第4話
時計の針が12時を回ろうとしていた。
都会ならいざ知らず、郊外のベッドタウンであるこの街では駅前の繁華街以外で明かりをともした家屋など見当たらない。
まして、住宅街からも離れた建設現場の周辺に、夜の闇を照らす明かりがあるはずもない。
アリアは黒のジャージに身を包み、プレハブの陰に身を潜めていた。
目深にかぶったフードの中からターゲットが現れるであろう場所に目を光らせる。
闇の中では10メートル先をはっきり視認することなど人間には困難である。
しかし、アリアには可能だった。意識すれば、人間の魂がぼんやりとした光球のようにアリアの目に映るのである。天使に許された特殊技能である。
「あぁ......なんでこんなことになったのかぁ」
アリアの小さな独り言は、夜の静けさに溶けていった。
事の起こりは3日前に遡る。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ここをこうして......はい、完了です!」
死体の喉元に突っ込んだ手を引き抜いたアリアが、振り向きながら言った。
アリアの両手には一滴の血もついていない。白い絹のような肌を、真夜は不思議そうに見つめていた。
「流石に見慣れてきたけど、奇妙な光景だよね」
「天界でもあんまり使うことないんですけどね、この技術。でも、粘土細工みたいで面白いから結構練習してたんですよ」
明るい表情と声色でアリアが言う。
死体に触ってからよくその表情が出てくるなぁ、と真夜は思った。
アリアと真夜があの路地裏の殺人現場で出会ってから2週間。
見慣れたという真夜の言葉通り、二人はすでに6件の依頼をこなしていた。
真夜がターゲットの背後をとってナイフで首の後ろを一閃。その後にアリアが傷痕を消して自然死に見せかける。
どの案件も、この一連の手順で片付けてきた。頸部の動脈を狙わないのは、アリアの能力では飛び散った血を消すことはできないからである。首の後ろ、正確には脳幹の位置であれば、少ない出血で確実に生命を絶つことができるので、真夜はこの手法を選んだ。
一方、ここまでアリアの仕事はターゲットの監視追跡の手伝いと事後処理だけである。
真夜としてはそれだけでよかったのだが、根が真面目なアリアは、そうは思っていなかったらしい。
「私、ちゃんとお役に立ててるんでしょうか?」
「立ってるよ。死体の偽装だってアリアちゃんのおかげでスムーズだし、追跡もアリアちゃんが飛べるおかげで私が先回りする余裕ができてる」
「でも、それしかしてないですよね? 肝心なことは全部真夜さんに任せてますし」
背中に展開されていたアリアの翼が、しおれたように垂れ下がる。
変なところで真面目なのだ。
「そりゃあ生きづらいよなぁ」と内心でつぶやきながら、真夜は細い指を顎にかける。
その思案顔を心配そうに見つめるアリアが何かを言おうとして、パッと顔を上げた真夜が遮った。
「じゃあやってみる?」
「な、なにをですか?」
「これ」と言いながら、真夜は左手のナイフを掲げてみせた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
プレハブ小屋の陰で身を震わせながら、アリアはターゲットが現れるのを待っていた。
獲物を握るアリアの右手に力がこもる。
細い指とは似つかわしくない無骨なナイフを、アリアは胸の前で祈るように構えていた。
(怖い......)
胸を染め上げる黒い悪寒に、自身が静寂の中に溶けていくようだ。
不安感を振り切ろうと、かぶりを振って眼前の光景に集中する。しかし、ねっとりとした不安は拭い取れない。
これから自分は人を殺すのだ。そう考えると、体の芯から冷えるようで、ナイフを持つ右手とそれを抑えるように包んでいる左手が小刻みに震えた。
はたして、上手くできるのだろうか?
そのとき、キィと、金属のこすれる音がした。敷地のフェンスがずらされた音である。遅れて、前方で何かが動くのをアリアの目が捉えた。
夜の闇の中、およそ10メートルほど先である。姿は闇の中に完全に隠れている。が、アリアの目にはそこに握りこぶしほどの大きさの、輪郭のおぼつかない光球が浮いているように見えている。高さは、ちょうど人間の心臓と同じくらい。
ターゲットだ、と直感した。
けれど、アリアは物陰からジッと様子をうかがった。万一、人違いだったら笑えない。
相手はその場で誰かを待っているようだった。
アリアは左手をズボンのポケットに突っ込んだ。
ポケットにはスマホが一台忍ばせてある。使い方は真夜に習った。
何度も何度も練習したとおりに、指先の感覚を信じて液晶をたたく。そして、事前に奪っておいたターゲットの待ち合わせ相手の携帯から、ターゲットにコールした。
途端に軽快な着信音が目の前の暗闇で響く。
(間違いない。ターゲットだ!)
