百鬼夜行絵巻・改編

@makinohara_

第1話 箱庭のざわめき

2040年、東京。

滑るように走るメトロの車内は、静かだった。低い浮遊音だけが単調に響き、ほとんどの乗客は宙を見つめているか、目を閉じている。網膜に映る情報、あるいは直接脳に流れ込む音楽。それが当たり前の光景だった。

佐藤 霧里(さとう きりり)も、窓の外を流れる代わり映えのしないトンネル壁を、ただぼんやりと眺めていた。この淀みない、予測された流れが続く日常。便利で、安全で、そしてどこか息が詰まる。無意識に、指先で空気に触れる。普通なら気づかないはずの、空調の流れが生む微細な温度のむらや、人々の呼気に混じる微かな感情の匂いのようなものを感じ取ってしまう。遺伝子調整の結果とされる、人より少しだけ鋭敏になった感覚の、持て余しだった。

その週末、霧里は父に頼まれ、先日亡くなった祖父の家を整理しに来ていた。都心から少し離れた、古い住宅地。スマートロックも環境センサーもない家は、埃と、壁に染み付いた時間の匂いがした。

「霧里、こっちの書斎、頼めるか? 親父、物持ち良かったからなぁ」父は少し困ったように笑いながら言った。「データ化できるものはスキャンして、あとは…まあ、仕方ないな」

書斎は、様々なもので溢れていた。古びたPC、専門書、そして大量の紙の本。

「うわ、本ばっかじゃん。これ全部どうすんの?」霧里はうんざりした声を出す。

「だよなぁ。俺もじいさんには言ってたんだよ、場所取るだけだって。でも聞かなくてさ。特にこの辺の…ほら、民俗学? とか、地域の言い伝えとかの本、好きだったんだよ」

「へぇ…」

霧里は興味なさそうに、手近な一冊を手に取った。黄ばんで、ページの端が脆くなっている。

「『武蔵野妖怪譚』だって。古いね」

「ああ、それ、じいさんの『宝物』の一つだよ。なんか色々書き込んだり、メモ挟んだりしてるだろ? この辺りの昔話、自分で調べて回ってたらしいぞ」父は少し懐かしそうだ。

「ふーん…妖怪ねぇ。今どき、そんなの信じてる人いないでしょ」霧里はパラパラとめくりながら言った。中には奇妙な挿絵や、祖父のものらしい几帳面な文字での書き込みが見える。

「まあ、今の時代はそうだろうけどさ。でも、ロマンがあるじゃないか。科学じゃ割り切れない、不思議な話ってさ」

「ロマンねぇ…よくわかんない」霧里は本を段ボール箱に放り込もうとしたが、なぜか手が止まった。表紙の、少し不気味な妖怪の絵が妙に目に焼き付く。

「…よし、今日はこのくらいにするか」夕方になり、父が言った。「なあ霧里、帰り、ちょっとだけ寄り道しないか? 〇〇沼」

「〇〇沼? なんで?」

「いや、じいさんがさ、よくこの沼の話してたんだよ。昔は色々あったとか言ってな。どんな風になってるか、見てみたくなってさ」

〇〇沼は、思ったよりも現代的に整備されていた。水質データを表示するモニターや、監視用のセンサーポールが湖畔に立ち、遊歩道も綺麗に舗装されている。だが、日が傾き始めた湖面は深い緑色を湛え、水際は人の手が入っていないかのように水草が鬱蒼と茂り、どこか昔の面影を残しているようにも見えた。センサーが捉えるデータとは裏腹に、淀んだ空気と、水底からじわりと染み出してくるような冷気を感じる。霧里の鋭敏になった感覚が、そう告げていた。

「うーん、まあ、普通の沼だな」父は少し拍子抜けしたように言った。

その時、霧里の視界の端に、人影が入った。

湖畔の少し奥まった場所に、一人の少女が立っていた。霧里と同じくらいの歳だろうか。タブレットのようなものを持ち、熱心に水面を見つめている。いや、水面というより、その奥深くを覗き込もうとしているような、真剣な眼差し。こちらには気づいていないようだ。風が吹き、少女の髪が揺れる。何か、場違いな印象を受けた。こんな場所で、一人で、何を?

霧里が何気なく視線を送っていると、不意に少女が顔を上げた。目が合う。驚いたように少し目を見開いたが、すぐに興味を失ったように、再び沼に視線を戻した。霧里はなぜか、その短い視線の交錯から目が離せなかった。

「さ、帰るか」父に促され、霧里は沼に背を向けた。あの少女の姿と、沼の奇妙な気配が、妙に心に引っかかっていた。

自宅に戻り、夕食を終えた後、霧里は書斎から持ち帰った段ボール箱の一つを何となく開けた。昼間、手に取った『武蔵野妖怪譚』が一番上に入っている。彼はそれを手に取り、再びページをめくり始めた。

――〇〇沼のヌシ様。機嫌を損ねると水面に近づく者を攫む。近年、周辺開発により水質悪化、目撃談途絶えるも、水底には今も――

昼間見た、あの沼の光景が蘇る。深い緑色の水面、鬱蒼とした水草、センサーポールが立つ現代的な風景の中の、異質な淀み。そして、あの少女。彼女は、何をしようとしていたのだろう。

(まさか…)

馬鹿げた考えだと頭では分かっている。だが、あの沼の奇妙な雰囲気と、祖父の本に書かれた古い言い伝え、そしてあの少女の真剣な眼差しが、霧里の中で結びつき始めていた。

デバイスで再び『〇〇沼 ヌシ』と検索する。結果は同じ。『非科学的』『関連情報なし』。AIが構築した「正しい」世界は、そんなものの存在を許さない。

でも、もし。

もし、科学やデータが捉えきれない「何か」が、あの淀んだ水底や、古い言い伝えの中に、まだ息づいているとしたら?

霧里は、自分の指先を見た。人より少しだけ鋭敏になった感覚。

これでなら、AIが見落とすような、微細な「気配」や「雰囲気」を捉えられるかもしれない。あるいは、それを再現して、他の誰かに「感じさせる」ことも…?

ほんの少しだけ、ほんの少しだけ。

忘れられた物語の断片に、触れてみたい。

霧里の中で、今まで感じたことのない、奇妙な好奇心が静かに芽生え始めていた。

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