第二十二話 古峰晃誠

 放課後、スチール本棚で区切られた文芸部室。その手前側のスペースを借りて、晃誠は真白と蒔絵と机を挟んで座っていた。


「あそこの小学校、うちのお母さんが去年まで丁度そこに勤めてたのよね」


 晃誠の説明を聞いた蒔絵は母親への相談を快諾し、「でも残念ね」と続けてそんなことを口にした。


「そいつはタイミングが悪かったな」

「とは言っても、教師にできることなんて、学校で様子を見て問題があれば児童相談所に通告するくらいだと思うけど」

「仕方ないんだろうが、なんだか頼りない気もするな」


 澄まし顔の蒔絵に晃誠が愚痴ると、蒔絵も腕を組んで軽く頷く。


「学校と家庭の距離は離れる一方だってお母さんも言ってたわ。家庭訪問もやらなくなってきてるしね」

「働き方改革ってやつか」

「それもあるけど、家庭の方も教師にあまり介入して欲しくないっていう意識も強くなってるみたいよ。プライバシーの問題ってやつで。学校の中立化は学校や教師の側の都合だけじゃなくて、保護者も含めた世論の求める方向なんでしょうね」


 蒔絵のそんな所見を聞き、晃誠は少し呆れた。


「でも、何か起きたら結局、学校や教師の責任が追及されるだろ?」

「だから、学校内での観察にだけは遺漏のないよう注力するって方針なんだと思う。そのうち学校は学校の中だけの責任を取る場所、って割り切られるようになるのかもね」

「熱血教師ドラマは平成の地平線、昭和の彼方か」


 そう言って、晃誠は軽く肩をすくめる。

 別にそんな極端なものを期待したことはないが。


「斗虎くんの話、お母さんに言えば吹山小の先生に連絡しておいてはくれると思うけど、それでいいのね?」

「ああ、頼めるか?」


 蒔絵は頷いて真白の方を見る。


「これ以上は大人に任せるしかないんじゃないかな」

「そう……そう、ですよね」

「あんまり考え込むなよ。隣近所でそんなことが起きてれば、誰だって気が気じゃねえだろうけど」

「……いくらなんでもたびたび一日ご飯抜きなんて今時それかっていう感じだし。お祖父さんも怒鳴り声や泣き声が聞こえたって民生委員に相談するっていうんだから、大人がなんとかするでしょう」


 真白はまだ迷っている様子だったが、頷いた。


「お話、終わりましたー?」


 本棚の壁の奥から、気配もなくすっと桐花が姿を現す。


「っ、びっくりした……」


 ちょうど背後をとられる形になった蒔絵が振り向き、大袈裟に肩を上下させる。

 桐花は恐縮して頭を下げる。


「すみません。ジャンプスケア防止に本棚の向こうからゆっくりじっくりぬめぬめと這うように登場するべきでしたね」

「それはそれで怖いだろ……」


 思わず想像して呻く晃誠。


「それはそれとして。先輩方は展示用のキャプション、すぐ書いていっちゃいます?」


 今日はバイトがあるのでどうしようかと晃誠がスマートウォッチを確認していると、真白が軽く手を上げる。


「あの、私、私は今日はこれで帰ることにします……」


 そしてふらりと頼りなげに立ち上がると、本棚の奥の美弥古にも声をかけ、スクールバッグを抱えて部室を出て行った。


「心配よね。――その子ももちろんだけど、よその家の出来事とはいえ、泉地さんも思い詰めそうな感じだし」

「まあな」


 晃誠と蒔絵は、真白の出て行ったドアを見つめてそう呟いた。



 ◇◆◇◆◇◆◇



 早めに下校してマンションに戻った真白は、マンション前で斗虎と鉢合わせた。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 気まずそうな上目遣いで先に挨拶をしてきた斗虎に、真白は強張りそうな喉を震わせて挨拶を返す。自分で自分が情けない。


