天使さまの裏稼業
空
第1話
もうダメだ。
アリアは自分の行く末を覚悟した。
少女は非常に特徴的な出で立ちだった。
背中にかかる長くて淡い色の金髪。小さく、造形のはっきりした顔立ち。翡翠の瞳。女性としては平均的な身長。華奢だが、決して肉付きの悪いわけではない肢体。すれ違う誰もが振り向き二度見する美貌を持ちながら、彼女の衣服は純白のワンピースのようなもの一枚だけ。小さな足を覆うものなどなく、ペタペタと、弱々しい音を立てながら歩いていた。
アリアには行くアテもなければ、今日を喰いつなぐ手立てもない。ここ2日、まともな食事にさえありつけていない。空腹と疲労がアリアの体を蝕んで、温かな春の日差しさえ体を焼く熱線に思えるほど、彼女の体は憔悴しきっていた。
アリアは日差しを避けるように路地裏に入り、薄暗いを小道を転々とした。
壁に体を預け、引きずるようにして歩いていく。
その目は、どこか遠くを映している。
もう無理だ。これ以上は歩けない。
もう何度目かもわからないが、そうアリアは思った。
けれど、心に反して体は歩くのをやめてくれなかった。アリアは今すぐにでも倒れ込んでこの苦痛から解放されたいのに、体は機械的に、左右の足を交互に差し出す。
止まる、などという余計な動作をする余裕はなかった。
惰性で進み続けたアリアは、路地の分岐に差し当たった。
壁を頼りに歩いてきたアリアは壁に沿って分岐を曲がるほかない。今まで何度もそうしてきたように、アリアは壁に沿って分岐を左に曲がろうとした。
そのときだった。
「助けてくれ!」
曲がり角の先から叫び声が聞こえた。
尋常ではない。危機に瀕した人間が腹の底から吐き出す、鬼気迫る叫び声。
手放しかけていた意識が、一気に浮上した。
さっきまでの苦難も忘れて、アリアは角の先を覗き見た。身体をかがめ、近くにあった室外機に身を隠して声の方を盗み見る。
アリアの目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
男が一人、しりもちをついている。高そうなスーツに身を包んでいるが、汚れてしわも寄っている。必死の、怯えた形相で、目の前の相手から距離を取ろうとしていた。叫び声の主は、きっとこの男だろう。
もう一人は高校生くらいの少女だった。
白シャツとスカートをきっちりと着こなし、黒のタイツで足を覆っている。几帳面な性格が、身なりから読み取れた。
ただ一つ。異様な光景の正体は彼女の手の中にあった。
薄暗い路地の中、ビルの切れ間から入る日差しで彼女の手の中の「それ」がキラリと光る。
遠目のアリアからでも、それが何か分かった。
......ナイフだ。
女の手に収まっているそれは、片刃の刃物だった。
包丁とかカッターとか、そういう類のものではない。見るからに重く、硬く、鋭い。命の取り合いで使用されることを考えて作った、そういう場に身を置く者たちに使わせるために作った。そんな感じのは凶器だった。
女がナイフをもって、しりもちをついた男の前に立っている。
見るからに異常な状況で、明らかに見てはいけない状況であることはアリアにも瞬く間に察せられた。
今すぐにここを立ち去らねばいけない。そう思った。
今なら自分の姿は見られていない。静かに立ち去れば気づかれるはずもない。
だが、アリアの体は動かなかった。
そこでようやく、自分がどう状況だったのか、アリアは思い出した。
一度立ち止まって地面居座り込んだ疲労困憊の体は、もう体勢を変えるだけの力も残していなかった。
逃げなきゃ。逃げなきゃ!
自分の心臓が早鐘を打つのを聞きながら、アリアは動かない身体に必死に働きかける。その間も目ははっきりと、数メートル先の異様を映している。
先に動いたのは、女の方だった。
その場に立っていただけの女の姿が一瞬、揺れたように見えた。そして、次の瞬間には、そこに彼女はいなかった。
文字通り、瞬き一つの間。
アリアの動体視力では追いつけないほど速く、洗練された「歩み」で男の背をとると、女は左手の狂気を振り下ろす。
挙動のどこにも感情はなく、リンゴが木から落ちるように、自然法則のごとく凶器が男の喉に吸い込まれた。
動き出しを捉えたアリアの脳が次に受け付けた情報は、首から血潮を広げた男の死体だった。
あの女が殺した。その事実はアリアにも認識できた。
アリアはすぐに逃げ出そうと試みた。こんなところにいるのはマズい。具体的にどうマズいとかはわからないが、相手が明らかにまともな人間じゃないことは確かだ。
今回ばかりはアリアの必死さが体の限界を上回った。
決して速いとは言えない動きで室外機の陰から元来た方へと引き返そうとした。ただ、アリアの頭にはとにかくここから立ち去ることしかなかった。
だから、注意散漫だったのは間違いない。近くの小石を蹴り飛ばしてしまうという、テンプレのようなミスをするくらいには。
カラン......という音が路地に響く。
音を立てた本人が気づかぬわけもない。
そして、こんな路地裏で殺しをするような人間が、その現場で自分以外の物音を聞き逃すようなへまをするはずもない。
「だれ?」
背後から声が投げられる。
冷たく、感情を感じない声。
アリアは答えなかった。
背中にさっきの一つでも感じたら答えたかもしれない。けれど、そういった感情がまるでないことが恐ろしかった。
「だぁれ?」
少し間延びした、けれどさっきより冷たい声が響く。
殺気も抑揚もない声。
アリアは、相手が気のせいだったと諦めてくれることを祈るしかなかった。
けれど、祈りは無残にも切り裂かれた。
「ふ~ん......そこだね」
やはり間延びした声が響く。
そして一拍置いて、ヒュッという風切り音がアリアの頭の横を通り抜けた。
恐るおそる、アリアは目線を上げる。
数メートル先の路地の壁に刺さったナイフを、アリアは見つけた。
マズい......これは本当にマズい!
相手は間違いなく殺す気だ。今のナイフ投げが脅しではないことは、本能が感じ取っている。
呼吸が苦しくなるのをアリアは感じた。
心臓が異常な速さで脈拍を刻んでいる。震える脚に力を入れるだけで精いっぱいだ。
逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ......。
ボロボロの身体に鞭打って、どうにか上体を曲がり角の方へ投げ出そうとして―
―「ねぇ」とすぐ背後から声がした。
ゆっくりと、アリアの首が後ろへ向けられる。
白のシャツに血を浴びた女が、そこに立っていた。
「ねぇ、君。さっきの見た?」
眼鏡越しの彼女の目に、光はなかった。
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