露落ちて

入江 涼子

第一話

 あたしが太秦の別邸に来て、早三月が過ぎていた。


 今、神無月に入って、大分秋も真っ盛りである。庭に植えてある紅葉も錦のごとくに目を見張るほど。

 別邸の主の父様自身が指図をして庭を手入れさせているから、とても見事な色づき様なのだ。その別邸の一室をあたしの部屋として使っている。

 御簾を全部上げさせて、そのまばゆいばかりの景色を眺めていた。脇息に寄りかかって、しみじみと季節の過ぎゆく時とはこんなのを言うのかと珍しく感慨に浸っていたのだった。ちょうど、昼間と夕方の中間辺りだから、日の光も何となく柔らかい。

 しかも、涼しいから、いつまでも落葉の枯れて落ちる様子や尾花といわれるすすきの穂の黄金色なのも風情があっていいものだ。

 こういう時ってやっぱり、和歌の一つや二つ詠みたくなってくる。何ていうのかな、色恋事とか心のときめきなんか馬鹿らしいけど。

 季節とか感動できるものだったら、抵抗なく受け入れられるんだよね。なのに、父様たちは色恋事の方ばかり勧めるのがこっちとしては随分と迷惑しちゃうのよ。

 弟は真面目一方なので、あんまり言ってこないだけありがたいと思わなくてはね。

 女御様は恋なんかの男女のことではどちらかというと無縁な方。同じ女としてもし、意見を聞くとするならば、鈴鹿や侍従などの女房が意外と違う意見を出したりしてくれるのだ。鈴鹿の場合、同年代の小夜と違い、恋の経験もそれなりにあるようだし、他の恋愛話や噂を耳に入れて世間の常識も備えている。うぶな生娘とはひと味もふた味も違う。侍従も宮中へ出仕しているなだけあって、危ない恋の宝庫とも裏では言われている内裏での情報を普段から見聞きはしているはずだ。

 殿上人からほのかにそんなことを匂わせた歌なんかも来た事があるだろう。本来は独身を通したいのが本音だけど、男であればそれもできるでしょうよ。

 でも、悲しきものは女の身かな。

 自由に動きたくてもそれさえできやしない。ああ、いろんな事考えてたら、腹が立ってきた。それに頭が破裂しそうよ。よくも、このあたしにあんな仕打ちをしてくれたもんだ。宰相中将、あいつだけは二度と会いたくもない。

 もし、今度あのときと同じ振る舞いを仕掛けてきたら、手にかみついてでも逃げてやる。あの時は弟に頼ってしまったけど、絶対に仕返しをしてやりたいわ。

 あいつにだけはあたしは負けたくない。と、怒りがこみ上げてきて座ってたのがくらくらと目眩がして脇息に寄りかかった。

 同時に人の気配がして、鈴鹿が威儀を正して簀子に控えていた。

「姫様に申し上げます。これより、京の都からご使者が参られました。お里退がりをなさった藤壷様のお側仕えの女房、高倉侍従殿です」

「…そう。わかった、こちらへお迎えして」

 息も絶え絶えでかすれた声で答えた。鈴鹿は心配げな表情をして少し、にじり寄ってきた。

「姫様?お顔色は悪くはないのに。もしや、お熱でも…」

「ううん。違うのよ。ただ、昔のこと思い出してたら、腹の立つようなことがね。よみがえってしまって。そしたら、知らず知らず興奮してしまっただけなの」

「…そうでしたか。なら、よろしいですけど。本気で心配してしまいました」

 鈴鹿はふうとため息をついた。あたしも苦笑いした。

 いいわけのつもりで口にしたのだけど。信用した鈴鹿にさすがに悪いとは思った。

「それでは、失礼いたします」

 部屋をしずしずと鈴鹿は退出して行ったのだった。



 高倉侍従があたしのいる居室へ来たのは半刻ほどしてからであった。

「姫様、ご用件から申し上げます。女御様からのお文をお預かりしましたのでお届けにあがりました。本来であれば、差し控えるべきと思ったけれども姫君の様子も気になる故との事です」

 深ヶと手をつく。

 几帳をわずかの隔てにして、扇をあたしは顔にかざしている。

 それでも、つられて形だけ礼をした。

「ご使者殿、京から来られて本当にご苦労かと存じます」

 側に控えていた女房が侍従の手前に置いてある文箱を取りに行こうとしていた時にあたしは背筋を正して言った。言い終えた後、文箱を受け取る。

「はい、お言葉をかけていただき、ありがとうございます。また、お返事をよろしくお願いしたいのです。あちらもお待ちかねでいらっしゃいましょう。では、失礼いたしました。姫様、つつがなきようお過ごしくださいませ」

