夢み坂珈琲店 ― 雨の記憶と、君の気配

イッチー

第1話 夢見坂の扉

雨が降っていた。

傘を持っていたはずなのに、気づけば、髪も肩も濡れていた。


坂の途中で足を止める。


ふと視界の端、くすんだ石垣の隙間に見えた、木の扉。

看板はなく、ただそこにあるだけなのに——心が震えた。


懐かしい。でも、初めて見る場所。


誰にも話したことのない夢の中で、何度も訪れた気配。

雨の音と混ざり合う、かすかなコーヒーの香り。


記憶の底から呼び覚まされる何かが、私の足を動かす。


「本日、夢み坂珈琲店は営業中です。迷い人は、どうぞ扉の向こうへ。」


誰が言ったのかは、わからない。


けれど足は、自然とその扉の前に立っていた。



木の床。レトロなブラウン管。

時計の音がやけに大きく響いている。


カウンターの奥、低く落ち着いた声の男と、

柔らかく笑う年上の女性。


「……いらっしゃい」


「初めてね、その顔。ふふ、好きよ、そういう表情」


「……コーヒー、一杯だけ」


自分の口が勝手に言っていた。



運ばれてきたコーヒーから、静かに湯気が立ちのぼる。

香りがどこか、懐かしい。


その奥にあったテレビが──

映っていた。


誰にも話したことのない、夢の景色だった。


小学生の頃の海辺。

ひとり旗を振っていた自分。

そして、もういないはずの父の影。


「……なんで、これ……」



「その顔、ちょっと違うね」


低い声が、静かに降ってくる。

マスターと呼ばれたその男は、ただそこにいた。


「……焦らなくて、いいよ。

思い出すことと、思い出さないこと、どっちも大事だから」


コーヒーの苦味が、妙に心に染みた。



扉を出ると、雨は止んでいた。

でも、違和感だけが残っていた。


帰宅した部屋の机の上──


そこには、夢み坂で見た銀色のスプーンが置かれていた。


見覚えなんて、あるはずがないのに。


「……え?」


そのとき、背後から聞こえる声。


「お姉ちゃん……どこ行ってたの?

三日も帰ってこなかったんだよ?」



時計を見る。午後五時半。

澄子の中では、ほんの二時間しか経っていない。


けれど──


部屋の窓から見えたのは、遠くの霧の奥。

現実には存在しないはずの、時計塔の先端だった。



《To be continued…》

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