第五夜【潮時】


 朝、目が覚めると、部屋の空気がわずかに淀んでいるのを感じた。窓を少し開け、冷たい外気を取り込む。

キッチンでコーヒーを淹れ、ひと口飲んだ瞬間、思わず吐き出しそうになった。


「……甘、なにこれ甘ったるい」


それは甘さを通り越して、粘り気を感じるほどの重たい液体だった。

濃厚なリキュールを無理やり砂糖で薄めたような、喉の奥に焼けるような残留感が残る。

コーヒー豆の香ばしさも、苦味も存在しない。ただ“酔い”に近い甘さだけが、口中にまとわりついていた。


その味がいつ淹れたのかすら曖昧な記憶を呼び起こし、尊は眉をひそめた。


(この家、ちょっと今までとは比べ物にならないな)


そんな思いを抱えながら、尊は散歩に出る。

どんよりとした曇天が頭上に広がっていた。住宅地は静かで、時間の流れがどこか止まっているように感じられる。


家々の軒先には変わらぬ日常が並んでいたが、歩いている人々には違和感があった。

すれ違う人の顔が、誰もかれも無表情なのだ。目線は前方に向けられているのに、焦点が合っていないような、まるで深い水の底から見ているような視線。呼吸の音さえ聞こえない。


尊は独りごちたが、特に答えを求めていたわけではなかった。曇り空の下、薄いジャケットを羽織って外へ出た。頭がどこか霞んでいる。だが、その霞の中で、これまでの出来事が脳裏をよぎる。目の前に立っていた夫婦の影、黒く変色したお茶、風呂釜に詰まった髪……。


足は自然と住宅街の奥へ向かっていた。似たような外観の一軒家が並ぶ通り。そのうちの一軒、以前にも目にしたあの自宅と酷似した家の門扉に、昨夜見かけた救急車の名残なのか、白いビニール紐のようなものがかけられていた。ロープだ。しかも、それは門柱の上に投げられているだけでなく、玄関の引き戸の取っ手に結びつけられている。無言の封印のように。


すると不意に視界の先、歩道橋の上に佇む男が見えた。


遠目にスーツ姿であることだけがわかる。動かない。背筋を伸ばして立ったまま、ただ沈黙の中にいた。

尊は足を止め、なんとなくその男の姿に目を留めた。顔を伏せていたが、しばらくしてふと顔を上げると――そこに見えた表情に、尊の心臓が跳ねた。


(……あの警官だ)


最初の夜、訪ねてきた、妙に無愛想で部屋の中を覗き込もうとした警官。あの男だった。

なぜこんな場所に?


警官の目はただまっすぐ、歩道橋の下――車が行き交う車道を、じっと見つめていた。まるでそのまま身を乗り上げてしまいそうな、どのタイミングか吟味するようなそんな雰囲気だ。


その場に釘付けになりそうな感覚を振り切り、尊はそそくさと帰路についた。

背中に視線のようなものを感じたが、振り向くことはできなかった。



家に戻ると、玄関の前にオーナーが立っていた。白い袋を手に持ち、相変わらずにこやかだ。


「やあ、調子どう?」


「……まあ良くはないですね」


尊がぼやくと、オーナーは「そりゃそうだ」と笑った。紙袋から大福を取り出し、差し出す。


「甘いもんでも食って、気持ち切り替えなよ」


二人でリビングに座る。尊はしばしの沈黙の後、切り出した。


「この家、誰か他に……住んでませんか?」


「ふむ、なんで?」


「窓を覗かれた気がして。あと……風呂釜に、髪が詰まってたり」


「まあ、事故物件だからねぇ。そういうのは、残るもんだよ」


「……まるで、誰かまだ住んでるみたいな感じなんですよ」


オーナーは少しだけ笑みを深くしたが、視線は尊の顔を外さない。


「君以外には住んでないよ。ちゃんと契約書にもそう書いてある」


言葉は優しいが、何も語らない笑顔に、尊はそれ以上追及できなかった。


「まあ、あと少しだしさ。頑張ってよ」


そう言って、オーナーは腰を上げた。

靴を履き、玄関の戸を開けると、柔らかな口調で一言。


「何かあっても、ちゃんと“出てこれる”なら大丈夫だからさ」


「……“出てこれる”?」


「ん?なんでもない」


そう言って、手を振りながら歩き出す。尊はしばらくその背を見送っていた。まるで、どこかに送り出すような、あるいは見届けた者の足取りだった。




夜。


夜食代わりに口にした大福は、思わず吐き出しそうになるほど苦かった。

口の中に広がる金属のような味。舌の奥に広がる胆汁のような刺激。甘さはどこにもない。

頭がぼんやりとし、胃のあたりが重たくなる。よく見ると、大福の説明書きには【清酒入り】と記載してある。


(……そろそろ潮時なのかもしれない)


そう思いながら、尊はそのまま居間のソファに身を預け、いつの間にか眠っていた。


目が覚めたのは深夜。

いつのまにか電気も消えている。薄く常夜灯が部屋を照らしていた。

が、その闇の中に――確かに人の気配があった。


リビングの入口に、二人の人影が立っていた。男と女。裸足で、じっとこちらを見つめている。


尊は立ち上がり、身を引いた。


「……誰ですか?」


答えはなかった。だがその沈黙の中で、二人はまるで激しい口論をしているかのように、互いを指差し、手を振り上げる。声はないのに、怒鳴り合う空気だけが濃く満ちる。


すると、ふと男はゆっくりとロープを持ち出し、梁にかけ始めた。

その一連の動作は実に現実的で、躊躇がなかった。


やがて男は椅子を持ち出し、その上に立ち、ロープを首にかけ――

椅子を蹴り飛ばす。


バン、と何かが割れるような音。

梁がきしむ。男の体がぴくぴくと痙攣し、やがて動かなくなる。


尊の足が後ずさった。


だが次の瞬間、女が台所へと向かう。


そして――包丁を手に、戻ってきた。


彼女はただ、表情を変えず、尊にまっすぐ近づいてくる。スリスリと足の裏が床を擦る音がする。

するとそのまま尊の前に立ち止まり、冷たい刃を尊の胸元に押し当てる。


「やめろ……やめてくれ」


声が震える。


女は無言のまま、包丁をゆっくりと――

ねっとりと――押し込もうとする。刃先が皮膚に沈んでいく冷たさ。脂汗が背中を伝う。


尊は一気に身を翻し、部屋を飛び出した。階段を駆け上がる。後ろには、包丁を持った女が追ってくる。


(二階……二階へ……)


踊り場にたどり着いた尊は、そこで行き場を失った。背後から足音。包丁の反射が壁にちらつく。


絶体絶命のその瞬間、彼は――思い出した。


(そうだ。あの女は、ここから――飛び降りた)


尊は窓を開けた。冷たい風が吹き込む。


その瞬間、女が駆け出す。


それまでねっとりとした動きだった彼女が、まるでスイッチが入ったように――疾走し、窓に向かって飛び込んだ。


次の瞬間――


ドガッ、バキィ――。


骨が砕け、肉が潰れるような、生々しい音。風の中に、肉の匂いが混ざった。


沈黙。


そして、尊は――目を覚ました。


朝の光が、顔を照らしていた。

床に転がったまま、額には冷たい汗。鳥肌が全身に立っていた。


すぐにスマホを取り出し、震える指でオーナーに電話をかける。


「……すみません、今日まででいいですか」


『うん。いいよ。お疲れさま』


その言葉に迷いはなかった。


尊は荷物をまとめ、家を出た。


背後で、あの家の窓から誰かが静かに見送っているような気がしたが――


振り返ることは、もうなかった。

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