第二十話 SOS

 真白の住むマンションは、四階建てで一階にコンビニエンスストアが入っているつくりだった。一階部分は他に駐輪場やゴミ置き場など共用の施設やスペースがあてられているようで、二階から上が居住スペースらしい。

 ベージュ系のレンガタイルの優しげな色合いのマンションだ。


「そうだ、忘れるところだった」


 晃誠は手に提げていた紙袋ごと、ギフトの包みを差し出す。


「すまん、借りてたハンカチが傷んで駄目になってた。弁償のハンカチと、お詫びと礼の品ってことで。あ、もちろん駄目になった方も返した方がいいなら持ってくる」


 そう言うと、真白は目を大きく見開いてかぶりを振る。


「そんな、元はと言えば私のせいですから……」

「あのハンカチちゃんとしたブランドものだったっぽいし、さすがに弁償はさせてもらわないと気が済まねえよ」


 そう言って半ば無理やりに押しつける。


「それにこのナリだからな。上級生との衝突は遅かれ早かれってやつだったろうし、あんま気にすんなよ。むしろ女子をかばった結果って周囲に思われたんならその分だけ得してる」


 笑ってみせると、真白も遠慮がちに、少しだけ口角をあげた。


「じゃあ、用事も済んだし俺はここで……」


(せっかくだからちょっとコンビニにでも寄ってくかな)


 マンションに入っているコンビニは晃誠のアルバイト先と同じチェーンだった。


「すぐ足元にコンビニがあるのはなかなか便利なマンションだな」


 視線を巡らせると、ふっとマンションの端、コンクリートの外階段の下に小さな人影が見えた。

 年齢はぎりぎり就学前――五歳くらいだろうか、幼い女の子が階段に腰を掛けて菓子パンを頬張っている。

 スマートウォッチを確認するともう七時になろうかという時間。西の空はまだ赤く灼けているが、いつのまにやらあたりはだいぶ薄暗くなりつつある。

 薄暮の紺色の帳の中、コンビニの明かりが落とす影に隠れるように、その少女はいた。


「んー。あんな小さな子がこんな時間にふらふらする原因になってるなら、便利なばっかりでもねえか。ここんちの子かな」


 晃誠の何気ない言葉に、真白も外階段を確認する。


「あの子、うちの隣の部屋の子です。最近引っ越してきたふじさんのところの……確か、美鳥みどりちゃんっていう」


 晃誠が少女の元へと歩き出すと、少し逡巡する様子を見せてから真白も追ってきた。


「なあ、そろそろ家に帰らないと駄目だぞ」


 目の前で片膝をついて話しかけると、少女は顔を上げて晃誠の目を見て、年齢にそぐわない曖昧な笑みを浮かべた。

 晃誠がなお諭そうとしたところで、上から鋭い言葉が降ってくる。


「美鳥っ!」


 見上げると、階段の踊り場に小学校低学年程度の少年が立っていた。少年は晃誠を一瞬警戒するように睨みつけると、振り返った少女の顔を見て顎をしゃくる。


「おにいちゃん!」


 少女は立ち上がって階段を駆け上り、少年と共に折り返しの向こうに消えた。


「兄妹なんです……お兄ちゃんの方は斗虎ととらくん」

「ちょっと変わった名前だな――いつもこんな時間にぶらついてるのか?」

「さあ……藤さんが越してきて一ヶ月くらいなのでそこまではあまり。すみません」

「いや、謝るようなことじゃねえけど」


(ちょっと服が傷んでたな)


 少女の着ていたピンクのTシャツは、袖や襟ぐりが若干よれて、洗濯こそしてあるようだがくすんだ染みが転々と散っていた。


(まあ、子供服なんてすぐ傷むし、遊んでも飲み食いしても汚すもんだろうし。古いのを部屋着に回してるなんてことも珍しくもないか)


「ただ、母子家庭らしくて。お母さんが帰ってくるのが遅かったり、いないことも多いみたいだってお祖母ちゃんが……そこのコンビニにも兄妹でよく出入りしてるそうです」

「そっか」


 母子家庭と聞いて思い浮かんだのは睦美と睦希だった。

 少年の、こちらを過度に警戒するような態度が気になったが、自分が気にかけるようなことではないかと軽く頭をふる。


「じゃあ、俺はちょっとコンビニにでも寄ってから帰るわ。週明けからまたよろしくな」

「あ、はい」


 じゃあな、と手を振ってコンビニに向かう。

 真白は晃誠がコンビニのドアを潜るまで控えめに手を振っていた。



 ◇◆◇◆◇◆◇



 四階建てとはいえ、高齢者も多い地方のマンションということで小型ながらもエレベーターはついているが、真白は普段から階段を使っている。


 二階の一番奥にある部屋へと向かう途中、さきほどのこともあり、なんとなく隣の部屋の表札をちらりと確認する。

 『藤』というカードの挿された表札プレートの下に、『美猫みねこ』『斗虎』『美鳥』という母子の名前を記したボードがマグネットフックでぶら下げられていた。


 母親――美猫とは廊下で顔を合わせたことはあるが、少し神経質そうな印象で、疲れているのか顔色も悪かったように思えた記憶がある。

 自分の母のことを思い出し、胸が少しきゅっと締め付けられるような気がした。


 残る廊下を足早に抜けて帰宅すると、祖父母に帰宅の挨拶をする。

 前もって連絡はしていたものの、帰りが遅めだったことに祖父はあまりいい顔をしなかった。

 風呂に入ってテーブルの上に用意されていた夕食を食べ終え、自室に戻る。


(さっきはびっくりした……)


