第35話 話し合う
螺旋階段を七周ほど降りると、何もない空間につながっていた。何もないと言っても柱はある。いくつもの飾り気のない柱に支えられた広く冷たく湿った雨の臭いがする地下空間。蝋燭やランタン、その他明かりが見当たらないにも関わらず薄雲を通した月明かりに照らされているようにぼんやりと明るい。まったく静かな場所だった。
二歩その空間に踏み出すと僕は恐怖の空気に包まれた。心拍数の増加、冷や汗、呼吸がわずかに浅くなった。これはつい先日エリッシュに頼んで体験した魔法に曝露したときの生理現象だ。
「ほう!立っていられるとは」
一人分の拍手が響き奥で子供の声がした。声色からして女の子か。
ライフルを右手に持ち替え、左手の魔法望遠鏡を覗くと正面十メートルほどの位置に椅子に足を組んで腰かけた少女が見えた。
「無粋なもので我を覗くな」
少女がそう言って僕を指さすと魔法望遠鏡はレンズが割れて使い物にならなくなった。
「拝謁したくば歩みたまえよ」
十数秒の間、黙って様子を見ると、
「場所が分からないのか?」
少女はそう言って、奥からレッドカーペットのロールが転がってきた。ロールは僕の前でちょうどなくなった。
「道を作ってやったぞ?」
僕はカーペットを歩き少女に会いに行くことにした。
彼女はおそらく腕に覚えのある魔法使いなのだろう。僕がどう出ても制圧する自信がある。
これは好都合だ。話ができるかは分からない、目的も不明だが、僕らに怯えて遭遇戦になるよりもずっといい。力で決着しているのなら、少なくとも言葉を交わすことはできるはずだ。
距離が詰まると、まず僕の頭上に青白く小さな光の球が現れ、続いて少女の上にも現れ、それぞれを照らし出した。
紺地に金刺繍のローブ、差異はあれど屋敷にいた老エルフと同じ。赤毛の長髪と輝く緋色の瞳。実に美しい。
「ドラゴンを追い払ったと聞いたときはどれほどかと思ったのに、昨日の戦い。与えて貰った力を振り回しただけだったとはな。楽しかったか?」
「あぁ、楽しかった」
「そ、そうか」
僕の返答が予想とは違ったのか少女は一言呟いて黙り、決まりが悪そうに座りなおした。
それから少女は一つ咳払いして僕としばらく目を合わせた。次に指揮者がオーケストラに指示するように手を振ると彼女の前に二人用の円いテーブルが現れた。
少女の手には指先が異様に長く尖った手袋がはめられていた。これは魔法使いが自分は何事にも手を使う必要がないほどに習熟していると主張するための古い習わしだとエリッシュは言っていた。
「さぁ、椅子だぞ?座りたまえ」
僕がテーブルに近づくと彼女は
ポンチョを脱ぎライフルと一緒に椅子に掛ける。それから椅子の位置を調整して腰を下ろした。
テーブルの上では宙に浮いたポットからアフタヌーンティーがカップに注がれている。少女はその様子を自慢げに眺めていた。もはや指示のために手を振る必要もないようだ。
「話し合いをしよう」
ティーポットが降りると少女は言った。
意外だ。こうも早くその言葉を聞けるとは思わなかった。
「そうだな、話し合いをしよう」
僕はそう返してヘルメットを脱ぎ、指輪と手袋をその中に入れて膝に置いた。
思いのほか見かけ通りではないのかもしれない。
「よし、では我が貴様らを飼ってやる。それでよいな?」
ダメだった。
「それは話し合いじゃない」
早とちりだったようだ。
ライオンに翼がないように、人も必要のないものは基本的に持っていない。物理的に強力であれば知性はそれほど必要ないということだ。
それともまだ子供だから手に入れていないのだろうか。いずれにせよ、下手に賢いよりはこちらに有利となるはずだ。
「何が不満なのだ?美しい提案だろう?」
だが限度はある。
「僕がどうして不満なのか、本当に分からないのか?」
「まったくわからない。説明してもよいぞ?」
残念ながら彼女に僕をバカにしている様子はなかった。
「ハハハッ、クソ!冗談だろ?僕は本気で、怒ってるんだよ?」
「何がおかしい?これほど道理にかなった提案はないぞ」
少女は至極真面目な顔で僕を訝しみ、宙に浮かせたチョコレートを一粒口に入れた。
「分かった、わかった。それなら僕にも分かるように君の理屈を説明してくれるか?」
「ふむ、いいだろう。貴様は賢いと聞いたから、期待したのに、まさか弱いだけでなくバカとはな」
「でもその前に。訊いておきたいことがある」
「なんだ?」
「エリッシュ・メーツトリはどこだ?」
「吸血鬼の小娘か?心配しなくても殺してなどおらん。後で会わせてやる」
「わかった」
