第19話 砕け散る封鎖

 時任堂での出来事から数日が過ぎた。

 俺は依然として、見えない脅威に怯える日々を送っていた。

 時任堂へ再度アプローチするための計画を練ってはいるものの、具体的な行動に移すだけの覚悟も、情報も、まだ足りていない。ただ、時間だけが過ぎていく。


 その夜も、俺はアパートの自室で、ネットから拾い集めた断片的な情報を眺めながら、出口のない迷路を彷徨っているような気分だった。

 雪城澪の監視、異能管の接触、そして「禁忌の徴」と「古き災厄」……。考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。


(このままでは、本当に……)


 そう思った、まさにその瞬間だった。


 ―――ズンッ。


 腹の底に響くような、低い振動。地震か? いや、違う。これは……。


 窓ガラスが、ビリビリと微かに震えている。

 そして、肌で感じる。ぞわりと総毛立つような、強烈なプレッシャー。

 これは、あの公園で感じたものと同じ……いや、比較にならないほど濃密で、巨大な、あの冷たく無機質なエネルギーの波動だ!


(まさか……!?)


 俺が窓の外へ駆け寄ろうとしたのと、スマートフォンのけたたましい緊急アラートが鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。

 慌てて画面を見ると、「緊急:市内XX地区(旧市街隣接エリア)にて原因不明の大規模エネルギー反応及び通信障害発生中。詳細不明。付近住民は避難してください」という、簡潔だが不穏なメッセージが表示されている。


 テレビをつけると、どのチャンネルも同じニュース速報を流していた。

 ヘリコプターからの中継映像だろうか、夜の街の一角が、不気味な紫色の光に包まれているように見える。

 レポーターが、混乱した様子で「何らかの爆発事故でしょうか」「原因は現在調査中です」「現場では奇妙な現象が目撃されているとの情報も……」と繰り返している。


 間違いない。あの公園で感じた気配。

 あの箱に触れた時に見たビジョン。そして、あの老人が語った「古き災厄」。


「奴ら」が……第三の影が、ついに本格的に動き出したのだ。


 背筋が凍るような恐怖が、俺を襲う。

 これは、俺がこれまでに関わってきたどんな出来事よりも、次元が違う。

 チンピラ能力者の騒ぎや、組織の監視など、まるで子供の遊びのように思えるほどの、本物の「災厄」の始まりなのかもしれない。


 逃げろ。関わるな。俺の本能が、全力でそう叫んでいる。

 これは、俺一人がどうこうできる問題じゃない。下手に首を突っ込めば、今度こそ本当に死ぬかもしれない。


 だが……。


 脳裏に、あのビジョンが蘇る。炎、破壊、悲鳴……そして、あの禍々しいエネルギーの渦。

 あれが、今、この街で現実になろうとしているのかもしれない。


 放置すれば、どうなる? 被害はどこまで広がる? あのエネルギーは、普通の人間にはもちろん、おそらくは並の魔法使いや超能力者にも対処できない。


(……行くしかないのか)


 恐怖で足がすくむ。だが、同時に、腹の底から何かが込み上げてくるのを感じていた。

 それは、正義感などという綺麗なものではない。

 もっと、どす黒い……この理不尽な状況に対する、怒りに近い感情かもしれない。

 あるいは、この異常なエネルギーの正体を、この目で確かめなければならないという、抗いがたい衝動か。


 俺は震える手でパーカーを掴むと、それを羽織り、アパートのドアへと向かった。


「……くそっ!」


 悪態をつきながら、俺は夜の街へと飛び出した。目指すは、ニュース速報が伝える、災厄の中心地。

 平穏な日常など、やはり俺には許されない運命らしい。


 ◇


 アパートを飛び出した俺は、夜の街を全力で駆けていた。

 目指すは、スマートフォンに表示されたXX地区。旧市街に隣接する、古びた工場や倉庫が立ち並ぶエリアだ。


(急がないと……!)