 大層、たしなみ深く、気品のある態度だ。こちらが自然と緊張して落ち着かない心地になってくる。それくらいに、侍従の物腰や雰囲気は宮仕えの女房そのものだった。

 あたしにまた手をつくと、かしこまった様子でしずしずと退出していく。

 こういう雰囲気には慣れていないので、ただただ呆けて座るぐらいしかできない。ついこの間、女御様とお会いした時は割と打ち解けてくつろいだ感じだった。そんなものを見慣れていたから、よけいに思えたのかもしれない。



 侍従が退出して、側の女房も先導のために出て行った。あたしが一人残っているだけで妙に静けさが辺りに漂う。

 なんだか、女御様からの御文はとても読める気にはなれない。申し訳ないとは思うけど。

 どうしてか、もう無性に動きたくない。

「…はあ、もう一度安和寺の尼君に会いたい。あの庵主様だったら、しみじみとお話するのには格好の方なのに」

 独り言まで呟くのは我ながら暗いなとふと、思った。



 と、次第に鬱々していると鈴鹿や小夜、顔も見たことない女房が一斉に部屋にやってきた。

「姫様。御文を書かれないのですか。侍従殿がお待ちになっているのに」

 図々しいというか、よくもまあ、こんな状況でのらくらしてられるわよ、こっちはそれどころじゃないってのにと声が聞こえてきそうな口調である。

 鈴鹿は大分カリカリしているらしく、主人であるあたしを鼻であしらうがごとく、扱う。

 さっさと文机や筆などを用意した。

「ささ、お書きなさいませ」

「あんたね、あたしが文も書けないくらい気分が優れないのに。いくら、何でもこれはないでしょ?」

「いいえ。御文をお書きにならなくては。女御様は仮にも姫様にわざわざこうやってくださったのに。お返事を差し上げないのは無礼にあたります」

 きりりと眉を上げて厳しく言う。さすがに、少し腹が立ったけど。仕方なく、文机の前に座った。

 小夜が墨をする。

 筆の先を少し湿らせて、一首の歌を書いた。

〈秋終わる際にはあらぬ枯れ野へと

 訪ねる我をたれがとがめむ

 本当に残念に思われてなりません。この世のはかなさは何よりもその人自身がわかるものですから〉

 そういう風にだけ書いておいた。

 女御様ご自身、どうとらえるか気にもせずにだ。



 文箱の中身はごく普通の白の料紙だった。

 開いてみると、女御様のご直筆の御文らしい。目を通すとこう書いてある。

〈香子姫、お元気にしているでしょうか。秋も深まり、さぞかしそちらでも紅葉が美しく色づいている頃かと思います。京ではわたくしの実家でも、今を盛りとばかりに楓や他の木々が美しく色づいていて、目を見張るばかりです。

 このような景色は後宮にいた時より、ゆっくりと見る機会がありますから、香子姫もごらんになれば、どれだけ心が慰められるかと考えていたりする時があります。

 さて、それはそうと床に臥せっておいでになる弟君はもう病は良くなられましたか?

 叔父君、大納言様はそのことで大層嘆いておられて日々、幾末が思いやられて悩んでおられると聞きました。

 後、不吉で文に書くのは、はばかられますけど。

 ちょうど、夏の頃だったでしょうか。

 あなたのお邸、東三条邸が炎上してしまった事がありましたね。

 あなたや大納言様、弟君は命が助かりましたけど。でも、逃げ遅れた女房や下仕えの者たちは巻き込まれて命を失ったとか。

 哀れだし、かわいそうだと思っています。

 わたくしもずっと火事の事で悲しみに明け暮れ、一時はあなたも亡くなられたのではと考えてしまっていました。

 ようやく、今になってあなたに文を書き、近況なりと知っておきたいと思い立ったので筆を取りました。

 それでは〉

 まだ、そんなに精神的に立ち直れていらっしゃらない事が文面から読みとれた。あまり、細々とつづってあるわけでもなく、女御様もそこまで余裕がおありではなかったのだろう。さっき、お歌を送ったけど今頃、どんなことを考えながらご覧になっている事か。

