伯母さんのレシピ
日野原 爽
第1話
クッキングは芸術だ。
大きな瞳を輝かせて、マルコは主張した。興奮のあまり、頬が赤くなっている。
肉、魚介、野菜、すべて自然の恵みを内に包み隠している。それを引き出し、組み合わせて芸術作品を作り出すのは料理人の腕だ、インスピレーションだ。
アシュリーはうなずいて賛同の意を表した。「セレスティーナ」のオーナーシェフ、マルコ・コバヤシの顔はエル・ローブルの町ではよく知られている。グルメを自認する連中が、ちょっとおしゃれな食事とワインを楽しもうという時に選ぶのが、「セレスティーナ」だった。政治的、文化的な会合にケイタリングの注文を受けるのはしょっちゅうだったし、しばしば、結婚披露宴でレストランは貸切になった。
「クッキングは芸術。あなたもそうお考えですか」
アシュリーはシェフの隣にすわっている女性に顔を向けた。チェリーはマルコの妻で、「セレスティーナ」の共同経営者。「セレスティーナ」がここまで大きくなったのは、マルコの料理もさりながら、チェリーのビジネス手腕によるところが大きいとも言われている。マルコとチェリーはいわば二人三脚で、「セレスティーナ」を町一番と言われるイタリアンレストランに育てあげたのだ。チェリーは日本人。長い黒髪をシニョンにしてまとめている。仏像のような一重まぶたの目は、どこか神秘的な、ある人に言わせれば、神々しい表情を浮かべているが、笑うと糸のように細くなって、思いがけない愛嬌を見せる。チェリーはその細い目を伏目がちにして考えていたが、ぱっと顔をあげるとにこやかに笑った。
「わたしにとっては、クッキングは愛ですね」
「愛?」
「ええ。おいしい料理をお出しして、おもてなしをする。こちらがお客様に愛をさしあげれば、お客様も『セレスティーナ』を愛してくださる。クッキングは愛なんです」
チェリーは隣のマルコとちらりと目を見交わした。一瞬、二人の間の空気に電流が走ったのをアシュリーは見逃さなかった。この二人は結婚して十年以上になるはずだ。それでもまだ、ハネムーンの火が消えずにいる。とろとろと静かに弱火で燃え続けている。アシュリーはひそかに羨望を感じた。アシュリーはチェリーより十歳は若い。だが、こんな視線を恋人と交わしたのはいつだっただろう。
「今度の秋のコンテストですが」アシュリーは話題を変えてシェフに向き直った。
「出品なさいますか?」
エル・ローブルの町では秋になると、ワイナリー協会主催の新酒祭りが開かれた。町のグルメがそろって参加するそのパーティの「ワインの友」コンテストで、去年、番狂わせが起きた。新しく開店した「ヴィンヤード」のオーナーシェフ、アルマンディのInsalata di gamberi alla menta (シュリンプサラダ、フレッシュミント添え)に、マルコのTarta di peasce (フィッシュとシュリンプのタルト)が敗れたのだ。
「もちろん」マルコはきっぱりと言った。
「『ヴィンヤード』はいいレストランだし、アルマンディ氏はすぐれたシェフだ。僕は尊敬しています。でも、コンテストで首位をとるのは、『セレスティーナ』ですよ」
チェリーは再びちらりとマルコの方に視線を投げた。細い目に警戒の色がある。
「王座奪回の宣言と受け取ってよろしいのかしら」
「はい」
チェリーはテーブルの下で、マルコの脚を蹴った。
「自信がおあり?」
「無ければこんなことは言いません。皆さんをあっと言わせるような料理をお目にかけますよ」
「それはそれは……。楽しみです」
アシュリーは満足そうに言った。
「どういうつもり?」
タウン誌の記者が帰った後、チェリーはマルコにかみついた。
「何がだよ」
「コンテストのことよ。王座奪回宣言なんて。『ヴォイス』は大見出しで載せるわよ」
