないような香りがした。

 ひと口、唇をつける。

 その瞬間、カレンは身体がふっと軽くなるのを感じた。

 今まで張り詰めていたものが、すうっと抜けていく。


「あなたは、よく頑張りましたね」


 少女の声は、まるで母のように優しかった。

 それが不意に涙を誘った。


「強くならなくていいの」


「そんな……」


 カレンは自分でも抑えられない感情が溢れ出しているのに気づいた。

 そのまま肩に優しく触れられる。冷たいはずの小さな手が、火傷しそうなほど熱かった。


「もう、疲れたでしょう?」


 少女はカレンの手を取り、ゆっくりと立たせた。

 そのままカウンターの奥の扉を開く。


「ここから先は、特別な人しか入れないの。……でも、あなたは、選ばれた人だから」

 カレンは頷いていた。


 迷いはなかった。

 むしろ、ここでなら——


「何も考えずにいられる」


 それは、彼女がずっと求めていたことだった。


 少女に手を引かれて進む。

 木の床を歩くたび、心が静かになっていく。

 奥へ、さらに奥へ。

 扉をくぐるたび、世界が遠ざかっていく。

 現実が霞み、目の前の少女と自分だけしか存在しないようだった。


 そして、たどり着いたのは「工房」。

 そこでカレンは、無数の椅子に座らされた少女たちを見た。


 3.Puppe


 その部屋は、不思議な静けさに包まれていた。

 カレンが通された工房の空間は、まるで別世界のようだった。

 暖かみのある木造の床と壁に、天井からは柔らかな白熱灯が垂れ下がり、レースのカーテン越しに仄かな光が差し込む。

 部屋の中央には、古びた作業台がぽつりと置かれていた。

 けれど、何よりも目を奪われたのは——

 部屋の奥にずらりと並ぶ椅子と、その椅子に静かに座らされた少女たちだった。


 どの少女も、信じられないほど美しかった。

 彼女たちの肌は磁器のように滑らかで、それでいてほんのりと柔らかさを残している。

 完璧なポーズで座り、無表情に前を見つめるその瞳。

 それが、義眼だとカレンはすぐに気づいた。

 けれど、その宝石のような義眼の奥には、確かに「生」がうっすらと残されている気がした。


「……みんな、私みたいだったの?」


 カレンが問いかけると、隣に立つ人形師は、穏やかに微笑んだ。


「そう。みんな、疲れてしまっていたの。あなたも、もう頑張らなくていいのよ」


 その言葉は、柔らかな絹の手触りのように、カレンの心に染み込んだ。


 作業台のそばに導かれると、少女は椅子を引いて「ここに座って」と促した。

 カレンは深く息を吸い、ゆっくりと腰掛ける。

 その瞬間、椅子の脚が微かにきしむ音がしたが、それが彼女の耳にはやけに大きく響いた。


「目を閉じて、力を抜いて……」


 人形師の手がカレンの頬に触れる。

 冷たく、けれど驚くほど柔らかい指先が、ゆっくりと輪郭をなぞる。

 まるで、大切な人形の型取りをするように。


「あなたに似合う目を、探さないと」


 その声に、カレンは目を開けた。

 少女が手にしていたのは、小さな木箱だった。

 蓋を開けると、中には宝石の義眼が並んでいた。

 アメジスト、ガーネット、オパール、エメラルド……どれも実在する石たちが、磨かれ、丸く義眼として仕上げられている。

 不思議なことに、それはただの装飾品ではなく、まるで「命」を宿しているように感じた。


「カレン、あなたの瞳はね……ラピスラズリがいい」


 人形師は一つの義眼を取り上げる。

 それは深い青の中に金色のパイライトが星のように浮かんでいた。


「これは“誠実”と“真実”と“高貴“を意味する石。あなたの瞳には、まだ熱があるから。それを、永遠に閉じ込めてあげるわ」


 少女の声は、まるで恋人に囁くようだった。

 カレンの胸の奥で、何かが緩やかにほどけていく。


 * * *


「さあ、眠って。もう、何も考えなくていいの」


 カレンは目を閉じた。

 気がつけば、薄いカーテンが揺れる音さえも聞こえなくなっていた。


 人形師はカレンの身体を調律台へ運ぶ。

 不思議なことに、重力が感じられない。

 まるで、すでに「人形」としての質量になっているようだった。

