【短編ホラー】事故物件
鬼大嘴
第一夜【日常】
二十歳になった春、夜見尊(やみたける)はまた新しい家に住むことになった。
古びたアパートでも、天井の低い団地でもない。今度の「現場」は、東京都〇〇区大鶏――開発の手が届ききらない工業地帯にぽつりと残る、ひとつの一軒家だった。
現地に初めて足を踏み入れた瞬間、尊はむしろ、懐かしさを感じた。
玄関脇には柘植の木が生え、引き戸のガラスはうっすらと曇っている。雨樋から垂れる音、少し古いタイル張りの玄関。鍵を差し込んで引くと、重い木の匂いと乾いた空気が混ざった。
どこにでもある、ありふれた家。
何の変哲もない、昭和の風を残した平凡な一軒家だった。
誰かの実家として、そこに存在していても何の違和感もない、そんな佇まいだった。
「ここで、夫婦が亡くなられてね」
鍵を手渡したオーナーが口にしたのは、それだけだった。
「自殺だったと聞いてますが、詳しいことまでは省きます。ああ、それと電気と水道はすでに通してます。どうぞご自由に」
尊は何も訊ねなかった。
その言葉に悲壮や嫌悪は感じられず、まるで家具の位置を伝えるかのような軽さだった。
尊もまた、その軽さに倣うようにただ「はい」とだけ返事をして、荷物を運び入れた。
生活はいつも通りだった。
水回りを確認し、布団を敷く代わりに寝袋を展開し、カンバスを部屋の隅に立てかける。
スマートフォンの充電器、Bluetoothのイヤホン、小さなスピーカーと卓上のLEDライト。
住まいとして必要最小限の装備。それだけあればいい。
尊は、いわゆる“事故物件に住むアルバイト”をしている。
今回で十一件目。ラップ音、開閉するドア、水道の誤作動、誰もいないのに響く足音。
もう慣れていた。
電灯が勝手につけばスイッチを切り、音がうるさければイヤホンをつけ、何かが動けばガムテープで塞いだ。
二週間、長くても一ヶ月。
そうして時間が過ぎれば、次の物件が用意される。それだけのことだった。
そんな折、LINEが鳴った。
画面には懐かしい名前が浮かんでいる。高校の同級生、義明だった。
⸻
義明:よう、事故物件バイト捗ってる?
尊:まあ、それなりにね
義明:精神面とか大丈夫なの?
尊:大丈夫、てか何急に
義明:いやー、同じバイトやってた友達がさ、なんか変になっちゃってきてるのよ。
急に夜歩き出したり、何もないとこ指差したり、意味不明なこと言ったりして。
尊:……へえ
義明:だから、尊は大丈夫かなーって。心配になった
尊:問題ないな。もし心配なら〇〇寺ってとこに相談いくと良いみたいよ。
バイトのオーナーが教えてくれた
義明:マジ!?サンキュー!
⸻
スマホを伏せ、尊は伸びをした。
家の中は静かだった。気味の悪いほどに。
外の車の音も聞こえない。電灯の下、淡く光るカンバスの前に座ると、彼は無意識に筆を取った。
これが、「いつもの一夜目」だった。
午後二時を少し過ぎたころ。
風が吹いた気配もないのに、チャイムが鳴った。
尊は玄関に向かい、引き戸を開けた。
そこに立っていたのは、七十代後半ほどの年老いた女性だった。背は低く、痩せていて、腰が少し曲がっている。あごに深い皺が刻まれており、古びた花柄のカーディガンを羽織っていた。
「……ああ、ごめんなさいね、急に」
女性は手提げ袋からコンビニのお茶のペットボトルを取り出した。どこにでもある、透明なラベルの緑茶だった。
「新しい方が来たって、さっき向かいから見えたもんでね。ほんの、挨拶程度に。よかったら」
ペットボトルを差し出す手の指は細く、骨ばっていた。
笑った口元は奇妙に乾いており、上下の歯茎の間にかすかに茶色い染みが見えた。
だが、尊が何より気になったのは、その目だった。
右目――ではない。左目の方。
白濁し、明らかに光を失っているその片目が、まるで見えていないように感じられた。
けれども、その「見えない目」が、玄関を上がってすぐの階段――家の奥へと伸びる暗いその先を、じいっと、じいっと、凝視している気がしてならなかった。
「これから、暑くなるからねぇ……体、気をつけて」
そう言って、女性はふたたび乾いた笑みを浮かべると、何も言わずに踵を返して去っていった。
どこに住んでいるのか、名乗ることもなく、ただ現れ、ただ消えた。
尊はお茶を冷蔵庫に入れ、特に深く考えることもなく、そのまま夕方を迎えた。
日が暮れると、絵を描く手が動き始める。
今回のモチーフは、抽象的な風景画だった。
窓も扉もない建物。曲がった階段。歪んだ地面に立つ、黒い塔のようなもの。
描くたびに、色彩の選択が鈍っていく気がした。どの色も、どこか“濁って”見えた。
深夜一時。筆を置いた。
寝袋に潜り込む前、ふと、昼に渡されたお茶のことを思い出した。
「そういや、冷やしてたな……」
立ち上がり、キッチンへと足を運ぶ。
冷蔵庫のドアを開けた瞬間、ほんの一瞬だけ、生臭さに似た匂いが鼻をかすめた。
中にあったはずの緑茶のペットボトルは、確かにそこにあった。
しかし、その中身は――黒かった。
透き通った琥珀色ではない。
煤を溶かしたような、深く、濁った黒。
底には何かが沈殿しているように見えた。渦巻くように、ゆっくりと。
「は?」
言葉より先に、眉がしかめられた。
恐怖ではなかった。苛立ちだった。
「ふざけてんのか……」
尊はそのまま流し台に向かい、キャップをひねって勢いよく内容物を排水口へ捨てた。
ぬめるような粘度がある液体が、ぐずりとした音を立てながら流れていく。
ペットボトルを軽くすすいだあと、ゴミ箱に投げ捨てる。
「ったく……」
そのまま寝袋に潜り込み、スマホの画面を伏せる。
夜は、静かだった。
何も起こらない、いつもの夜――そう思いながら、尊はまぶたを閉じた。
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