第ニ夜【散歩】
翌日、昼を過ぎたころ。
カップ麺を平らげた尊は、ふと思い立って外に出た。
絵の筆もまだ乗らず、家に籠もるにはまだ空が明るすぎる。
近所の様子でも見てみようか――そんな程度の、散漫な動機だった。
大鶏という土地には、時間の滞りのようなものがあった。
駅前から伸びる大通りはまるで途切れたように折れ、住宅街はその隙間にねじ込まれたように建ち並んでいる。
舗装は剥がれ、歩道と車道の境も曖昧だった。
歩いて五分ほどのところに、小さな公園があった。滑り台と鉄棒、丸く囲われた砂場。
ブランコはゆっくり揺れていたが、風の音はなかった。
隣接して、小さな小学校があった。校門は開いていたが、誰の姿もない。掲示板のポスターが風に鳴っている。
そこからさらに東へ向かうと、最近建ったばかりと思しきマンションがあった。
コンクリートの打ちっぱなし、白とグレーの混色外壁、植え込みに囲まれたエントランス。
けれど、その豪奢さとは裏腹に、ロビーのガラス越しには家具の影一つ見えなかった。
都内の町――というには、あまりにも静かすぎる。
尊はそれを異様とも思わず、ただ淡々と歩いていく。
人に会わないことを不自然とは感じない。
もともと、他人に興味がなかった。
関わる必要がなければ、それが一番だと信じていた。
だからこそ、このバイトを続けていられるのだ。
散策の最中、ふと気になるものが視界に入った。
一軒家。
瓦の角度、窓の位置、ベランダの柵、玄関脇の柘植の木。
すべてが、今自分の住んでいる家と「まったく同じ」だった。
それが、ひとつではなかった。
二軒目、三軒目――通りを曲がった先にも。
間取りどころか外壁の色まで、寸分違わぬ複製のような家々が、ぽつぽつと、しかし確実に建っていた。
「……変な街」
ぽつりと呟いた声は、自分の耳にも冴えなかった。
気にせず、そのまま引き返した。
日が暮れてからは、特に変わったこともなかった。
軽く筆をとって、形にならない影のスケッチをいくつか描き、スマホを見て、寝袋に潜る。
夜の静けさは深く、空気は重い。
時刻は、おそらく午前三時近くだった。
ふと、目が覚めた。
静寂があまりにも完璧すぎて、逆に「何かがない」と感じたのかもしれない。
尊は寝袋の中から、ぼんやりと寝室のカーテンを見た。
いや――その、「下」を。
カーテンの裾の、床から十数センチの隙間。
そこに、何かがいた。
人の目。
こちらを、覗いていた。
カーテンの裏、窓の外――確かにそこに、「誰か」の眼差しがあった。
黒く、沈み込むような光を放たない瞳。
見上げているのか、見下ろしているのか。
表情は見えない。
ただ、視線だけが、真っ直ぐ尊を射抜いていた。
尊は数秒、それを眺めた。
だが怖くはなかった。
「幽霊系か……」
そう呟くと、目を閉じ、寝袋を深く被った。
再び眠りに落ちるのに、それほど時間はかからなかった。
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