「斗虎くん……その、今日のご飯は?」


 言ってから踏み込みすぎたことを後悔した。


「大丈夫、今日はお母さん早いから……」


 斗虎はそう言って一度うつむき、何か思いついたように顔を上げる。


「あの、お姉ちゃん。もう僕たちのこと気にしないで大丈夫だから。うちのお母さん、僕たちのことちゃんとしてるから。もうパンもとったりしないよ。それじゃあね」


 階段へと走り去っていく斗虎を、真白はただ眺めるしかなかった。



 ◇◆◇◆◇◆◇



「今日は枝豆、そら豆、グリーンピースの三色かき揚げです」

「三色どころか緑一色なんですが」

「そこに茄子とイカの天ぷらも添えて――ごめんなさいね、かき揚げの方は冗談で思いついたんだけど、ちょっとふざけすぎたかも」


 バイトから帰宅した晃誠を出迎えた継母は、晃誠がシャワーを浴びている間に、とっておいた夕飯も用意してくれた。

 感謝の言葉を述べて、一人食卓につく。


「ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」


 食べながらそう言うと、睦美もテーブルの向かいに座る。


「何かしら?」

「睦美さんって、睦希ちゃんが小さい頃どんな風に怒ったりしてました? その、二人だけになってからの話なんですが。ひとり親って大変だと思うんですけど、感情的になったりとかは……。あ、うちの親父は昔からあの調子ですが」


 いきなり無遠慮な話題だっただろうかと思ったが、特に気にしていない様子で「んー」と思案する睦美を見て、少しほっとする。


「その頃には睦希も小学校に上がって、四六時中手がかかる時期も過ぎてたし、あまり大変な子でもなかったし……。それは叱ることもあったけど、コントロールできないほどカッとなるようなことはなかったと思う。私の主観だから、睦希に聞いたら違う話が出てくるかもしれないけれど」


 睦美は、ふふっと笑いながら頬杖をついた。


「それ以前から共働きで、職場の環境や条件も良かったし、必要なら託児所や、近くの実家の両親を頼ったりもできたから。――色々恵まれてたし、人に頼るのもあまり気にしない方なのね、私。これが責任感が強くて一人で思い詰めるような人だと、子育てなんて専業でやってパートナーが協力的でも余裕がなくなりそうね」

「そうですか……」

「どうしたの突然、そんなこと」


 少し迷ってから、晃誠は前日の件を説明した。

 睦美はそれを聞いて表情を曇らせる。


「それは……確かに気になるわね」

「とはいえこっちにできることなんかないんで、結局大人達の対応に任せるしかないんですけど」

「でもちょっと心配ね……周囲の介入で追い詰められて余計に悪化するようなこともあるそうだから」


 言われて、晃誠は急に不安になってきた。


「あまり縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「だけど、近所の人にせよ児童相談所みたいなお役所の人にせよ、世の中はまず子供第一で考えがちでしょう」

「そりゃ、そうでしょ」

「そうなるとね、親は『社会は自分に寄り添ってくれない』『自分の気持ちをわかってくれない』って頑なになっちゃうこともあるの。親の孤立とか呼ばれるような話ね」


 ――なんだそれは。晃誠は少し苛立ちを覚えた。


「親に何かあるからって子供をその犠牲にしていいわけないんだから、世間が子供を優先するのは当たり前でしょうに」


 それを聞いて睦美は少し寂しそうに微笑む。


「そうよね、普通はそう考える。でもね、児童問題は子供には責任がないし、問えないからこそ、問題を抱えているのは常に親の側なの。助けなきゃいけないのは子供。でもそのためには、まず親の側のストーリーに寄り添って理解する必要もあるのよ。それに、自分が責められると思っていたり、実際そうだったりするんじゃ、大人でも心を開いて援助を求めるのは難しいでしょう」


 もちろん、緊急時にはまず子供第一なのは当然だけど――睦美はそう補足する。


「理屈はわからなくもないですけど……」

「受援力っていうんだったかな。必要な時、適切に周囲に助けを求められるっていうのが、自立した人間が持っている能力の一つなんだけれど。自立したいと思うあまりか、逆にその能力を持てないような人もいるの」


 理解はできる、だがどこか納得し難いものを覚えて、晃誠は唸る。


「事情があるんだから許してあげなさいっていう話じゃないのよ。原因になっている問題を解決しましょうって話なんだから。……でも、親の側の事情を汲む意見に対して、深く傷つく被虐待経験者もいるのね。辛い目にあったのは自分なのに、親の方が可哀想って言われてるみたいで納得できないって」


 例えば、と睦美は以前に本で読んだという話を説明する。


 両親による虐待の場合でも、主導しているのはどちらか片方であるケースは少なくない。例えば母親も夫からDV被害を受けていて、自身がその対象になるのを恐れて子供への暴力を見て見ぬ振り、あるいは加担するというパターンがある。


 そうした場合、母親も被害者であり同情的な意見も当然あがる。だが子供時代に似たような経験をした者の中には、その論調に自分達の苦痛の記憶が否定されたようで苦しいと感じる者もいるのだという。