少女は顎に手を当ててしばらく考えると、机に並んだチョコレートの中からバナナをかたどったものを三粒えらんで僕の皿に移した。
「さぁチョコレートだ。食べてもよいぞ?」
話が進まなくなりそうだったので僕がそのチョコレートを口に入れると少女はとても満足した様子だった。
「おいしいか?」
「あぁ、美味しい」
そう返すと少女は自分もバナナチョコレートを一粒食べた。
「お気に入りだ」
彼女は言った。
チョコレートは挑発ではなかったのか。単に好きな味を分けてくれたのか。何か比喩や象徴を含むのか。タウンゼントは連れてくるべきだった。
「我が守ってやろうというのだ」
少女は目を閉じて微笑み、ハグでも求めるように両手を広げて自信を見せた。
「僕がバカで弱いから、君の庇護下においてくれるって意味だろうか?」
「賢いじゃないか!そうだ。弱くては生きにくいだろう?貴様のように中途半端に力を持つと良くない。すぐに死んでしまう」
その意味を確認すると彼女は肯定した。自身の正当性を疑っている様子はこれっぽっちもなかった。
「結構だ。間に合ってる」
僕は一先ずの意向を伝えてどう話すか考えることにした。
「より良い飼い主に移るだけだ」
「ペットじゃないんだ。誰かに飼われてるわけじゃない」
少女の目標はどうやら僕らを隷下に置くことらしい。目的は不明だが交渉はできるかもしれない。
「トルピードに飼われているのではないのか?」
「かなり違う。契約だ。信頼関係の一種。力を貸しあってるだけだ」
実態はどうあれ僕は首輪をつけられた覚えはない。 関係にはそのことが重要だ。
「貴様はトルピードに意見するには弱すぎる。あの裏切り者をどうすることもできない。たまたま意見が一致しているだけだと思うが、ペットと何が違うのだ?」
「そうとも言える。でも今は重要じゃない」
彼女は力による上下関係を絶対視しているようだ。ただそうなると、僕らを従えたい理由が分からない。すでに決まっていることを確かめるためにこんなことをする必要はないだろう。
つまり、彼女でもエリッシュを隷下とするためには僕らの関係が必要だということか。
「そうだろう?それに比べて我は賢い。我は貴様にあのバカより良い選択肢をたくさん用意してやれる」
全く見当違いだが彼女にも譲歩するつもりはあるようだ。
「アメリカ人は自由が好きなんだ。それじゃ満足できない」
僕はチョコレートを一粒食べてから、もう少しまともな案はないか期待してみた。
「自由など良いものではないぞ?よした方がいい」
「どうして?」
「自由にしたら、その結果は受け入れなくてはダメなのだ。でもバカに自由にさせて失敗したら自己責任など可哀そうではないか。弱者に自由は残酷すぎる」
「一理ある」
彼女の反論は思いのほかまっとうなものだった。行き過ぎているが啓蒙専制主義と言えるだろう。
魔法という物理的に物事へ干渉できる力をもって生まれ、それが他者を凌駕する圧倒的なものだと教えられて育ったならこの結論も納得できる。
「だから世界には権利があるのだ。我が与えて責任をもつのだ」
「人が権利をもって生まれてくることはない。権利は必ず誰かから与えられたものだ。無制限の自由が手に余ることも否定はしない」
「分かるではないか」
「遊園地は楽しい。決まった遊具があって、みんなそれで遊ぶから話も合うだろう。観覧車に乗れば綺麗な水平線が見えるよ、次はあのローラーコースターに乗ろう、ってね。悪くはないよ」
「なら――」
「でも僕は最高のオモチャを持ってるんだ。広い芝生の丘がある総統の庭で遊びたい」
彼女はバカではなさそうだったので、僕はまずその理屈を十分に理解したと示し、そのうえで選ばないと伝えた。
「ム、温かい街で明るい暮らしができるのは我の力があってこそなのだ。その庭もそこにある」
「それについては感謝する」
「うむ、ではどう答えればよいか分かるな?」
「もちろんだ、僕はエリッシュを連れて橋の向こうに帰る」
「どうしてそうなるのだ?」
少女は口に運びかけたチョコレートを皿に落として不満と驚きをあらわにした。
驚きがあるのなら理由を知りたいだろう。
「信用の問題だ。僕は今の君との関係には期待できない」
「人間なら貰える利益で考えたらどうだ?」
「君は化け物、だから人の気持ちが分からない。魔術を解いたら馬の耳とか、狼の尻尾でもあるんじゃないか?隠さずに見せて見なよ」
「なんだと?」
「人間だから感情で考えるんだ。僕は電子計算機そのものになるつもりはない。そう決めたんだ」
「愚かすぎる。そもそもトルピードと会ったのもたった何日か前ではないか」