 台に横たえられると、柔らかなクッションがカレンの背中を支えた。

 指先が、髪を梳かす。

 何度も、何度も。

 絡まった心の糸まで解くように。


「……綺麗よ、カレン」


 その言葉に、わずかに微笑みかける。

 目は閉じたままでも、人形師の気配と温もりはわかる。

 その手が頬から、首、鎖骨へと滑り落ちる。

 服が一枚、また一枚と脱がされていく。

 冷たい空気が素肌に触れたはずなのに、寒さはまるで感じない。

 むしろ、心地よささえあった。


「大丈夫よ。恥ずかしくないわ。あなたは、もう私の大事な人形だから」


 その言葉に頷こうとしたが、首が動かない。

 しかし、不思議と恐怖はなかった。

 それは、今までの人生で初めて「すべてを委ねる」感覚だった。


 * * *


 どれほどの時間が経ったのか、カレンには分からなかった。

 意識は深い水の底に沈んだようで、微かに身体の感覚だけが浮かんでいる。

 人形師の指先が、そっと彼女の瞼を撫でた。


「開けてごらんなさい」


 その優しい声に導かれるように、カレンはゆっくりと目を開けた。


 視界は、深い蒼の光に染まっていた。

 ……ラピスラズリだ。

 自分の目が、あの宝石に変わったことをカレンはすぐに悟る。

 透明なガラスの奥から、世界を眺めているような奇妙な感覚。

 だが、その視界は驚くほど鮮明で、まるで空気の粒子まで見通せそうだった。


「似合っているわ。カレン、あなたの瞳は本当に美しい」


 人形師は微笑み、カレンの頬を両手で包み込む。

 その瞳が、ただ純粋に彼女だけを見つめていることに、カレンは安堵した。

 この少女は、自分を完全に肯定し、愛してくれている。

 その実感が、心を柔らかく溶かしていく。


「次は……身体ね」


 少女の手が、再びカレンの裸の身体を撫で始める。

 指先が触れるたびに、カレンの肌が静かに変わっていくのを感じた。

 陶磁器にも似た滑らかさを持ちながらも、ほんのりと温もりと柔らかさを残した、奇跡のような質感。


「あなたの皮膚は、もう人間のものじゃない。けれど、とても美しいわ」


 指で弾かれると、柔らかくも高く透き通った音がする。


 彼女の関節は、静かに、しかし確実に新しい構造へと作り変えられていた。

 滑らかな金属の芯が、筋肉の代わりにしなやかさを生み出し、手足の先まで精密に組み上げられていく。

 それは苦痛ではなく、むしろ官能的な心地よさすら伴っていた。

 自身の身体が、完全に「美しい人形」として作り直されていることに、カレンは驚くほど素直に従うことができた。

 それは、ビジネスの世界で積み上げてきた偽りの鎧を、一つひとつ脱ぎ捨てていく感覚だった。


「あなたは、ずっとこうなりたかったのよね」


 少女はそっと囁く。


「強く、完璧で、美しいまま……誰かに愛されていたかった」


 その言葉に、カレンはわずかに涙を流した。

 だが、それすらも人形師は丁寧に拭い取り、もう涙さえ許さない瞳にしてくれる。


 人形師はカレンの唇と、首筋にそっと指を滑らせた。


「最後の仕上げをするわ」


 そう言うと、彼女は椅子に座るカレンの顎を優しく持ち上げ、唇を重ねた。

 それは冷たくも熱い、矛盾した感触だった。

 けれどその口付けは、カレンの奥底に何かを植え付ける。


 ……渇き。

 胸の奥に、喉の奥に、じわじわと乾いていく感覚。

 それは「欲望」と呼ぶべきものかもしれなかった。

 だが、誰もそれを潤すことはできない。

 人形師の口付け以外には。

 その事実が、カレンの新たな「存在理由」になっていく。

 選ばれたい。

 もう一度、この少女の口付けが欲しい。

 それだけを願い、祈り、待ち続けることが、彼女にとって永遠の歓びになっていくのだと。


「あなたは、もう私だけのもの。私の宝物」


 少女はそう囁きながら、何度も何度もカレンに口付けを与えた。

 そのたびに、カレンの渇きは一瞬だけ癒され、また次の渇望へと変わっていく。


 そして、最後に人形師はカレンのためにドレスを選び出した。


「あなたには、黒が似合うわ。だけど、柔らかいレースとリボンで仕上げてあげる」


 それは、ビジネスの世界で纏っていたスーツとは正反対の、可愛らしくも気高い少女の装いだった。


