第15話 古文書の欠片

 アパートに戻り、シャワーを浴びて少しだけ冷静さを取り戻した俺は、早速行動を開始した。

 あの老人との接触、そして箱が見せたビジョン。

 断片的ではあったが、無視できない「何か」を掴んだはずだ。

 特に、あの禍々しくも奇妙なエネルギーの「形」。

 あれが何なのかを知ることが、現状を理解するための第一歩になるかもしれない。


 俺は記憶を頼りに、ノートの切れ端にその形をスケッチした。

 複雑な幾何学模様のようでもあり、蠢く生物のようでもある、黒と紫の入り混じった渦。

 見ているだけで、言いようのない不安感に襲われるようなデザインだ。


 これだ。これを調べるしかない。


 俺はノートパソコンを起動し、ネットの検索エンジンを開いた。

 まずは画像検索からだ。

 スケッチした図案をスマートフォンのカメラで撮り、類似画像を検索する。


 ……駄目だ。ヒットするのは、現代アートの画像や、どこかのトライバル模様、あるいは単なるノイズ画像ばかり。

 俺が見たものとは、似ても似つかない。


 次に、キーワードを変えながら検索を繰り返す。

 「古代 紋章」「異能 シンボル」「カルト 記号」「禍々しい 模様」「紫黒 渦巻き」……思いつく限りの言葉を打ち込んでいく。


 しかし、何時間も費やしても、結果は同じだった。

 ヒットするのは、ファンタジー小説の設定や、オカルト系の曖昧な噂話、あるいは全く関係のない情報ばかり。

 まるで、俺が探している情報だけが、この世界から綺麗に消し去られているかのようだ。


(くそっ……やはり、普通の手段じゃ見つからないのか……!)


 焦りと無力感が、再び俺の心を支配し始める。

 あの老人は「自分で見つけ出すしかない」と言っていたが、その手段すら見つからない。


 諦めかけた、その時だった。


 検索結果の、それもかなり後ろの方のページに、ほとんど誰も訪れないような、古めかしいデザインの個人研究サイトが引っかかった。

 タイトルは「失われた伝承と禁忌の図像学」。

 いかにも怪しげだが、他に手がかりもない。

 俺は藁にもすがる思いで、そのサイトをクリックした。


 サイトの内容は、個人の趣味で集められたような、古今東西のマイナーな神話や伝承、そして奇妙な図像に関する考察が、とりとめもなく書き連ねられているだけだった。

 ほとんどは、ただのオカルトマニアの妄想だろう。


 だが、その中にあった。「古き災厄に関する異聞」と題された、短いテキストファイルへのリンク。

 何気なくそれを開いた瞬間、俺は息を呑んだ。


 ファイルに添付されていた、不鮮明な画像。

 それは、どこかの遺跡の壁画か、あるいは古い羊皮紙の写しだろうか。

 そこに描かれていた模様の一部が、俺がスケッチしたあの禍々しい「形」と、酷似していたのだ。

 完全に一致ではない。

 だが、その特徴的な渦巻きと、見る者に不安を与える異様な雰囲気は、間違いなく同じものだ。


 そして、その画像に添えられた、ごく短いキャプション。


『――星を喰らうもの、古き災厄の徴(しるし)か。原初の混沌より出で、秩序と精神のいずれにも属さぬ、禁忌の力と伝えられる――』


 星を喰らうもの? 原初の混沌? 禁忌の力?


 意味が分からない。

 だが、これが偶然の一致とは思えなかった。

 俺が見たビジョンは、そして俺を追うかもしれない第三の影は、こんな古代の、おとぎ話のような伝承に繋がっているというのか?