「信頼関係には段階があって、僕は期待してるんだ。まぁあんまり人と話したことなさそうだし、魔術ばっかりの君にはわからないかもしれないけど」
「気に入らん!だが説明してもよいぞ?」
「それを話したらエリッシュに会わせてくれるか?」
「考えてやる」
「確約が欲しいな」
「我を納得させたら会わせてやる」
悪くない。期待通りの反応だ。
「段階は三つ、信頼、期待、信用だ。まずはその人を信じてみると決めること、そう決めなきゃ何も始まらない。だから第一印象が大切なんだ。友達を人質にして呼び着ける。これはそれを著しく損ねる」
「それは横着への警告――」
「次に期待だ。これは待つってこと。初対面ならお互い気に入らないところもあるだろう。君を見るとさっきの二つの発言は嫌なことみたいだね。君が僕に期待するというのは、それを知った僕がいずれはそういうことを言わなくなると待つことなんだ」
「だからこ――」
「そして、互いにこの二つを積み重ねた結果が信用だ。お互いだ。君は僕の友達を人質にして、魔法の力でルールを僕に押し付けた。これは僕にお前を信じないし期待しないって言ってるのと同じ、関係が成立しないことくらい分かるだろ?」
「……」
少女はただ皿を見つめ、
「貴様も我とは友達になれないのだな……」
とても寂しそうに呟いた。
何の比喩か。少し追い詰めすぎたのだろうか。
「簡単じゃないだろうね。でも僕は君に何も期待していない訳じゃない。だからこうして話しをしてるんだ」
交渉では相手の逃げ道を断つべきじゃない。ここは一先ず話を続ける意思を示しておこう。
「まるで自分で選んでいるような言い方だな。違うぞ?我が機会を与えたのだ」
だが少し遅かったようだ。
少女は人差し指を立てるとカトラリーの籠からナイフを一つ、自分の皿の上に浮かせ、
「ちょうどいい。貴様の力で我に約束を守らせてみたまえ。できるものならな」
刃先を僕に向けた。
「……僕は話したよ。次は君が約束を守る番だ」
僕は少女の瞳を覗きこんで、
「……最後の警告だ」
二度警告した。
「やってみろ」
少女は目を細めて微笑んだ。
僕はチョコレートが乗った皿を前に除け、脇のホルスターから拳銃を机に移した。
「まさかそんなもので我を支配できると思っていたのか?銃を持つと人間はみんな同じことを言う、次は手を上げろとでも言うんだろ?」
「……」
「図星か?」
ボタンを押して弾倉を半分出し重さを確かめる。それからセーフティを下げた。
「ピストルで支配できるのは前方の人間の数分間だ。だが言葉なら人の一生を支配できる。絵本に書いてあった」
「それで?」
「でも、十分だろ?」
スライドを引いて、止まったスライドはレバーを下げて戻す。金属部品同士がぶつかる独特で甲高い音が鳴ると少女は明らかにびくついた。
「き、貴様にできるのか?銃が効かなかったらもう交渉できないぞ?貴様の生殺与奪の権利は我が持っているのだぞ?なんの権利があって――」
「権利じゃない。これが自由だ」
親指で確認すると撃鉄は確かに起きていた。
ナイフの反射が彼女の動揺を伝えた。
「我は貴様を殺せるのだぞ!」
「その言葉に別の意味を付け加えないでくれるか?」
テーブルにグリップの下を付けたまま向きを変えて銃口を少女に向ける。
例え撃てないと理解していても、身体はこの行為が意味することを忘れはしない。
「僕が本来の意味で使うときに困るだろう」
「あ」
銃を目線まで持ち上げて照門、照星、彼女の右目を一直線に並べて目を合わせると言いようのない嫌悪感があった。
今の僕は選べる。それでも引き金に指を置けば撃ってしまうんじゃないかと自分の身体を信じられなくなりそうだった。
「撃たない、のか?」
僕が目を閉じると少女は言った。
必要なことはだいたい分かった。
「僕はもう少しだけ待ってもいい」
僕は手首を折って銃口を下げ、銃を持ち直して彼女に差し出した。
ナイフは皿に落ちた。
「アハッ!アハハハハッ!面白いな!ゾッとした!久しぶりだ。貴様がバカだと言ったことはナシにする」
「それはどうも」
少女は銃を取らなかった。
一つ目の作戦は失敗だ。
「だが貴様は弱い。貴様が我より強かったらよかったのに」
「強かったか、弱かったか、それは君が決めることじゃない」
「しつこいな……まぁいい。面白かったから一つ権利を与えてやるぞ」
「何かな、楽しみだ」
「会わせてやる」
「いいね」
少女が手を大きく振ると彼女の姿が一瞬輝き煙が広がるように光の粒を散らした。
目を戻すと、少女がいた椅子にエリッシュが座っていた。
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