 ちょうど、今は夕暮れ刻で時折、雁の声がする。それさえもの悲しいと昔の人が歌にも詠んでいたのを思い出しつつ、あたしは都の事を考えていた。




 一刻ほどして、とっぷりと日も暮れて夜も更けていく。小夜がまたもや、あたしに一通の文を持ってきた。

 つい、夕方に女御様からもあったので、大分うんざりとなる。

 渋々、内容を確認するために開けた。

 灯火の明かりで浮かび上がる黄色に赤みがかったのは朽葉色らしい。まあ、今の季節には合っているだろうけど。

 結局、なんなんだ、この文は。

 いろいろと書いてあってうっとうしいくらいだわ。心中で呟いたけど一応、読んでみた。

〈いつとかもうらみられけりあだびとの恋しかるらむ秋の夕べよ

 我が宿と頼み分け入る太秦に君はありやと川音聞けず

 あなたは今、どこにおいでになるのでしょう。よくも、あの時はうまくお逃げになりましたね〉

 宛名はどこにも書いていない。

 文面からしてもしかすると。

 よくよく、頭を捻って歌の裏の意味を考えてみた。

 第一句目の方は、(いつともなく恨み続けるあの人への恋しい思いにかられる秋の夕べよ)と何ともいえない風情のあるものだ。

 二句目が(わたしの訪ねる宿と頼りにして分け入る太秦であなたはいるのかと問いかけたのに。川の音ですら、全く聞こえずじまいだ)というものである。二つとも恋歌だ。

「ん?ちょっと、待てよ?」

 考えてみて、あたしはあまりのことに絶句してしまう。

 なぜかというと、一番最後の行が全てを物語っているのだ。つまり、〈よくもあの時はうまくお逃げになりましたね、わたしから〉は紛れもなく、宰相中将とのあの後宮での一件をさしているのだから。そうとしか思えなくなる、どうしても。

 心の臓が止まりそうというのはこのことかと今更ながら、気づくあたしだった。



 安和寺へ行った後、実際にこちらへ連れてきてくれたのは弟の友人の左京大夫友成なのだ。連れて来られたといったって、その時、あたしは気絶していたから覚えていない。

 その友成からは全く文らしきものもこないし、彼自身が訪れてきた事もさっぱり一度もなかった。それでも、父上の事を随分気にかけているそうでどうにかして、別邸へ行こうと機会をうかがっているらしい。

 とりあえず、ぐずぐずと考え込んでいるのも性に合わないから、部屋の隅の方に控えていた小夜に言って義隆の居所に先触れに行く手配をさせた。立ち上がって、鈴鹿を呼びつけて先導をさせる。

 目的は義隆にこれからどうするか、対策を一緒に練るためである。そう思って、父上にも実は知らせておいたのだ。

 女房に頼るのもいいけれど、いざという時は男手が必要になる。そのための訪問ではあるのよ。父上だって内々とはいえ、今上様からあたしの添い臥しの任を依頼されたのもある。もし、ここで宰相中将に忍んでこられたら、ひとたまりもない。今度こそ、完璧にあたしはあいつに既成事実を作らされるだろう、絶対にだ。

 と、そうこうする内に弟の居所まで来ていた。簀子から一段上がり、さらに内へと入る。

 すっきりとした部屋の様子を見回す。几帳の色合いも晩秋が近づきつつあるので、紫苑色の薄めのものが情緒がある。

 女房たちがいそいそと御座を用意した。用意し終わるのを見計らってから、ゆるりと落ち着き払って座った。義隆の顔をそっと伺うと、向こうも気づいたらしく、あたしの方へ顔を向けた。

 明かりが近々とあるせいか、はっきりと義隆の姿が見える。まあ、目の前にいるのだから、当たり前なのだけど。

 けれど、今日の義隆は割と病も良くなってきたからか、半身を起こして脇息にもたれ掛かっている。肩に二、三枚ほどの圭を羽織り、烏帽子も被っている。顔色は青白くなく、顎や頬の辺りがやせて男ぶりというか気品が増したような気がした。

