第四夜【呼水】


この家の“曰く憑き”の内容もわかった事だし、昨夜の不愉快な目覚めも、いっそ慣れの一部として笑い飛ばせるほどだった。


気味の悪さより、胸の内には妙に澄み切った風のような感覚が残っていた。ああ、ようやく始まったか。そんな風にすら思えた。


午後、前にLINEでやりとりしていた義明がやって来た。


彼は尊にとって、高校時代ただ一人と言っていい友人だった。人と深く関わることに本能的な拒絶を抱いていた尊に、まるで犬のように懐いてきた変わり者。いまでも時おり、こうして気まぐれに現れる。


コンビニ袋から取り出した酒を床に置き、缶を開ける音が静かな家に響いた。


その後何度か酒を買い足し、散々飲み食いしたあとに義明が畏って尊に尋ねた。


「で、どう?この家」

義明が、顔を赤らめながら問う。


尊は少し考えてから、「まあ……面白いよ」とだけ言った。


義明は目を丸くし、数秒の沈黙のあと、声を上げて笑った。


「まじか!あの《変質者の家》と比べてどうよ?」


「あれは変質者っていうか、ただの馬鹿。男の風呂が見たいからって、マジックミラー仕込んでるヤツとは比べないでほしいわ」


二人は腹を抱えて笑った。

内容こそ狂気の端を漂わせているが、それは確かに、友人との何気ない会話だった。


「毎晩なんかあるのよ。窓から覗かれたり、耳元で声出されたり、初日なんてババアに渡されたお茶が、ヘドロになってたんだぞ」


「う……っ、ふはっ……っ!ははははは!」

義明は喉を詰まらせながら笑い転げる。


第三者からすれば、このやりとり自体がすでに異常なのかもしれない。だが、尊にとってはこれが“平常”だった。異変も、異常も、観察と対処の対象でしかない。


「泊まるか?」

「嫌だね。呪いの対象移るじゃん」

「呪いっていうな」


「……あ、そうだ。前にLINEで言ってたやつ、覚えてる?」

「寺紹介したやつ?」


「そうそう。あいつ、行方不明になった」


尊は静かにまばたきしたあと、

「早いな」とだけ言った。


「早いだろ。いや、俺もバイト紹介した立場としてちょっとは責任感じるんだけどさ……ま、とりあえずの報告」


そこで二人の間に、ほんの少しだけ空気が重くなる。

義明は缶を空けたまま、口に運ぶのをやめた。


「……じゃ、帰るわ」


「この空気でかよ」


くだらない会話、だが内容はひどい。それでも尊にとっては、安らぎの時間でもあった。



夜。


酒も冷めてきた頃、尊はスケッチブックを取り出し、気の向くままに鉛筆を走らせていた。描かれたのは、どこかで見たような顔。だが、誰なのか思い出せない。


「……誰?」


じっとこちらを見据える目。それは数日前にカーテンの下から覗いていた“あれ”の目に、酷似していた。

顔は知らない。だが、目だけは知っている。


尊は少しだけ笑った。酔いのせいか、妙に空気が柔らかく感じられたからだ。


そのまま、シャワーでも浴びようと風呂場に向かう。そこで、ふとした違和感に立ち止まる。


風呂釜の蓋が、閉まっている。


自分が閉めた覚えはない。だが開けっ放しにしていた記憶も定かではない。だが“閉まっている”という事実だけが、やけに鮮明に脳裏を叩く。


「カビそうだし開けとくか……うっわ」


風呂釜の蓋を開けた瞬間、内臓が裏返るような嫌悪感に襲われた。


中は、髪の毛で埋まっていた。


濃密な黒。ぬめついた脂。短く切られたもの、長いままのもの、根元に赤黒い血と肉片が付着したもの。どれも人のものだと、即座に理解できた。直感ではなく、構造として認識した。


(これ、そのままにしてたら給料出ないよな……でもめっちゃめんどくさい)


その晩、尊はそれを無視して寝袋に入ることにした。


ふと、外ではサイレンの音が鳴っている。


救急車だろうか。近所のどこかで誰かが呼んだのだろう。

とくに気に留めず、尊は目を閉じた。



夢の中。


あの夫婦が喧嘩をしていた。激しく怒鳴りあうわけではない。むしろ、感情のない罵声だった。録音された台詞のように、感情の“型”だけがぶつかりあっている。


すると男が突然縄を手に取り、躊躇なく首を吊った。

女は叫びもせず、静かに窓を開け、屋根へ登った。

そして塀の角を見定め、飛び降りた。


血しぶき。鈍い音。後悔の気配はどこにもなかった。


その後、現場に駆けつけたのは、あの盲目の老人。通報されやってきたのはあの警官。現実で見た顔が、夢に揃っている。


それを俯瞰視点でぼーっと眺めていたら、何かボソボソと聞こえる。


……ね   はやく…ね   …ね


――「早く死ね」


耳元で、ふたたび声がした。



はっと目が覚める。


朝だった。


「寝てる人に話しかけるのはやめてくれないかな……」


そう呟きながら、尊はコーヒーを淹れ始めた。

お湯の音が、いつものように心を落ち着けてくれる。だが、コップの底には、なぜか黒い毛髪が一筋、絡まっていた

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