古びた小さな喫茶店「灯(あかり)」
tyamizuneko
第1話消えかけた灯
カラン、と寂しげな音を立てて、古びたドアが開いた。
午後の柔らかな光が、埃っぽく薄暗い店内をわずかに照らす。奥のカウンター席に座るユキは、その音に顔を上げることもなく、目の前のコーヒーカップをじっと見つめていた。湯気はとっくに消え、黒く淀んだ液体は、彼女の沈んだ心を映し出しているようだった。
ここは、かつて「灯(あかり)」という名で、近所の人々に愛された小さな喫茶店だった。ユキの作る繊細で美しいケーキは評判で、店にはいつも甘い香りと人々の笑顔が溢れていた。しかし、数年前のある出来事を境に、その賑わいは嘘のように消え去った。
ユキは、かつての輝きを失った店の姿を見るたびに、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えていた。パティシエとしての情熱は冷え切り、ただ時間だけが過ぎていくような、単調な毎日を送っていた。
店の隅の壁に掛けられたままの、色褪せた賞状や、ショーケースの中に寂しげに並ぶ数種類の焼き菓子たちが、かつての賑わいを静かに物語っている。手入れも行き届かず、店内にはうっすらと埃が積もり、どこか物憂い空気が漂っていた。
その日も、開店から数時間経つというのに、客は一人もいない。ユキは、冷え切ったコーヒーを一口すすり、ため息をついた。窓の外を歩く人々の楽しそうな話し声が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
ふと、店のドアが再びカラン、と音を立てた。ユキは、また通りすがりの人が間違って入ってきたのだろうと思い、気のない返事をしようとした。
「いらっしゃいませ……」
しかし、そこに立っていたのは、見慣れない若い男性だった。簡潔に刈り込んだ明るい髪、 明るい笑顔。彼の持つ エネルギッシュな雰囲気が、どんよりとした店内の空気を一瞬にして変えたように感じた。
「こんにちは!あの、ここでアルバイトを募集していると聞いたんですが」
男性は、少し遠慮がちにそう言った。ユキは、彼の言葉がすぐに理解できなかった。アルバイト?そんなことを考えたこともなかった。
「アルバイト……ですか?」
ユキの声は、 驚くほど 低い声だった。男性は、予期しない反応に一瞬戸惑ったようだったが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「はい!この近くに住んでるハルキと言います。ここのケーキがすごく美味しそうで、ぜひここで働きたいと思ったんです!」
ハルキと呼ばれたその青年は、目をキラキラと輝かせながら、ショーケースの中の寂しげなケーキたちを見つめた。ユキは、彼の優しい瞳に、ずっと前に忘れていた 温かい心のようなものを感じた。
「うちは、もうほとんどお客さんも来ないような店ですよ。それに、アルバイトを雇う余裕も……」
ユキは、冷静な声でそう言った。過去の傷は深く、他人と関わることを避けて生きてきた。この明るすぎる青年が、自分の閉ざされた世界に入ってくることを、本能的に拒否していたのかもしれない。
しかし、ハルキは諦めなかった。「それでも、僕はここで働きたいんです!少しでもいいので時間をいただけませんか?掃除でも、皿洗いでも、何でもします!」
彼の予期しないオファー に、ユキは言葉を失った。 こんなに、まっすぐな思いに触れたことがなかったからだ。
沈黙が流れる中、ハルキは真剣な眼差しでユキを見つめていた。その瞳には、 哀れな同情の色ではなく、清潔な暖かさが宿っているように見えた。
ユキの心の中で、ずっと前に閉ざされていた何かが、ごくわずかに、しかし確かに揺れ始めたのだった。
さあ、この出会いが、ユキの閉ざされた世界にどんな光を灯していくのでしょうか?
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