 焦りが全身を突き動かす。

 同時に、あの公園で感じたものと同じ、しかし桁違いに強大な、冷たく無機質なエネルギーの波動が、現場に近づくにつれてますます強く肌を刺すように感じられた。

 間違いない、これは「奴ら」の仕業だ。


 遠くで、複数のサイレンがけたたましく鳴り響いている。

 夜空の一角が、禍々しい紫色にぼんやりと照らし出されているのが見えた。時折、地響きのような低い振動が足元から伝わってくる。

 尋常な事態ではないことは明らかだった。


 俺は人通りの多い大通りを避け、裏道や建物の陰を選んで最短距離を進む。

 幸い、夜が更けているせいか、パニックになって逃げ惑うような一般市民の姿はまだ少ない。

 だが、現場に近づくほど、空気は重く、張り詰めていく。


 やがて、行く手にバリケードが見えてきた。警察車両が道を塞ぎ、警官たちが周辺住民を避難させようとしている。

 その向こう側には、消防車や救急車、そして……見慣れない、黒塗りのセダンや、特殊車両と思しき車が何台も停まっている。

 異能管か、それとも魔法省か。公的な組織も、既に本格的に動き出しているようだ。


(まずいな……正面からは近づけない)


 俺は足を止め、迂回ルートを探す。

 その時、ふと、近くのビルの屋上を、黒い影が素早く駆け抜けていくのが見えた気がした。あの動き……雪城澪か? あるいは、別の誰かか? さらに、反対方向からも、数人の人影が、同じように現場へと急いでいる気配を感じる。

 国立魔法大学付属高校の制服を着た、あのエリート学生の姿も、その中に一瞬見えたような……。


 やはり、他の連中も集まってきている。

 それぞれの組織が、それぞれの目的で。この状況は、ますます混沌としてきそうだ。


 俺は彼らの注意を引かないよう、さらに気配を殺し、建物の影から影へと飛び移るようにして、現場エリアの外縁部へと回り込んだ。

 そして、辿り着いた場所から見た光景に、俺は息を呑んだ。


 目の前には、信じられない光景が広がっていた。


 古い倉庫街の一角が、まるで巨大な力によって蹂躙されたかのように破壊されている。

 建物は歪み、崩れ落ち、地面には深い亀裂が走っている。

 そして、その中心部では、禍々しい紫色の光の柱のようなものが、天に向かって立ち昇っていた。

 その光の柱を中心に、例の冷たく無機質なエネルギーが、嵐のように渦巻いている。


 これが……「古き災厄」の片鱗なのか?


 想像を絶する光景と、肌を刺すような強大なエネルギーの奔流に、俺はただ立ち尽くすしかなかった。


 ◇


 目の前に広がるのは、紫色の禍々しい光と、破壊された倉庫街の残骸。

 そして、その向こう側を固める警察や消防、そしておそらくは異能管や魔法省の車両による封鎖線。


(……行くしかない)


 この状況を正確に把握するには、そして、もし介入する必要があるなら、もっと中心部に近づかなければならない。

 俺は意を決し、封鎖線を突破するべく動き出した。


 幸い、現場は混乱しており、照明も十分ではない。

 俺は闇に紛れ、建物の瓦礫や放置された車両を遮蔽物として利用しながら、慎重に内部へと潜入していく。

 気配を消し、エネルギーの漏れを極限まで抑える。これは、俺がこれまで生き延びるために、半ば無意識に磨いてきた技術だ。


 時折、封鎖線の内側を警戒する警官や、特殊な装備を身に着けた隊員(異能管か?)の姿が見える。

 彼らに見つかれば、一巻の終わりだ。俺は息を殺し、彼らの視界の死角を縫うようにして、さらに奥へと進んでいく。


 中心部に近づくにつれて、あの異質なエネルギーの奔流は、もはや暴風のように肌を打つ。

 空気がビリビリと震え、空間そのものが歪んでいるような感覚さえ覚える。

 足元の地面は不自然に抉れ、周囲の建物の壁は、まるで巨大な獣に爪で引き裂かれたかのように、鋭利な断面を見せていた。

 通常の物理法則ではありえない破壊の痕跡だ。


(……なんだ、これは……本当に『災厄』じゃないか……)


 俺は、比較的損傷の少ない倉庫の二階部分へと、瓦礫を足場にして静かに登った。

 割れた窓から、事件の中心部――紫色の光の柱が立ち昇る場所――を窺う。


 そして、俺は見た。


 光の柱そのものが、まるで意思を持っているかのように脈動していた。

 その中心には、明確な形はない。

 ただ、濃密な紫色のエネルギーが渦巻き、凝縮し、時折、触手のようなものを周囲に伸ばしては、近くの建物を容易く溶解させている。

 それは、生物とも自然現象ともつかない、理解不能な存在だった。


 これが……「古き災厄」の力なのか? あの「禁忌の徴」と関係があるのか?


 俺がその光景に戦慄していると、ふと、別の気配に気づいた。


 光の柱から少し離れた場所、別の建物の屋上に、黒い影が二つ。

 一つは、見覚えのあるシルエット……雪城澪か? もう一つは……?


