第5話
コンテストはマルコの圧勝だった。マルコは、Petti di pollo imbottiti(チキンの胸肉にスピナッチをベシャメルソースで合えたものを挟み込み、軽くパン粉をふってソテーしたもの)に、新鮮なパセリを添え、チェリーズソースをつけた。一切れ、さくりと口に入れただけで、誰の目も驚きのあまり丸くなった。口をそろえて極上のソースだと褒め称えた。ある人は昔懐かしい味だと言った。ある人は新しい境地を切り開いたと言った。ある人は夢で食べたソースの味に似ていると、また別の人は、長年、捜し求めていた味にとうとうめぐりあったと言った。チェリーズソースは、人々の心の琴線に触れて、少しずつ違った音色を引き出す撥のようなものかもしれなかった。魂の奥底を覗き込まれたような気がする、とある人は言った。いや、魂そのものを盗まれたような気がする、と別の人が言った。
アルマンディは自分も一口、チェリーズソースを味わってから、完敗を認めた。一言、このソースの伝統的なイタリア料理としての正当性について、疑いの言葉をさしはさむことは忘れなかったが。
「セレスティーナ」はよみがえった。新しい客を連れて、昔からの客が戻ってきた。調理場にもフロアにも活気が戻り、快活な笑い声がひびいた。
「チェリーズソースの人気の秘密はどこにあると思われますか」
アシュリーはシェフに訊ねた。マルコは自信たっぷりの笑顔で答えた。
「それは、職業上の秘密です。ただ、これだけは言えます。チェリーズソースには何十種類という材料が溶け込んでいますが、最後に加える一つが、絶対に必要不可欠なんです。それが、チェリーズソースの全てと言っていいほど、大事な素材なんですよ」
「それは?」
マルコは大きな瞳で、アシュリーの目の奥をのぞきこんだ。
「愛ですよ。チェリーズソースの秘密は、愛なんです」
ハンク・プリチャードは、お釣りを持ってきたチェリーをつかまえた。隅のテーブルにいるマルコとアシュリーの方に顎をしゃくる。「取材かね?」
「ええ。『ヴォイス』の。ロータリークラブのニューイヤー・パーティ、うちがケイタリングすることになったものですから」チェリーの声には得意そうな響きがあった。
「ふむ。結構なことだ。マルコは張り切っとるようだな」ハンクはマルコの紅潮した顔を見ながら言った。
「ええ。マルコだけじゃなく、コックもウエイターもみんな」
「で、あんたは大丈夫なのかね?」
照明を落とした店内でも、チェリーの顔が紙のように白く、血の気が無いのは、はっきりわかる。「どこか悪いんじゃないか」
チェリーは固くこわばった笑顔を見せた。
「ちょっと疲れ気味なだけですよ。コンテストの後、ずっと忙しかったものですから」
「忙しいのは結構だが、少し身体を休めないといかんぞ。尋常の顔色じゃない」
ハンクが帰っていった後、チェリーは鏡を見た。メイクアップでもごまかせないほど、青ざめ、やつれた顔が見返してきた。この頃、チェリーはサリー伯母さんがなぜ、葬式の時にしかペナンスソースを作らなかったか、やっとわかってきた。四六時中、あのソースを作っていたら、ビル伯父はもっとずっと前に墓の下へ入ってしまっていただろう。ティースプーン一杯でも、血を絞り出すのは、命を絞り出すことだ。しかも、作るソースの量が増えれば、必要になる血の量も増えてくる。ソースの人気が高まれば高まるほど、チェリーの顔は苦痛と貧血にやつれていくことになった。
アシュリーは、セレスティーナの一番最近のメニューを見ながら聞いた。
「このメニューには、チェリーズソースが載っていませんね。素晴らしいソースなのに、なぜ、お出しにならないんですか」
「出し惜しみ、ですよ」マルコはずるそうに言った。
「どんなに素晴らしい料理でも、毎日食べると飽きがくるでしょう? なんとも思わなくなる。それじゃ困るんです。チェリーズソースは芸術品。特別な機会に、大切に味わっていただきたいソースなんです。ですから、通常のメニューからははずしました」
「今度のロータリークラブのパーティでは?」
「お出しします。なんと言っても、新しい年の始まりを祝うパーティですし、会長さんからも、特にご希望がありましたから。楽しみにしていてください」
記者を帰すと、マルコは店の裏にまわった。チェリーはオフィスの椅子にすわって、ぐったりと背中を背もたれに預けている。目を閉じたその顔に、以前にはなかった深い皴が刻まれている。肌はつやが無く、かさかさと乾いている。マルコは悲しくなった。チェリーはここ数ヶ月で急に十年も年取ったように老け込んでしまった。
チェリーが目を開いてマルコを見た。
「終わったよ」マルコはチェリーの前のデスクに腰をおろすと、チェリーの手を取った。