 彼、彼女らからすれば、自分を守ってくれなかった親は結局のところ自己保身を選んだ裏切り者であり、ただの共犯者ということなのか。


「……個人的にはそっちの方が共感できますね」


 苦い物を感じながら、晃誠はそう言った。


「厄介なのはね、仮に社会が介入したとして、それで終わりってわけじゃないところね。ずっと続くの。子供はもちろん、親の人生も。両者が親子だっていう事実もね」


 そこで睦美はかぶりを振った。


「ごめんなさい、食事中にするような話でもなかったわね」

「いえ、話を振ったのはこっちですから。食べ終わったら食器は洗っておくんで、もう休んじゃってください」

「はい、おやすみなさい」



 ◇◆◇◆◇◆◇



 食器を片付けると、晃誠は電気の消えたリビングへと足を踏み入れた。

 庭に通じる掃き出し窓のカーテンを少し開け、外を覗く。月明かりに、さして広いわけでもない庭が照らされている。


(なんだか嫌なこと思い出すな……)


 忌々しげにカーテンを閉める。


『男の子なんてつまらないわ。女の子の方が良かった』


 そんな声が聞こえてきた気がした。




 今は特に何にもない古峰家の庭だが、晃誠の幼少時には凝り性だった母の趣味のガーデニングにより、花壇やプランターが並び、鮮やかな緑を背景に色とりどりの花を咲かせていた。


 もともと仕事中毒気味だった父の仕事がより忙しく、出張で家を空けることも多くなると、それに比例して入れ込み具合も加熱していった結果だ。


「いいでしょう、花の香りと緑の色は人の心を落ち着かせてくれるの。人間がお世話をしてあげた、そのお返しなのよ。草花は優しい人間の友達なの。あんたもそうならないとだめよ」


 幼い晃誠は黙って頷いた。

 本当はリビングの中まで植物に侵食されるのはあまりいい気分ではない。鉢植えやプランターは土臭いし、花の香りもむっと濃くて渋い青臭さで、いい香りだとは思えなかった。

 でもだめなのだ。母の望む「優しい人間」になるには草花を友達だと思わなければ。


「そんなバカみたいなうるさいだけの歌を聴くのはやめて、この曲を聴きなさい。これが多くの人が認めて歴史に残ってきた、本当にいい音楽なのよ。こういう音楽を聴くと、心が豊かになるの。植物だってクラシックを聴くと良く育って、きれいな花を咲かせるの」


 晃誠は黙って母のかける音楽を聴いた。

 本当はアニメやヒーローの歌が良かった。母のかける曲はいつまでたっても歌が始まらないのでつまらない。

 でも歌ったり踊ったりしたくなる音楽は「バカみたい」だから母が嫌がるので聴いてはいけない。

 自分は心が豊かではないから、この音楽の良さがわからないのか。


「ほらっ、そわそわしてないで画面に集中しなさい! なんであんた、こんなに落ち着きがないの……? 子供でもわかる、こんなにきれいな映画なのに。これで感動しないなんてまともな感受性がないのかしら」


 母が見せようとする映画より、もっと派手な冒険や戦いのある映画の方が良かった。

 この映画を見ても退屈で、全然感動できない自分はまともではないのだ。


 どうすれば優しく、心の豊かな、まともな人間になれるのかわからない。

 わかるのは自分は優しくもなく、心が豊かでもなく、まともな人間ではないということと、それでは母に認めてもらえないということだけだ。


 どうすれば優しくなれる? 嫌なものを嫌だと思っちゃいけないのか。

 どうすれば豊かな心をもてる? 歌ったり踊ったりするのは心が貧しい人のすることなのか。

 どうすればまともな人間になれる? 人が感動したもので自分も感動しなければならないのか。


「私がこれだけしてあげてるのに。本当、人の心ってものがわからないのね。他人を思いやるって事ができない。そういうところ、お父さんにそっくりね」


 晃誠は母親の顔を見つめて、そこに怒りや不機嫌さが見えないかどうか、常に正解を考え、答えを確認しながら過ごした。


「なにを人の顔を見つめてるの、気持ち悪い。言いたいことがあるなら言いなさいよ。ないのだったらもっとニコニコして、ちゃんと前を向いてなさい!」


 あれは確か小学一年生の終わり頃だった。

 晃誠が家に帰るとダイニングで母がスマートフォンを片手に何やらくだくだと通話をしていた。

 声色や様子からして相手はいつも通り叔母さんだろうか。よく見かける光景で、大抵は父の愚痴だ。


「晃誠は父親に似たのね。本当に何を考えているのやら」

「植物だって愛情を注げば花の一つも咲かせるっていうのに、あの子は何をしてあげても物言いたげなしかめっ面の上目遣いで睨みつけてくるばっかりで。愛情っていうものが伝わらないんだわ」