確信が芽生えてから行動を決心するまで一拍の間があった。
アリアは物陰から勢いよく飛び出した。
「ッッッ!」
歯を全力で食いしばり、華奢な体を走らせる。
細い足が一歩二歩と砂地を蹴り、生み出された推進力を獲物にあずける。
狙いは一点。位置は捉えている。
4秒ほどでターゲットとの距離を詰める。あとは一撃を打ち込むだけ。
全身を預けるように、アリアは獲物を突き出した。初めてとは思えないほど、狙いは正確だった。
だが、切っ先が届く直前で、ターゲットが身をひるがえした。
アリアはもう突撃の勢いを殺せない。
ナイフは無念にも、空を切った。
勢いのままに倒れ込んだアリアの心は急激に温度を失っていた。
絶好の機会で失敗した。その事実を受け止めきれず、突っ伏したまま体が硬直する。
「な、なんだ⁉」
すぐ隣でターゲットの困惑の声がする。
相手にアリアの姿は見えていない。自分が暗殺されかけたことも知らない。回避行動は偶然のものだ。
それでも、自分に何が起きようとしたのかわからないほど、相手も無能ではない。
すぐさま土を蹴る音が聞こえた。
急速に遠ざかる足音を聞きながら、アリアは起き上がる。顔を上げるとすぐに相手を視界にとらえた。
追いかけようと足を踏み出す。
が、思うように加速しない。アリアには相手が見えているがゆえ、縮まらない距離に対する焦りが身体を駆け巡る。
相手は、勢いのまま、タックルするようにフェンスへ突っ込む。
(間に合わない......)
逃げられる。
一度暗殺されかけた相手が、二度目の隙を易々とさらすはずがない。
アリアの足に諦念が絡みついた。
―しかし、いくら待っても、夜の沈黙が破られることはなかった。
フェンスを押し倒した音も、ターゲットの足音さえも聞こえない。
そこで初めて、アリアはターゲットの魂が見えないことに気づいた。せいぜい5,6メートル先にいるはずなのに、いくら目を凝らしてもあの光球が見当たらない。
そのかわり、ターゲットがいたはずの位置に別の光球が浮かんでいるのが見えた。
漆塗りのような黒で、輪郭は周囲の闇に溶け込んでいる。十分に意識しないと、アリアでさえも見失ってしまいそうだった。
それがゆっくりと近づいてくる。
夜目でどうにか顔を認識できる距離まで来て、ようやくアリアはその正体に気づいた。
「真夜さん⁉」
「おつかれ、アリアちゃん」
血に濡れたナイフを片手に、真夜は何食わぬ顔で空いている方の手を差し出した。
「早く帰るよ。今回は血痕も多いから業者に頼んじゃおう」
「真夜さん......わ、わたし―」
続く言葉は言えなかった。
真夜が強引にアリアの手を引いていたからだ。
アリアほどでないにしても、真夜も(一部を除いて)十分に華奢な体つきである。その体のどこに隠していたのか? と聞きたくなるような力で、ぐんぐんとアリアを引っ張んて歩いていく。
「監視・待ち伏せは完璧。ターゲットの確認手順も問題なし。飛び出すのが少し遅かったけど、初めてならあんなもんでしょ」
真夜の手に、少し力がこもった。
「最初でうまくできるなんて思ってないし、だから私が待機してたんだからアリアちゃんが気にすることはないんだよ」
「で、でも......あそこで決めなきゃダメだったのに......」
「気配の消し方も接近術も教えてないんだから、ああなっても仕方かったんだよ」
「だとしても、失敗しちゃいけないところで、私は......」
アリアの言葉は、またも真夜に遮られた。
突然振り返った真夜が、掴んでいたアリアの腕を強く引き寄せた。バランスを崩したアリアを真夜が受け止める。
格好としては、アリアが真夜に正面から抱き着くような体勢である。
混乱するアリアの頭を、真夜が赤子をあやすように優しくさする。
「なら、次はちゃんとやろう。私がいる間は、それでいい」
「......ッ!」
「協定だのなんだの言ったけど、これでも少しはアリアちゃんのこと信頼してるんだよ」
「だから―」と真夜が続ける。
「よろしく、相棒」
天使さまの裏稼業 空 @hanreigan_980665
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