 晃誠がまっすぐ美鳥に話しかけにいった時は意外だった。

 一年間、晃誠を遠くから眺めることがたびたびあったが、ああいう気安いタイプには見えなかったからだ。とはいえ、二年になってから少し丸くなった印象もあるのは確かだが。

 おかげでずっと気になっていた謝罪とお礼も――。

 ふと、脇に置いた紙袋を思い出す。


(あっ。これのお礼、言ってない)


 ごめんなさい、すみませんを言うのは得意――というか発作的に出る――だが、ありがとうございますがなかなか出て来ないのが自分のどうしようもないところだと自覚している。


(来週、またお礼を言っておかなきゃ)


 若干の自己嫌悪を感じながらもらった包みを開けると、真白も見たことのあるロゴの入った薄桃色のタオルハンカチと、小物入れに使えそうなキャンディ缶が入っていた。ぬいぐるみのような童話風のクマの絵に、また母との記憶を刺激されて胸がうずく。指先で軽く缶を撫でて気を落ち着かせる。


 きれいに剥がした包装紙とリボンは折り畳んで机の引き出しにしまい、中身はとりあえず机の上に置いておく。


 その時、どこかで何かが割れる音が聞こえたような気がして、真白ははっと耳を澄ませた。



 ◇◆◇◆◇◆◇



「お母さんがせっかく用意したのに食べられないならいいよ、捨てちゃうから。その代わりもうお母さんご飯用意しないからね!」


 そう言って、美猫はほとんど手をつけられていない料理の載った皿を、苛立ち紛れに流し台に放り投げた。音を立てて割れた皿の破片と料理がシンクの中に飛び散る。


 美鳥はその音に大きく身を震わせた。


「お母さんが帰ってくるの待たないでパンなんか食べて! どうしてそういうことするの!」


 竦む妹をかばうように斗虎が前に出て弁解する。


「だって、お母さんいつ帰ってくるかわからなかったから……」

「だってじゃないでしょ、なんですぐにごめんなさいって言えないの!」

「だって……」

「だってじゃないっ!」


 美猫は怒鳴りながらばんばんとテーブルを叩き、斗虎の言葉を遮った。


「……ごめんなさい」

「ほんとにわかってんの、あんたは!」


 拳は握らず、手のひらで息子の頭を仰け反るほど強く小突く。


「お金渡すと余計なものまで買って食べちゃうから、もうお金渡さないよ」

「あしたのご飯は……」


 怒っている最中に明日の食事の心配をしている息子の意地汚さにまたカッとなる。ぐっと奥歯を噛みしめて唸り、再び手のひらで斗虎の頭を強くひっぱたく。斗虎は大きくよろめいたが、たたらを踏んで耐えた。神妙な顔で上目遣いに目を合わせてくるのが気に食わなくて、もう二度、三度と頭を叩く。


「明日はまた・・ご飯抜き! こんなもったいないことしたんだから当然でしょ!」


 美猫は流し台に向かい、自分が割った皿を片付け始める。


「こっち片付けておくから、さっさと美鳥をお風呂に入れてやってちょうだい」

「うん」


 斗虎は美鳥の手をひいてバスルームへと向かった。


(私は悪くない、私を怒らせたあの子達の方が悪い)


 リビングダイニングに一人残った美猫は、急に訪れた後悔と自己嫌悪をそう塗りつぶす。


(あのクソDV男と別れてようやくスッキリすると思ったのに)


 以前は元夫との喧嘩で発散していたイライラを持て余してしまっている。最近は子供達、特に斗虎に対して手を上げる事が増えた自覚がある。

 元夫は現在無職であり、甲斐性のない性格からしても養育費がまともに支払われる可能性はほとんどない。自分がしっかりしなければならないのに。


 (大丈夫、手加減した。あれは躾、あれは躾の範囲だ)


 言うことを聞いてじっと大人しくしていてくれればこんな思いをしなくて済むのに。何故子供達は、斗虎は勝手な真似をするのか。


 美猫は親指の爪を噛んだ。



 ◇◆◇◆◇◆◇



 明けて日曜日の昼過ぎ、真白は冷たい炭酸飲料を求めて階下のコンビニに向かった。

 そこで斗虎の姿を見つけて固まる。


 昨夜、さすがに内容まではわからなかったが、おそらく藤家で何かが割れる音と女性が怒鳴るヒステリックな声を確かに聞いた。

 盗み聞きをしたような罪悪感と、子供達に昨夜何が起こったのかという緊張感に呼吸が苦しくなる。


 固まったまま目を離せずに斗虎を見ていると、少年は売り場の惣菜パンをTシャツのお腹にたくし込んで隠し、足早に店を出て行った。


 目の前で起きたショッキングな出来事にパニックになりそうな自分を叱咤して、真白は気付かれないように斗虎の後を追う。

 斗虎は階段を二階に駆け上がり、そのまま自分の部屋へと入っていった。


 真白は閉じた藤家のドアの前でどうしたものかと右往左往する。意を決してとスマートフォンを取り出し、コミュニケーションアプリを起動した。

 登録数はさして多くない。文芸部のグループを見てしばらく頼る相手に迷い、結局、先日参加したばかりの男子生徒に個人メッセージを送信する。あの兄妹にほんの少しとはいえ関わりがあるのは彼だけだったから。


『ごめんなさい、相談があります。助けてください』


 その場にいても仕方がないので真白も部屋に戻る。

 返事が来るまでは何分もかからなかった。


>古峰晃誠

『わかった』


 真白はスマートフォンを両手で包むように、ぎゅっと握りしめた。

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