第七夜【死家】


 この家は、ごく普通の借家だった。


初めの三か月は、静かで穏やかな日々だった。陽当たりもよく、二人で選んだ家具が少しずつ部屋に馴染んでいくのを眺めながら、夫婦はそれなりに幸せに暮らしていた。


最初に異変を感じたのは、妻のほうだった。


ある夜、ふと目を覚ますと、誰かが窓の向こうからこちらを覗いている気がした。カーテン越しに感じる視線。けれど実際に見ても、そこには何もいなかった。ただ、夜風がひゅうと吹き抜ける音が、耳の奥に妙に残るだけだった。


「最近、眠れないんだ」と夫に話すと、彼も同じことを言った。


「俺も夜中に、よく目が覚める。…変だよな。なんでだろうな」


次第に、家の中の空気が変わっていくのを感じた。


廊下の角を曲がるたび、誰かがそこに立っていたような錯覚。風呂に入ろうとすると、浴室の扉の前に、湿った空気がまとわりつく。ある晩、湯船の蓋を開けると、真っ黒な髪の毛が無数に浮かんでいた。根元には血の塊のようなものがついていた。


警察を呼んだ。調べてもらったが、「特に異常は見つからなかった」とだけ言われた。


その後も変化は止まらなかった。近所のおばあちゃんが、よく大福や煮物を差し入れてくれたが、いずれも腐っていた。包みを開けた瞬間に鼻をつく異臭。まるで、ずっと前から放置されていたかのように。


半年が過ぎた頃、耳元に誰かの声がするようになった。


「死ね」


かすれた、けれど確かに聞こえる声。眠りの淵にいるとき、唐突に聞こえては、妻を跳ね起こす。


そんなある日、ささいな言い争いから始まった喧嘩が、止まらなくなった。


「なんなの……ほんとに、もう……」


妻は震える手で夫のジャケットを掴んだ。この心臓ごと切り裂いてやりたいという衝動が一瞬脳裏をよぎる。その感情が、すでに自分のものではないような気がした。


夫は無言だった。けれど頭が熱く、息が荒れ、喉の奥から怒鳴り声が込み上げた。


何を言ったかは覚えていない。気づけば、二人は睨みあい、互いの顔に憎しみが滲んでいた。


次の瞬間、夫はふらりと立ち上がり、物置から縄を持ち出した。


それが何の縄か、妻は知らなかった。けれど、夫はそれを天井の梁にかけ、無言で椅子に乗り、首に巻いた。


止めることも、叫ぶこともできなかった。


まるで、そうなることが決められていたかのように。見ていることしか、できなかった。


男の身体が宙に浮かび、椅子が倒れ、ギシギシときしむ音が、居間の天井に響いた。


妻はその夜、屋根に登った。


登ることに、ためらいはなかった。風が冷たい。頬に、唇に、夜風が触れる。


誰かが囁いていた気がする。


「飛べ」


彼女は、ひとつ息を吸い、目を閉じて身を投げた。


地面に落ちるまでの一瞬、世界は無音だった。まるで、自分が空気と同化したような錯覚。そして次の瞬間、鋭い鈍音が辺りに響いた。


朝、通報を受けた警察がやってきた。


その中の一人が、件の家を訪ねると、窓から見えたのは、梁からぶら下がる男と、庭先に倒れ伏した女の姿だった。


「なんて……むごい……」


警官は苦しげに呟き、帽子を外した。


差し入れをしていた近所の老人は、ただ首を振るばかりだった。


「あんなに仲が良かったのに……」




それからというもの、この家は事故物件となった。


不動産業者は告知義務を逃れるため、「住み込みのモニター」という名目で、バイトを募集することにした。


そして、またひとり。誰かがこの家にやってきた。



「お前も吊れよ」


誰かがそう言うのだった

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【短編ホラー】事故物件 鬼大嘴 @ONIOHASHI

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