「ソースのこと、何か聞かれた?」
「うん」マルコはチェリーの手をもてあそびながら、ためらいがちに言い出した。
「ロータリークラブのニューイヤーパーティ。ソースを出すって、約束したよ」
チェリーは手を引っ込めた。
「ごめんよ」
「いいのよ。出さないわけにはいかないだろうって、思ってた」チェリーは投げやりな調子で言った。
「ねえ、マルコ」
「なんだい?」
「わたし達、サリー伯母さんに対して、フェアじゃなかったわね」
「どういう意味?」
「伯母さんがレシピを焼き捨てたことよ。執念だとか、エゴだとか、散々、悪口言ったじゃないの」
「本当のことじゃないか」
「わたし、今は違う風に思ってる。あれは、サリー伯母さんの良心がさせた行為だったのよ。死の直前になって、サリー伯母さんは正気に戻ったのかもしれない。このレシピを後に遺していくわけにはいかない、そう思って焼き捨てたんじゃないかしら。わざわいの種を断ったつもりだったのよ」
「わざわい?」
「そのレシピをわたし達は復元した。悪夢は続くんだわ」
チェリーは目を閉じた。
ジュリアーノ・アルマンディはどうしても納得がいかなかった。マルコがチェリーズソースをメニューからはずしたという。なぜだ? 一番の人気商品じゃないか。あのソースを目当てに、「セレスティーナ」に通ってくる客は多いはずだ。自分なら、メニューからはずすどころか、瓶詰めにして売り出したいところだ。まともな頭をもった料理人だったら、そうしてる。マルコはそうしなかった。いいや、そうできなかったんだ。やつは色々、言い訳をしてるが、あんなのは言い逃れだ。チェリーズソースを出せないわけがあるんだ。それは何だ? アルマンディはさらに妙な話を聞いた。「セレスティーナ」のキッチンスタッフの間の笑い話で、マルコはチェリーズソースを愛するあまり、絶対に仕上げをスタッフにまかせないというのだ。スタッフはマルコのレシピ通りに、鍋一杯にソースを作ると家へ帰る。それから、マルコは一人で最後の仕上げをする。朝になってスタッフが調理場に戻ってきた時には、チェリーズソースができあがっている。アルマンディの好奇心はいやがおうにもつのった。
十二月三十日の夜、アルマンディはこっそりと、「セレスティーナ」の裏口から調理場に忍び込んだ。明日の夜、ロータリークラブのニューイヤーパーティには、チェリーズソースを出すとマルコは公言した。今夜、やつはソースを作るはずだ。調理場のスタッフはさっき、次々と裏口を出て帰宅していった。店はもう、空っぽのはずだ。マルコと、チェリーと、チェリーズソース以外は。
チェリーズソースはそこにあった。大きな鍋いっぱいに、つやつやしたチョコレート色のソースが作ってある。アルマンディは人差し指を入れてなめてみた。まちがいない。だが……微妙に違う気がする。何か一つ足りない。アルマンディはうなずいた。もちろん、そうだ。これはまだ仕上げ前のソースなのだ。これからマルコがやってきて、何かをこのソースに加えるはずだ。それは何だ?
足音が近づいてくる。アルマンディはあわてて巨大な冷蔵庫の陰に隠れた。薄暗かった調理場に明かりがついた。同時に、ブウンという音がして、換気扇が回り始める。マルコとチェリーが入ってきた。マルコは大きなガラスのボウルを持っている。調理台の上に置いた。鍋に指を突っ込んでソースの味見をした。チェリーは調理台のそばの椅子にすわりこんだ。アルマンディは驚いた。コンテスト以来、チェリーを見るのは初めてだが、まるで別人のようだ。青ざめた頬は落ち窪み、細い目だけがぎらぎらと光っている。
二人は一言も口をきかない。厳粛な儀式のように、不気味なパントマイムのように、二人は沈黙のうちに、チェリーズソースの仕上げをしようとしている。
マルコはガラスのボウルに、何かの液体を入れた。アルマンディは鼻をひくつかせた。コニャックだ。さらにボトルから何かを入れる。アルマンディは目をこらした。ワインヴィネガー。マルコが顔を上げた。アルマンディは素早く冷蔵庫の陰に身を引いた。
「裏口のドア、閉まってるかい?」
「さあ……。閉めたと思うけど」チェリーが投げやりな調子で答えた。
「見てきてくれないか。風が入ってくる」
チェリーが大儀そうな身振りで立ち上がった。マルコは鍋を火にかけて、ソースを温めている。やがてチェリーが戻ってきた。
「閉めたわよ」
マルコは鍋を火からおろした。
「じゃあ…」