「何してあげてもこちらに応えようという気が全くないの。少しくらい親の努力に報いようって気になってくれれば、こっちもやり甲斐があるっていうのに」

「あんな子。反抗期なんて考えたら、今からうんざりする」

「だから女の子の方が良かったのに。女の子だったら愛情深くて優しい思いやりがあって、母親の気持ちだって理解してくれたでしょうに」

「父親と一緒よ、男にはしょせん人の気持ちを理解する能力なんてないんだから。本当、あの子は植物以下なのよ」


 その言葉を聞いて、頭の芯が痺れ、胸の奥から何かせり上がってくるものを感じる。

 ――瞬間、頭が真っ白になった。


 晃誠は母の側を突っ切ってリビングへ行き、並んでいる草花を片っ端から庭へと投げ出した。

 続いて自身も庭へ踊り出すと、鉢やプランターの並んだ台を蹴倒し、花壇に飛び乗ると満開の花を踏んづける。


 騒ぎに気付いた母が悲鳴を上げ、庭へと飛び出してきた。

 晃誠の襟首を掴むと引きずり倒し、家の中へと放り投げる。

 そのまま物干しにかかっていたプラスチック製の大ぶりなハンガーをひっつかみ、床に転がった晃誠を金切り声を上げながら引っ叩いた。


「なんてことすんの! なんてことすんのよ! あんた!」


 晃誠が痛みに身を竦めて丸くなると、母は蹴っ飛ばしてひっくり返し、鬼の形相で正面からハンガーを晃誠の頭や顔に叩きつけてくる。庇った腕の皮膚が裂けた。


「なんでよ! なんでこんなことした! 言え! 本当に何考えてんの!」


 母は甲高い声で叫びながらハンガーで晃誠をひっぱたき、蹴飛ばしてはまた叩く。晃誠は部屋の隅へと転がされていった。


「ああいやだもう! こんなの、こんなの、どうしてくれんの!」


 やがてハンガーを放り出すと放心したように座り込み、すすり泣きを始めた。


「何よ……本当に何なの、この子……もう異常だわ……理解できない」




 その日、帰ってきた父は家の惨状を見て仰天し、珍しく母を責めた。

 遅くまで言い争いをしていたようだったが、晃誠はベッドで傷の痛みと熱にうなされてそれどころではなかった。


 以来、晃誠は母親の顔を窺うのを、何かを期待するのをやめた。


 父に奨められて、柔道を始めたのはそれからしばらくしてのことだ。

 野蛮で男臭くなりそうね――。母はあまりいい顔をしなかったが、もう息子をいいようにコントロールすることはあちらも諦めたらしかった。


 全ての責を母に負わせるべきではないのかもしれない。父は家のことに無関心過ぎたし、母も致命的に専業主婦には向いておらず、ストレスをため込んで歪んだ育児に走ったのかもしれない。

 また、よく言われるように、本人も家庭環境に何か問題を抱えて育ってきたのかもしれない。

 戦後の核家族や専業主婦の増加と、母性神話の押しつけなど、今の晃誠には母を擁護する知識には事欠かない。


 夫どころか息子とも距離ができたこの家で、離婚までの間、母はどのような気持ちで過ごしていたのか。そんな風に考えることもある。

 だが、取り返しのつかないものというのはあるのだ。


 晃誠は自分の中のマザーコンプレックスを自覚している。

 ――未だに母を憎み続けているという点において。


 皮肉なものだ。元凶の一人のはずの、何もしてくれなかった父には、何もしてこなかっただけに大した思い入れもなければ憎しみと言えるほどの感情もまたないのだから。




 ―――――――――――――――




 üeberhaupt ist aber festzuhalten, dass der wirkliche, echte Hass nur drei Quellen hat: Schmerz, Eifersucht oder Liebe.

 —— Hans Gross, Criminalpsychologie


 そもそも、真の憎しみにはわずか三つの源しかない。それは痛み、嫉妬、そして愛である。

 (ハンス・グロース 『犯罪心理学』)

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A Romantic Irony:女の子××ってそうだったので、生き方を改めることにした。 すけ @suke1108

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