第三夜【来客】
午前十一時過ぎ、扉をノックする音がした。
コンコン。控えめな、しかし一定の圧をもった音。
荷物の配送かとドアスコープを覗いた尊は、思わず眉をひそめた。
警察官――だった。
濃紺の制服、胸元の銀バッジ、腰の無線機。
だが、彼の顔はどこか作り物めいて無機質だった。
表情がないというより、貼りつけた笑みすらない。
扉を開けると、男は会釈すらせずに言った。
「失礼します」
それだけを口にして、ずかずかと玄関を通り過ぎ、靴を履いたまま上がり込んでいった。
尊は抗議の言葉を探したが、相手が警察というだけで、思考が一瞬滞った。
「……何か、ありました?」
「良い家ですね」
警官はふと、壁のほうを眺めながら言った。
「落ち着いた間取りです。あたたかい造りで。玄関が広いのもいい」
「……そうですか」
尊は警官の正体に一抹の不安を覚えた。
バッジは本物に見えたが、名乗りもなければ所属の説明もない。
警官は続けた。
「知ってますか? 前に住んでいた夫婦は自殺してしまいまして。本当に残念でした」
淡々とした声。感情はなかった。
だが、その語り口には妙な“熱”があった。
何かに取り憑かれたような、あるいは反芻するような調子で、言葉が続いた。
「この夫婦はね、仲が良かったんです。でも、ある日を境に急に喧嘩を始めたんですよ。きっかけは些細なことだったそうです。洗濯物のことだったかな」
「……はあ」
「それで、旦那さんの方が突発的にロープを引っ掛けて、天井の梁で首を吊った」
警官の視線が、天井の一点に吸い寄せられる。
「それを見た奥さんは、錯乱して屋根に登ってね。そこから飛び降りたんです。まあ、普通なら即死しない高さです。でも、運が悪かった。いや、良かったのかな。ちょうど下にあったブロック塀の角に頭を打ちつけて、すぐに……ね」
にやけた様子も、哀しげな表情もなかった。
語る声はただ冷たく、乾いていた。
尊は警戒を強めながら、口を挟まずにその話を聞いていた。
警官はもう満足したのか、急に話すのをやめた。
「では、お邪魔しました」
また名乗ることもなく、足音だけを残して去っていった。
何をしに来たのか、どこの誰なのか、それは最後まで明かされなかった。
その日の夜。
尊は居間の隅でスケッチブックを開いていた。
あの話が脳裏を離れなかった。むしろ、はっきりと輪郭を帯びて思い返される。
手は勝手に動いていた。
スケッチブックには、梁から吊るされた男のシルエットと、窓の外には地面へ頭から落ちる女の後ろ姿が現れていた。
女は飛び降りる瞬間で、髪がふわりと宙に揺れていた。
描きながら、尊は奇妙な没入感に呑まれていった。
日付が変わる少し前、眠りに就いた。
だが夜の深さが増すにつれ、彼の耳はある“音”を捉えた。
ギシ……ギシ……
居間の方角から聞こえる、軋むような音。
木材が締め付けられるような、重みを耐えて歪む音。
まるで何か重いものを、ゆっくりと引き上げているような――そんな音。
(ああ、なるほど……)
尊は寝袋の中で目を閉じたまま、考えた。
(例の、首吊りの音か)
彼は音の正体を理解したが、別段驚かなかった。
今まで住んだ物件でも、こういう“演出”はあった。
再現性をもって現れる幽霊は、むしろ対処しやすい。
しかしその時だった。
「――お前も吊れよ」
耳のすぐ横で、誰かが囁いた。
低く、太く、男の声だった。
囁きではなく、話しかけるような、押しつけるような語調で。
生々しい呼気が、鼓膜に触れた気がした。
だが、その声の方向へ姿勢を向ける事は無かった。男の声が耳元に響くと不快なのが改めてわかった。
朝だった。
天井の白さが目に染みる。
あの憎しみが籠っていた声の余韻がまだ耳に残っている。
「……最悪の目覚め」
吐き捨てるように呟きながら、寝袋から這い出た。
けれど、心のどこかではこう思っていた。
(これは……なかなかの物件だな)
一瞬の恐怖は、評価に変わる。
尊の“基準”は、もうとうに常人のそれではなかった。
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