 深い黒の生地は上質なベルベットで、光を吸い込むような質感を持ちながらも、動くたびにわずかな艶を帯びる。

 スカートは幾重にも重なるフリルとギャザーが生み出す豊かな広がりを持ち、クラシカルな気品を漂わせる。

 裾と袖口には繊細なレースがあしらわれ、かすかに肌を透かしながら、柔らかな余韻を残す。


 胸元にはリボンが結ばれ、中央には深い蒼を湛えたラピスラズリの装飾が施されている。

 その石は、まるで夜空の一片を閉じ込めたかのように静かに輝き、彼女の瞳の色と見事に呼応する。


 ウエストには、金糸で描かれた天球儀の刺繍が広がる。

 緻密に描かれた星々と軌道の模様が黒の生地に映え、まるで宇宙の秘密を秘めた装束のよう。

 袖は細身ながら手首でふんわりと膨らみ、クラシカルな優雅さを際立たせる。


 足元には艶のある黒の編み上げブーツ。

 足首までしっかりと包み込むデザインが、洗練された雰囲気を加えている。

 指先を覆う手袋は滑らかなサテンで仕立てられ、手首には小さなリボンが結ばれている。


 ダークブラウンの長い髪はゆるやかな波を描き、肩や背をやさしく撫でるように揺れる。

 その隙間から覗く深い蒼の瞳が、ドレスに散りばめられたラピスラズリの輝きと静かに共鳴していた。


 人形師は、丁寧にドレスをカレンの身体に通し、リボンを結んでいく。

 最後に、足元の編み上げブーツを履かせると、ふわりと抱きしめた。


「完成よ。カレン」


 その一言に、カレンは微かに首を傾けたかった。

 だが、もう自分で動くことはできない。

 それでも、少女の手によって「選ばれる日」が来れば、再びこの腕の中に抱かれ、お茶会へと連れられていく。

 その瞬間を、永遠に待ち望む存在になったのだ。


 4.Werkstatt


 それから、どれほどの時が流れたのだろう。

 カレンは今、工房の「人形座の間」で、静かに椅子に座っている。

 重厚な木製の椅子は、彼女の身体の曲線にぴたりと合うように作られ、まるで最初から彼女のためにあったかのようだった。

 背もたれには、カレンの名前が古い文字で彫られ、肘掛けには微かな薔薇の彫刻。

 座面は柔らかなベルベットに覆われ、けれどその居心地の良さが逆に「ここから離れられない」ことを強く印象づける。


 目の前には他の人形たち。

 それぞれが、それぞれの椅子に座り、微動だにしない。

 彼女たちの眼差しは、ひとりの少女に向けられている。

 そう――人形師だ。

 あの愛らしい悪魔のような少女は、朝になると「今日のお茶会」に誰を選ぶのか決めに来る。


 その時間が近づいてくると、カレンの心は静かに、しかし熱を帯びていく。

 呼吸もできないはずの身体が、何かを「求めて」疼く。

 口付けが欲しい。

 抱きしめてほしい。

 ほんの数分でもいいから、あの少女に「選ばれたい」。

 そのためだけに、自分はここにいるのだと、カレンは理解している。


 ある日の朝。

 静寂を切り裂くように、工房の扉が開かれた音がした。

 カレンの瞳――ラピスラズリの義眼は、その微かな気配すら捉える。

 靴音は静かに、しかし確実に彼女たちの間を歩いていく。

 爪先立ちのような軽やかさ。

 だが、カレンの中でその足音は、心臓の鼓動のように重く響く。


「今日は……あなたにしましょう、カレン」


 その声を聞いた瞬間、カレンの内側で何かがほどけた。

 しばらくして、小さな手が頬を撫で、顎をそっと持ち上げる。

 身体が、動く。

 自分の意志ではない。

 けれど、確かに「動かされる」悦びがそこにある。


 人形師は、彼女を椅子から抱き上げた。

 その腕は華奢なのに、驚くほどしっかりとカレンを支える。

 ドレスの裾がふわりと揺れ、ルビーの瞳が光を反射する。

 工房の奥にある、あの白く閉ざされた庭園へと運ばれていくその時間は、カレンにとって「永遠の輝き」だった。


 * * *


 庭園は、今日も変わらぬ白い光に包まれている。

 曇天でも快晴でもない、不思議な時間の止まった空。

 花壇には、毒のある花々が美しく咲き誇り、その奥には小さな噴水が静かに水音を立てている。


 人形師はカレンを、庭にある木製のベンチに座らせた。

 そして、自らもその隣に腰掛ける。