 謎は深まるばかりだ。

 しかし、同時に、暗闇の中に一条の細い光が差し込んだような気もした。


 俺は、この「古き災厄」と「禁忌の力」というキーワードを、忘れないように強く頭に刻みつけた。

 これが、俺が進むべき道を示す、最初の道標になるのかもしれない。


 ◇


 あの不気味な紋章のようなイメージと、「古き災厄」「禁忌の力」というキーワード。

 ネットの海から拾い上げた、あまりにも断片的で、しかし無視できない情報。

 これを解き明かす鍵は、やはりあの老人しかいないだろう。

 俺はそう確信し、翌日の放課後、再び旧市街のはずれにある古物商「時任堂」の前に立っていた。


 ドアを開ける前に、一度深呼吸をする。

 今日こそ、何か具体的な情報を引き出す。

 たとえ、それが危険な領域に踏み込むことになったとしても。


 カラン、と昨日と同じドアベルの音が鳴る。

 埃と線香の匂いが混じった、独特の空気が俺を迎えた。


「……おや」


 店の奥、カウンターの中から、昨日と同じように老人が顔を上げた。

 その目には、俺の再訪を予期していたかのような、あるいは面白がるような光が宿っている。


「また来たのかね、若いの。今日は、あの箱にでも用かね?」


 老人は、俺が前回強く惹かれていた黒い木箱を顎で示しながら、からかうように言った。


「いえ……今日は、あなたに聞きたいことがあって来ました」


 俺は単刀直入に切り出した。

 もう、遠回しな探り合いをしている時間はない。


「ほう、わしにかね?」

「はい。……これに、見覚えはありませんか?」


 俺は懐から、昨夜記憶を頼りにスケッチしたノートの切れ端を取り出し、カウンターの上に置いた。

 あの、禍々しい渦巻き模様。


 老人は、そのスケッチに視線を落とした。

 そして――次の瞬間、彼の表情が一変した。


 これまで浮かべていた余裕のある笑みは消え去り、驚愕と、信じられないものを見るような困惑、そして……深い、底知れないほどの警戒の色が、その瞳に浮かんだのだ。

 店の空気までもが、一瞬で張り詰めたように感じられる。


「……若いの」


 老人の声は、先ほどまでとは打って変わって、低く、厳しく響いた。


「お主……これを、どこで知った?」


 その剣幕は、俺が触れてはならない知識に触れてしまったことを、雄弁に物語っていた。

 やはり、この紋章は、そして俺が見たビジョンは、ただ事ではないのだ。


「……少し、気になることがあって。調べ物をしていたら、偶然……」


 俺は言葉を濁す。

 箱のビジョンを見た、などとは言えない。


「偶然、だと?」


 老人は疑わしげに俺を睨む。「古き災厄」「星を喰らうもの」……ネットで見つけたキーワードを口にするべきか迷ったが、今は得策ではないだろう。


「これが、それほどまでにまずいものなのですか?」


 俺は逆に問いかける。


 老人はしばらくの間、スケッチと俺の顔を交互に見比べ、やがて、深く長いため息をついた。

 その表情には、苦々しい記憶を呼び覚まされたかのような、複雑な色が浮かんでいる。


「まずい、という言葉では生ぬるいわい……」


 彼は絞り出すように言った。


「それは……触れてはならん、禁忌の徴(しるし)じゃ。世界の理(ことわり)そのものを歪めかねん、古き……深き闇の象徴じゃよ」


 禁忌の徴。深き闇の象徴。

 老人の口から語られる言葉は、俺の想像を遥かに超えて、重く、そして不吉だった。


 俺は、自分がとんでもないものに足を踏み入れてしまったことを、改めて思い知らされていた。


 ◇


 老人の重々しい言葉が、時任堂の埃っぽい空気に響く。

 俺はゴクリと唾を飲み込み、恐怖を押し殺して食い下がった。


「禁忌って……それは一体何なんですか!? 古き闇? 世界の理を歪めるって……どういう意味ですか!」


 知りたい。知らなければならない。

 俺が見たあのイメージは、この老人が口にする禁忌とやらに繋がっているのだ。

 それはもう、疑いようがなかった。


 俺の必死の問いかけに、老人は苦々しい表情で顔を歪め、しばし黙り込んだ。

 まるで、語るべきか語らざるべきか、その言葉の重さを測っているかのように。

 やがて、諦めたように、ゆっくりと口を開いた。


「……あれはな、若いの。この世界に存在する『理』……すなわち、魔法という秩序の力とも、超能力という精神の力とも、根本的に相容れないものじゃ」

「相容れない……?」

「そうじゃ。あれは、原初の混沌、あるいは虚無から生まれた……あるいは、呼び覚まされたと言うべきか……とにかく、この世界の法則そのものを喰らい、歪める力。かつて、それが現れた時……世界は、破滅寸前の大災厄に見舞われたと伝えられておる」


 古き災厄。星を喰らうもの。

 ネットで見つけた断片的な言葉が、老人の口から語られる事実に繋がり、現実味を帯びてくる。


「その力は、秩序も精神も、光も闇も、全てを無差別に飲み込み、ただ『無』に還そうとする。故に、古来より『禁忌』として、その存在も、それを示す徴も、固く封じられてきたのじゃ……わしらが知る歴史の、さらに奥底にな」


 俺は息を呑む。

 そんなものが、本当に存在するのか? そして、俺が見たビジョンは、それに関わるものだと?


「……じゃあ」


 俺は一つの疑問を口にする。

 ずっと心のどこかで引っかかっていた、この世界の根本的な疑問。


「この世界で、魔法と超能力が決して交わらない……いや、交われないとされているのは……まさか、その『禁忌の力』と関係があるんですか?」


 俺の言葉に、老人はわずかに目を見開いた。

 そして、何かを察したように、深く頷いた。


「……聡いな、若いの。あるいは、おぬし自身の『在り方』が、それに気づかせたのかもしれんが」


 彼は肯定も否定もせず、ただ続けた。


「断言はできん。じゃが……今の世界の『形』……二つの力が決して交わらぬという、この不自然なまでの『分断』が、その古き災厄と全く無関係であるとは、わしには思えんのじゃよ。あるいは、それこそが、災厄を防ぐために先人たちが築いた、苦肉の『封印』なのかもしれんがな……」


 封印……? だとしたら、俺のこの力は……?


「……っ!」


 頭が、割れるように痛んだ。

 情報量が多すぎる。そして、その一つ一つが、あまりにも重すぎる。


「これ以上は、知るべきではない」


 老人は、俺の混乱を見透かすように、静かに、しかし強い口調で言った。


「禁忌に触れることは、闇を呼び覚ますことと同義じゃ。知れば、お主も……いや、お主だけではない、この世界そのものが、『奴ら』に引きずり込まれるやもしれん」


『奴ら』……老人は、その禁忌の力を体現する存在を知っているのか?


「今日はもう帰りなさい、若いの。そして、よく考えることじゃ。お主が踏み込もうとしておるのは、そういう領域だということをな。……そして、願わくば、忘れなさい。忘れられるものならな……」


 老人はそれだけ言うと、疲れたように目を伏せ、再び沈黙してしまった。


 俺は、言葉もなかった。

 得られた情報は断片的だが、そのどれもが世界の根幹を揺るがすような、途方もないものだった。

 そして、その中心に、俺自身の存在があるのかもしれないという、恐ろしい可能性。


 俺はよろめくように立ち上がり、老人に一礼する気力もなく、重い足取りで時任堂を後にした。


 外に出ると、夜の闇が、先ほどよりもさらに深く、濃く感じられた。

 まるで、世界そのものが、巨大な秘密と闇を隠しているかのように。



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