マルコの声で、チェリーはカーディガンの袖をまくり上げると、細い白い腕をむき出しにした。ゴムバンドで腕を縛ると、太い注射器を取り上げる。慣れた手つきで血管を探り当てると、ぐいと針を突き刺した。アルマンディは赤い液体が、筒をぐんぐん上っていくのを、魅せられたように見つめていた。筒が一杯になると、チェリーは針を引き抜いた。ガーゼで傷口を押さえ、注射器をマルコに渡した。マルコはゆっくりとピストンを押した。針の先から、赤い液体がピュッと出る。ガラスのボウルの中の液体に混じる。マルコはスプーンでボウルの中の液体をかき混ぜた。まさか、とアルマンディは思った。いかに何でもありえない。だが、その通りだった。マルコは鍋からソースをすくい、ボウルの中に入れて混ぜ始めた。アルマンディは気分が悪くなった。嫌悪感を抑えかねて、思わず、うなり声を発した。
「誰?」
マルコがこっちを向いた。アルマンディは冷蔵庫の陰から足を踏み出した。
「それが、チェリーズソースの秘密かい?」吐き気をこらえながら、アルマンディは辛うじて声を出した。チェリーのソース! なんて名前だ。なぜ気づかなかった? だが、誰が思うだろう。誰がこんな事を……。
マルコは何も言わなかった。チェリーもだ。黙りこくったまま、アルマンディを見つめている。チェリーはまだ、ガーゼで左腕を押さえている。そのガーゼが赤く血に染まっているのを見て、アルマンディはまた、胸の奥から嘔吐感がこみあげてくるのを感じた。
「教えてやるよ。ロータリークラブの連中にも、食品衛生局にも。有名なチェリーズソースのレシピを『ヴォイス』で公開してやる。今まで連中が何を喜んで食べていたか。驚くだろうな、みんな。夢にも思わなかったよ、こんな…」
アルマンディは吐き捨てるように言うと、二人に背を向けて、裏口に向かった。
マルコはアルマンディの告発をぼんやりと聞いていた。アルマンディの背中を夢の中でみるように見ていた。何もかも、現実とは思えない。これで終わりだ、僕も、チェリーも、「セレスティーナ」も。明日には町中の人が知るだろう。「セレスティーナ」は営業停止処分を食らって、閉店するだろう。女王のように誇り高い「セレスティーナ」、栄光に包まれていた「セレスティーナ」は、天の高みから地に落ちて、汚濁にまみれるのだ。マルコの胸の底から、獣の吠えるような声が吐き出された。
マルコはアルマンディに飛びかかった。不意を突かれて、アルマンディはコンクリートの床に倒れこんだ。マルコは奇声をあげながら、アルマンディに組み付いた。ありったけの力で首を絞め上げた。だが、アルマンディの身体は、小柄なマルコの倍はある。あえぎながらも、マルコの腕をつかみ、首からもぎ放した。マルコの顔にこぶしをたたきつけ、身体を入れ替えてマルコの胸の上にのしかかり、あべこべに首を絞めた。息ができない。マルコは必死で暴れたが、胸の上の重い身体はびくともしない。マルコの抵抗をせせら笑って見ている。マルコは両手を伸ばして、その顔をひっかこうとした。目玉を抉り出してやる。二度と笑えないように、口を引き裂いてやる。怒りのあまり、マルコの身体は爆発しそうだ。それでも、両手はむなしく宙を掻き、目の前のにやにや笑いは消えない。マルコの目がかすんできた。気が遠くなってきた。と、突然、にやにや笑いが消えた。喉を絞めつける力が、嘘のようにすっと消えた。胸の上にのしかかっていた重い影がゆっくりとかしいで横に倒れた。
マルコは激しく咳き込みながら、上体を起こした。隣に、アルマンディがうつ伏せに寝ている。白いシャツの背中にいくつか裂け目ができていて、そこから赤い液体がどんどんしみ出してくる。もう背中半分は真っ赤だった。
マルコの包丁を握ったチェリーがそばに立っていた。チェリーの手も、顔も、髪にまで赤い汚点がとんでいる。チェリーは包丁の刃を調べた。先が折れている。
「骨か何かにぶつかっちゃったのね。いい包丁だったのに、残念だわ」
マルコは立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「電話。警察を呼ぶよ。やつは無断侵入者だ。レシピの秘密を教えろって、凶暴になったから刺したって言うよ。正当防衛だ」
「スキャンダルはごめんよ。店のために良くないわ」
「どうするって言うんだ」
「エンジェルス・ナショナル・フォレスト。お腹をすかしたコヨーテやアメリカライオンが歓迎してくれる。それに、こんなにたくさんのべろを無駄にするのはもったいないじゃないの」チェリーはしみ出てくる血を指につけてなめた。
「ヴァレンタインデーの予約、もう入ってるの。チェリーズソースがたくさんいるの。ラッキーだったわ。こんなにたくさんのべろが一度に手に入るなんて」
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