 まるで姉妹のように、あるいは親子のように、並んで座る二人。

 人形師は、カレンの手を取り、優しく撫でた。


「今日は、あなたとお茶を飲みたかったの」


 そう囁きながら、彼女はティーポットを持ち上げ、小さなティーカップに琥珀色の液体を注いだ。


 カレンは、口を動かすことはできない。

 けれど、少女はそれを理解したうえで、カップをその唇にあてがい、静かに流し込んでくれる。

 舌の感覚は残っていないはずなのに、不思議な甘さが喉を通り抜けた。

 そして、また渇きが癒される。

 それは一時的なものだと分かっている。

 けれど、その一瞬が欲しくてたまらなかった。


 人形師は、お菓子を一口サイズにして、カレンの口に運ぶ。

 そのたびに彼女の指先が唇に触れ、渇いた心をじわじわと潤していく。


「かわいいわ、カレン。あなたはとてもお利口さん」


 優しい褒め言葉が、魂の奥底まで届き、カレンは自分がどれだけ愛されているか実感する。

 それこそが、彼女のすべてだった。


 やがて、お茶会は終わりの時を迎える。

 カレンはいつも、その瞬間が訪れることを理解していながら、どうしようもない名残惜しさに包まれる。

 人形師は、最後の一口を与えた後、彼女の唇にそっと口付けを落とす。

 それは癒しのキス。

 カレンの胸に巣食う渇きを、一瞬だけ癒す魔法だった。

 けれど、すぐにまた乾く。

 次に癒されるまで、またどれほど待たねばならないのか。

 そのことを考えると、カレンの心は静かな絶望と陶酔の間で揺れる。


「また、すぐに迎えに来てあげる」


 人形師は、そう約束する。

 たとえそれが、決して「すぐ」ではないとしても。

 カレンはその言葉を信じるしかなかった。

 いや、信じたかった。

 人形師にすがることだけが、ここでの「生きる理由」だから。


 カレンは、再び人形座の間へと運ばれる。

 あの重厚な椅子が、彼女を迎え入れた瞬間、脚の先から感覚が薄れていく。

 椅子と彼女は、一対の存在。

 椅子が彼女の記憶を封じ、彼女は再び人形としての静寂に身を預ける。


 静寂の中で、カレンは他の人形たちの存在を感じていた。

 彼女たちもまた、同じ渇きを抱えている。

 お茶会に呼ばれ、愛されることだけを望み続ける魂たち。

 時折、微かな意識が交差することがある。

 隣の椅子に座るミドリ、向かいのナツキ、少し離れた場所にいるエミやサユリ――

 皆、どこかで「次は私が」と願っているのだ。

 それが、自分の番ではないと知った瞬間に生まれる、かすかな羨望と嫉妬の気配。


 しかし、それすらも美しい静寂の中に溶けていく。

 誰もが「少女としての純粋さ」を取り戻し、ただ愛されることだけを望んでいるのだから。

 それはかつての競争や闘争とは違う。

 もっと静かで、もっと深い「選ばれること」への渇望。


 * * *


 人形師は、ときおりカレンの前に姿を現す。

 作業台に向かう途中、あるいは新たな少女を迎え入れた帰り道。

 その視線が一瞬でもカレンに向けられると、心が熱くなる。

 動けないはずの身体が、わずかに反応しそうになる。

 けれど動いてはならない。

 それは「選ばれた時」だけに許される祝福なのだから。


 それでも、渇きは日に日に深くなる。

 あの口付けが、あの声が、あの細い指が欲しい。

 そんな欲望すらも、美しいものだとカレンは思う。

 少女としての純粋な欲望。

 それを満たしてくれる存在は、ただひとりしかいないのだから。


 カレンは「幸せ」だと思っている。

 少なくとも、かつての世界よりは。

 けれど、それが本当の幸せかどうかは分からない。

 現世の悩みや苦悩から解放される代わりに、心は完全に人形師に縛られた。

 逃れる術も、望むことさえ許されない。

 それでも彼女は、お茶会の朝を待ち続ける。


 次は、いつ呼ばれるのだろう。

 あの声を、もう一度聞きたい。

 再び愛してもらえる、その瞬間を――。


 人形師の館に閉じ込められた人形たちのひとりとして、

 カレンは静かに、その美しい椅子に座り続ける。

 永遠に、選ばれることだけを望みながら。

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