第3話 転校生は観察する
翌朝。
ベッドから体を起こすと、昨日よりも明らかに重い倦怠感が全身にまとわりついていた。
昨日の出来事が、思った以上に精神を消耗させていたらしい。
力を使ったことへの嫌悪感も、まだ胃の底に澱のように溜まっている。
「……最悪の目覚めだ」
それでも、日常は待ってくれない。
俺はいつも以上に気配を殺し、物音一つ立てないように注意しながら朝の支度を済ませた。
鏡に映る自分の顔は、幸いなことに普段通りの寝不足気味な高校生だ。
これなら大丈夫だろう。
今日こそ、何事もなく一日を終えたい。
昨日失った分の平穏を、今日取り戻さなければ。
祈るような気持ちで、俺は部屋を出た。
教室の扉を開けると、昨日までと変わらない喧騒があった。
それが少しだけ、俺を安心させた。
自分の席に向かおうとすると、すぐに視線を感じる。
天野光だ。
「あ、霧矢くん、おはよう……」
どこか遠慮がちに、しかし心配の色を隠せない表情で彼女が声をかけてくる。
昨日の今日だ、無理もないだろう。
「……ああ、おはよう」
俺は努めて普段通りに、短く返す。
彼女が何か言い募ろうとする前に、さっさと自分の席に着いた。
光は何か言いたげにこちらを見ていたが、やがて諦めたように自分の席に戻っていった。
これでいい。
今は、そっとしておいてほしい。
昨日の出来事は、俺たち二人だけの、思い出したくもないアクシデントだったのだから。
やがて担任教師が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まった。
いくつかの連絡事項の後、教師は言った。
「今日からこのクラスに新しい仲間が増えることになった。入ってきてくれ」
教室のドアが開き、一人の女子生徒が入ってくる。
その瞬間、教室内の空気がわずかに変わった気がした。
雪のように白い肌。
腰まで届く艶やかな黒髪。
そして、人形のように整ってはいるが、どこか感情の温度を感じさせないクールな顔立ち。
間違いなく美少女と呼べる容姿だが、それ以上に、彼女が纏う独特の雰囲気がクラス中の視線を集めていた。
「雪城澪(ゆきしろ みお)さんだ。みんな、仲良くしてやってくれ。じゃあ雪城さん、自己紹介を」
「……雪城澪です。今日からお世話になります。よろしくお願いします」
抑揚のない、静かな声。
自己紹介はそれだけだった。
必要最低限。
まるで他人に関心がないとでも言うように。
(……なんだ、こいつ)
別に俺に関係があるわけじゃない。
だが、本能的な何かが警鐘を鳴らしていた。
面倒事の匂いがする、と。
教師に促され、雪城澪は空いていた席――偶然にも、俺の斜め前の席――に向かって歩き出す。
そして、自分の席に着く直前、彼女はふと、こちらに視線を向けた。
目が、合った。
感情の読めない、黒曜石のような瞳。
それは一瞬だけ俺を捉え、そして何事もなかったかのように逸らされた。
だが、俺には分かった。
あれは、ただの偶然じゃない。
明確な意志を持った視線。
まるで、値踏みするかのような……あるいは、何かを探るような。
背筋に、冷たいものが走る。
嫌な予感が、確信に変わっていく。
俺の平穏な日常(という名のハリボテ)は、昨日入ったヒビから、さらに大きく崩れ去ろうとしているのかもしれない。
(……面倒なことになりそうだ)
俺は誰にも気づかれないように、深く、静かにため息をついた。
◇
昼休み。
教室の喧騒をBGMに、俺は自分の席で買ってきたコンビニのパンを味気なく口に運んでいた。
昨日の疲労が抜けきらず、正直言って食欲なんてほとんどない。
だが、何か腹に入れておかないと、午後の授業を乗り切る自信がなかった。
できるだけ存在感を消し、誰とも視線を合わせないように努める。
特に、天野光の視線が痛い。
彼女は時折、心配そうにこちらを窺っているが、俺は気づかないふりを続けた。
今は、誰とも話したくない。
そんな俺のささやかな願いは、しかし、あっさりと打ち砕かれた。
「霧矢くん、少し、いいかしら?」
静かだが、妙に耳に残る声。
顔を上げると、そこには転校生の雪城澪が立っていた。
表情は相変わらず能面のように平坦で、感情が読み取れない。
教室内のいくつかの視線が、こちらに集まるのを感じる。
美少女転校生が、あの影の薄い奴に何の用だ、とでも言いたげな好奇の視線だ。
非常に、居心地が悪い。
「……何か用?」
俺はできるだけぶっきらぼうに、関わりたくないオーラを全開にして答える。
「ええ。転校してきたばかりで、まだ分からないことが多くて。少し教えていただけないかしらと思って」
口実は、いかにもっともらしい。
だが、彼女の黒曜石のような瞳の奥が、別の目的を隠しているように見えてならなかった。
「……俺じゃなくても、他に聞けるだろ。例えば、委員長の天野さんとか」
ちらりと光の方へ視線を送る。
光はビクッと肩を揺らし、しかしすぐに期待するような顔でこちらを見た。
「そうね。でも、霧矢くんの席が近かったから」
澪はあっさりと言い、俺の前の席(今は空席だ)に、許可もなく腰を下ろした。
距離が近い。
逃げ場がない。
「それで、何が聞きたいんだ」
諦めて、俺は短く問いかける。
早く用事を済ませて、どこかへ行ってほしい。
「ありがとう。例えば……この辺りの治安について、とか」
「治安?」
予想外の質問に、思わず聞き返す。
転校生が最初に気にするようなことだろうか?
「ええ。昨日、少し物騒な話を聞いたものだから。この街も、見た目ほど安全ではないのかしら、と思って」
探りを入れてきている。
間違いなく。
昨日の路地裏の事件のことを言っているのか?
あるいは、もっと別の何かを?
「さあな。俺は別に、危ない目に遭ったことはないけど」
嘘だ。
昨日、思いっきり遭ったばかりだ。
「そう。なら良かったわ……でも、霧矢くん、少し顔色が悪いように見えるけれど。昨日、何かあったのかしら?」
畳み掛けてくる質問。
偶然を装っているが、明らかに意図的だ。
こいつ、どこまで知っている?
「……別に。ただの寝不足だ」
俺はパンの袋を弄びながら、視線を合わせずに答える。
ボロを出すな。平静を装え。
「そう……。ならいいのだけれど。無理はしない方がいいわよ。この街では、何が起こるか分からないから」
その言葉には、単なる心配以上の響きが込められている気がした。
まるで、俺が何か特別な事情を抱えていることを知っているかのような。
教室の少し離れた場所で、光が固唾を飲んでこちらを見守っているのが視界の端に入る。
彼女も、この転校生の異常さに気づいているのかもしれない。
「……忠告どうも。他に用がないなら、俺は食事の続きをしたいんだが」
これ以上話すのは危険だと判断し、会話を打ち切る。
澪は特に気分を害した様子もなく、すっと立ち上がった。
「ええ、ごめんなさい。時間を取らせたわね。ありがとう、助かったわ」
表情一つ変えずにそう言うと、彼女は自分の席へと戻っていった。
嵐が過ぎ去ったような、しかし妙な緊張感が残る空気。
俺は大きく息を吐き出し、残りのパンを無理やり口に詰め込んだ。
味なんて、全くしなかった。
雪城澪。
彼女は一体何者なんだ?
新たな面倒事の種が、確実に芽を出そうとしていた。
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