「いいじゃないか。そのつもりで言ったんだ」マルコはにやにやしながら言った。
「今度の首位は『セレスティーナ』のものだ。それとも君も、僕がまた負けると、そう思ってるのか?」
マルコは笑いをひっこめて、じっとチェリーを見た。チェリーは言葉に詰まった。正直言って、その可能性もあると思っていた。マルコはいいシェフだが、アルマンディもそうだ。マルコが去年負けたのは、マルコの料理がアルマンディに劣っていたからではない、とチェリーは思っていた。単に、人が新しいものを求めたのだ。マルコは十年にわたって首位を独占した。そろそろ、新旧交代の時期だと人が思っただけだ。人の心は移ろいやすい。そんな風に人気取りにあくせくするのは馬鹿げている。マルコと『セレスティーナ』の料理を愛しているお客はちゃんといるのだ。彼らのために、おいしい料理を出し続ける方がずっと大事だと、チェリーはマルコに言ったのだが、マルコはきかなかった。
「どうなんだよ。僕が負けると思うのか?」
「もちろん、そんな事、思ってない」本心は言えない。
「じゃあ、僕が勝利宣言して何が悪いんだよ」
「あんまり子供っぽいからよ。戦争じゃないのよ。たかが料理で…」チェリーは失言したことにすぐ気づいた。
「たかが、だって?」マルコの顔が赤くなった。
「悪かったわ、取り消す」
「たかが料理! 僕はそのたかが料理に命かけてるんだ。僕の一生の仕事なんだ。たかが料理!」
「悪かったって言ってるじゃないの」
「君がそんなこと言うなんて、信じられないよ」マルコは顔をそむけた。
チェリーは腹のなかで、マルコをののしった。このスーパーセンシティブなエゴ。それをわかっていながら、口をすべらせた自分にも、腹をたてていた。二人はしばらく黙っていた。
「それで? 何を出すの?」チェリーが先に口を開いた。さもないと、マルコは意地になって、いつまででも黙りこくっているだろう。
「考えはある」マルコはまだすねた顔で、ぶすっと答えた。
「何?」
「サリー伯母さんのレシピを使う」
「何ですって?」
「サリー伯母さんのソースだよ」
チェリーは誰かが死んだ知らせを聞いたような気がした。
「何か新しいものが、全く新しいものが必要なんだよ」マルコは弁解するように言った。
「君も言ったじゃないか。腕で負けたわけじゃない、客が目新しいものにとびついただけだって」
だからと言って…。
「わたしは反対よ」
「なぜ?」
「不吉だからよ。あれが極上のソースだってことは認めるわよ。魂を奪われるような、不思議な味がした。だけどね、サリー伯母さんがあのソースを出したのは、葬式の時だけよ。おとむらいのソースなのよ。ペナンス・ソース。贖罪のソース。そう呼んでたのよ。あなただって知ってるじゃないの」
「伯母さんが何て呼んでたなんて、問題じゃない。ソースはソースだ。僕らでもっと良い名前をつけてやればいい。あのソースは絶品だった。肉にも魚にも野菜にも合った。それぞれの食材の風味を上手に引き出して、見事に調和させた。まるで、一流の指揮者が、最高のオーケストラを指揮して、完璧な和音を響かせるみたいだった。あのソースがあれば、『セレスティーナ』の王座は固い。僕はアルマンディの畜生に勝てる」
チェリーは冷たい目で、マルコを見た。
「結局、そこね。つまらない勝ち負けの問題なのね」
「ちがう! 『セレスティーナ』の名誉がかかってるんだ」
「ご勝手にどうぞ。わたしは手伝いませんからね。お山の大将のエゴに付き合うのはまっぴらよ」
「ああ、勝手にするよ」売り言葉に買い言葉だった。
「見てろよ。アルマンディにも審査員の阿呆どもにも、ほえ面かかせてやる」
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