 さらに、地上でも動きがあった。黒い戦闘服に身を包んだ数名の部隊が、統制された動きで光の柱を取り囲もうとしている。

 あれは、異能管の特殊部隊か、それとも魔法省か。

 彼らは、何らかの装置や、あるいは魔法的な結界を展開しようとしているようだった。


 そして、もう一つ。全く別の方向から、鋭い敵意と、強力な魔力の波動を感じる。まさか……あの時の、魔法学校のエリート学生か?


 状況は、俺が想像していた以上に混沌としていた。

 第三の影(と思われるエネルギー体)、雪城澪、公的機関の部隊、そして、あのエリート学生。

 複数の勢力が、この異常事態の中心で、それぞれの目的のために動き出している。


 俺は、この状況でどう動くべきなのか?


 ただ観察を続けるのか? それとも、介入するのか? 介入するとしたら、誰を相手に? 何のために?


 答えは、すぐには出なかった。ただ、目の前で繰り広げられる、世界の法則を捻じ曲げるかのような光景と、複数の勢力が入り乱れる混沌とした状況に、俺は息を詰めて見入るしかなかった。


 ◇


 破壊された倉庫の二階、割れた窓から、俺は息を殺して眼下の光景を見つめていた。

 中心部で脈動する紫色の光の柱――あの異質なエネルギー体。そして、それを取り囲むように展開する、黒い戦闘服の部隊。彼らの動きが、にわかに慌ただしくなった。


「……何か、仕掛ける気か」


 部隊は統制された動きで、光の柱を取り囲むように配置につく。

 数人が、何やら大型の装置のようなものを設置し、残りの隊員たちは印を結ぶような、あるいは特殊な構えを取るような姿勢をとった。

 魔法と科学技術、あるいはその両方を組み合わせた、封じ込め作戦なのだろう。


 やがて、隊長らしき人物の合図と共に、作戦が開始された。


 設置された装置から眩い光が放たれ、術者たちの手元からもエネルギーが供給される。

 それらが一つに収束し、紫色の光の柱を包み込むように、巨大な半透明のエネルギーフィールド――光の檻のようなものが形成され始めた。


(……あれで、抑え込めるのか?)


 俺は固唾を飲んで見守る。あれだけの規模のエネルギーフィールドだ。

 相当なエネルギーを注ぎ込んでいるはずだ。あるいは、この世界の最高レベルの封印術式なのかもしれない。


 だが――。


 光の檻が完成する、まさにその瞬間だった。

 

 グォンッ!!


 紫色の光の柱が、まるで生きているかのように、一度、大きく脈動した。そして、次の瞬間、中心部から凄まじい衝撃波が放たれたのだ。


 ドゴォォォン!!!


 轟音と共に、形成されかかっていた光の檻は、ガラス細工のようにあっけなく粉砕された。

 それだけではない。衝撃波は周囲へと拡散し、展開していた部隊の隊員たちを、木の葉のように吹き飛ばしていく。

 彼らが設置した装置も、爆発四散した。


「うわっ!」

「ぐあああっ!」


 隊員たちの悲鳴が、夜空に響く。吹き飛ばされた隊員たちは、瓦礫に叩きつけられ、動かなくなる者もいる。


 さらに、エネルギー体は怒り狂ったかのように、その紫色の触手を伸ばし、近くの建物を薙ぎ払う。

 鉄骨が飴のように捻じ曲がり、コンクリートの壁が豆腐のように崩れ落ちていく。


(……嘘だろ……)


 俺は目の前の光景に、ただ愕然とするしかなかった。


 異能管か魔法省か知らないが、彼らはこの国の、能力者関連の事案に対処するプロのはずだ。

 その彼らが、総力を挙げて展開したであろう封じ込め作戦が、こうも容易く、一瞬で破られるとは。


 あの紫色のエネルギー体……「古き災厄」の力は、俺が、そしておそらくはこの世界の誰もが想像している以上に、強大で、そして危険なものなのだ。


 このままでは、本当にまずい。被害はさらに広がり、この一帯が、いや、新京市全体が壊滅的な被害を受けるかもしれない。


 どうする? 俺はどうすればいい?


 見ているだけか? だが、あの力の前では、俺の力など……。

 いや、そもそも、俺の力を使えば、それこそが……。


 介入か、傍観か。

 安全か、危険か。

 秘密か、暴露か。

 俺の中で、激しい葛藤が渦巻いていた。だが、目の前で拡大していく災厄は、俺に選択の時間を、もはや与えてはくれないのかもしれなかった。


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