第六夜【開放】


 最初はただの冷やかしだった。

義明に紹介された事故物件の短期バイト。好奇心と多少の金、なにより退屈しのぎにちょうどいいと思った。


初日に異変は起きた。夜、押し入れの戸がひとりでに開いた。中からは風もないのに、ぼそりと「いる」と囁く声。寒気がして飛び起きた。バカバカしいと思ったが、翌朝にはもう荷物をまとめていた。


逃げるようにその家を出た。何も持たずに、気がつけば夜の街を彷徨っていた。


その時だった。


一本裏の通り、住宅街の一角に、一軒の家が目に入った。灯りはない。だが、なぜか足が勝手に向いてしまう。視線を引かれるように、吸い寄せられるように。


窓を覗いた。カーテンがかかっていたので、下から中の様子を覗き込んでみた。


中に男がいた。背を向けて、何かに集中しているようだったが、こちらが覗いた瞬間、男はふと顔を上げた。


目が合った。

何かが凍りついたような静けさ。


逃げられなかった。

なぜか、そのままその家の周りをウロウロしたら裏口の鍵は開いていた。無意識のうちに中に入っていた。


中に入り、廊下を歩く。まるで帰ってきたかのように自然だった。


そして、二階の和室にある押し入れに体が向かう。自分でも不思議だったが、何のためらいもなく開けて、中へ入り、上にある天井板を押し上げて屋根裏へ。


ただ、ここにいたかった。


家の住人が誰かもわからない。だが、夜になると、その住人が憎くてたまらなかった。


その感情は唐突に現れた。

(こいつ、死ねばいい)

なぜか知っていた。前の住人がこの家で首を吊ったこと。夜になれば、今の住人にも「お前も吊れよ」と、耳元で何度も囁いてやった。


だが、反応が薄い男に苛立ちを覚えた。


ある夜、風呂場に入り、浴槽のふちに座って、自分の髪をむしった。ゴソッと抜ける感覚が快感だった。ごっそりと抜けた髪を見て、さらに抜いた。引きちぎる音が心地良かった。根元に血が滲んだ。


それでも、あの男は変わらない。


ある日、スケッチブックを開いて驚いた。

自分の顔が描かれていた。知られているはずもない自分の顔。驚くほど緻密な筆致。虚ろな目。開きかけた唇。


その口が動いた。


「死ねよ」


声は、自分の声だった。酷く歪み、ねじれ、濁っていたが、確かに自分だった。


怖くて、屋根裏に逃げた。


その夜は騒がしかった。

家中を走り回る足音。ドタドタと暴れ回る気配。柱が軋む音。居間の天井から聞こえる「ギシ……ギシ……」という引っ張る音。そして、何かが落下した――肉の潰れるような「ぐしゃっ」という音。


静寂。


明け方、屋根裏の隙間から覗くと、男は荷造りをしていた。生きていた。

死ななかった。

がっかりだった。


これで、この家はまた空になる。


その夜、ふと目が覚めた。居間だった。常夜灯の青白い光が、薄く空間を照らしていた。


自分は立ち尽くしていた。


体が勝手に動く。階段を登りながら、頭の中は奇妙に冴え渡っていた。


(首を吊ろう)


そう思うと縄を用意し、椅子を持ち出し、天井の梁に結ぶ。足を乗せる。首に縄を掛ける。深く息を吐く。


飛ぶ。


ギシッ……という音の後、少し間自分の体重を支えていたが、ブチブチという音を立てて縄が切れた。


体は床に崩れ落ちた。頭がぼんやりする。もしかしたら、前の男が使ったからかもしれない。


立ち上がる。

今度は、自然と足が2階に向けられ階段を上がっていた。


今度は窓を開けて外に出る。軒先をよじ登って、屋根に足を掛けた。冷たい夜風が頬を撫でた。


目を閉じた。


誰もいない。何もない。


だけど、全てが許されたような気がした。


「はははっ」

笑いがこみ上げた。

小さく、震えるような笑いだったが、それは確かに自分の意志だった。


そして、一歩踏み出した。


風が耳を切り、体が空を滑る。


その瞬間、重力も痛みも、なにもかもから解放されたような気がした。


脳みそも、肉も、意識も、バラバラに飛び散った。

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