第12話 それでも朝はくる

手術室の天井が、ぼんやりとにじんで見えた。

麻酔が徐々に効いていくなか、紗英はただ、自分の身体から「命」が取り除かれていくことを感じていた。


──また、失った。


それは、まだ形にもなっていない、小さな命だった。

でも、確かに、彼女の中にいた。


手術は無事に終わった。

だが、心は無事ではいられなかった。





「……紗英さん、目が覚めましたか?」


病室で声をかけてきたのは、ケースワーカーの佐伯だった。

少し白髪交じりの優しい女性。公務員らしからぬ、親しみのある声で話す人だった。


「無理に話さなくていいです。でも、ここからまた、やり直せます。時間はかかっても……絶対に」


紗英は、ゆっくりとまばたきで返事をした。

涙は出なかった。泣く力すら残っていなかった。





退院してからしばらくは、自宅のベッドからほとんど動けなかった。

テレビの音も、スマホの画面も、ただ遠い世界のものにしか思えなかった。


だが、ある朝。


窓の外で、小さな子どもたちの声がした。

黄色い帽子にランドセル。

ぴょんぴょんと跳ねるように横断歩道を渡っていく。


そのとき、胸の奥がずきりと痛んだ。


(私は……何をしていたんだろう)


子どもを失ってなお、自分のことすら守れない。

でも――。


「まだ、終わってないよね……?」


ベッドからゆっくりと起き上がり、カーテンを開けた。

少しだけ、陽が差していた。





再びハローワークに行くには、まだ勇気が足りなかった。

でも、近所の図書館にだけは足を運べるようになった。


ある日、図書館の掲示板で目にとまったのは、ボランティア募集のチラシだった。


「読み聞かせボランティア募集」


小さな子どもたちに、絵本を読む。

かつて、お嬢様育ちとして育った紗英は、誰かに本を読んでもらう時間が大好きだった。

あのときの温もりを、今の自分でも、誰かに渡せるかもしれない──。


「……やってみようかな」


自分の声で誰かが笑うなら、そんな未来があってもいい。

心の奥で、静かに、そう思えた。





──彼女はまだ、傷の中にいた。

けれど、その傷口から、やがて光が差し込む日を、きっと迎えるのだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る