 あたしも面食いだなあ、ほんとに。

「えっと、義隆。その気分はどうなの。少しは薬湯も飲んだりしてるの?」

 とりあえず、切り出した。すると、義隆ははにかんだように笑って答える。

「姉さん、相変わらず心配性だね。心配してくれるのはありがたいけど。わざわざ、女房に面倒な手順を踏ませなくてもいいのに」

「あんた、将来は良い小姑になるかもね。期待しているわ」

 ぴしりと嫌みっぽく言ってやると義隆は途端に驚いてしどろもどろになった。

「それ、どういう意味だよ。良い小姑って…」

「そのままの意味よ。ねえ、それよりも相談したい事があるの」

「相談したいこと?」

 目を大きく見開いて、理解しがたいという表情になった。

 そんなのお構いなしに畳紙に挟んでおいたあの文を取り出す。文を義隆にずいと目の前に差し出した。

 義隆はそのまま、受け取る。不審そうにその文をしわを伸ばして読み始めた。

 最初は困り顔だったけど、行を進むにしたがい、段々と難しい表情になっていく。

 読み終えた後は黙ったまま、しばらく考え深げな様子になり、沈黙が続いた。



 会話がいっさいないため、雰囲気が次第にしらけていってしまっていた。しゃべりにくくなっているので、また自分から聞いた。

「ねえ、義隆。その文はね」

「…姉さん、教えようとしなくてもわかってるよ。この文はお筆跡(て)からすると、宰相中将殿のようだからね」

「筆跡って。あんた、中将と文のやりとりをしたことあるの?」

「いいや、でも。時折、中将の弟で僕の友人の友成から姉さん宛らしき文を見せてもらった事はあるよ。友成と中将は前々から仲が険悪でね。中将は彼にさんざん当てこすりを言ったり、姉さんとの縁談が出るとその邪魔をしたり、とにかく目に余る程の嫌がらせをされていたそうなんだ。友人である僕から見ても友成は気の毒だったよ。ほんとに」

「えっ。ちょっと、待ってよ。友成が中将の弟ってそれはどういうこと。あんまりにも話が急すぎてわからないんだけど…」

 本当に訳がわからなかったので、話を途中で止めた。弟の方もさすがに言葉が突飛だったと思ったらしい。

 あたしに説明をする。

「姉さんは知らないのか、それもそうだな。実をいうとね、友成は兵部卿宮家の第二子で宰相中将はご長子にあたるんだよ。もう、亡くなられてしまわれたけど。母君は中将が先内大臣家の姫君で友成は先々帝の女二の宮様で皇家のお血筋になる。兵部卿宮様は先帝の弟宮でいらっしゃるし、友成も中将も今上のおいとこにあたるね。だから、僕らともそんなに遠い間柄でもないんだよ。まあ、中将たちは父君と違って、立場とでいっても恋愛面は自由だし。宮は二の宮様が亡くなられた後からは独身でおられる。まあ、僕としてはお手本にしたくなるお方だね」

「ふうん。じゃあ、その兵部卿宮様は今上様の叔父宮に当たられるのね」

 あたしは頷いた。

「うん。僕たち姉弟の母上だって先帝の女三の宮様が祖父上のご生前に降嫁なさってお生みになった方だと父上から聞いたよ。藤壷女御様はその妹君が母君になるし、姉上は知ってるよね?」

 確かめるようにして訊いてくる。そこが子供なのよ、この子は。

 全然自覚してないのが考え物だわ、ほんと。まあ、言ったら傷つくだろうから黙っててあげよう。

「ええ。それくらいだったらあたしも知ってるわよ。そんなに馬鹿じゃないわよ」

「はは。そりゃそうだ。結局さ、中将は友成の実の兄君だって事だよ。弟の恋する女人を色好みの兄が興味を持って横取りしようとする。昔からよくある事だけど。姉さん、こんな状況は他の女たちから見たら、うらやましがられるもんだよ。特に宮廷の女房たちから。うれしくないの、普通だったら女冥利に尽きるってそりゃ喜ぶのにな」

 とても楽しそうに笑いながら言っている。こっちはそれどころじゃないってのに。

 友成はまあいい。けど、中将になんて好かれたくもない。

 あんなやつ、こっちから願い下げよ。

「良いわね、あんたは気楽で。中将はあたしのことさんざんこき下ろして、しかもあらぬ振る舞いを仕掛けてきたのよ。そういう人に恋文もらったって、うれしいどころか見るのも嫌よ。頭痛がしてくるわよ、見ただけでね」

「別に僕は姉さんに嫌みのつもりで言ったんじゃないよ。ただ、世間の一般論でそういう風に思って…」

「だから、あんたはそうかもしれないけど。あたし自身は迷惑なのよ、こんなの寄越されるのは」

「いや、世間の人から見れば、そんな感じなんだよ。姉さんが実の兄弟二人から求愛されてるってね」

 弟は一歩も引かない。そこが生意気というか、小憎らしいんだよな。

 良く言えば、融通がきかないけど悪く言えば、頑固だし。自分が他人からどういう風に見られてるのかわかってないのかね、こいつは。

 だいたい、姉が相談するためな話しに来たってのに、世間体しか頭にないのか!腹が立ってきて、弟の頭をぶん殴ってやりたかったけど。何とかこらえて、あたしは本題へ無理矢理戻した。

「それよりも文はどうするのよ。あんた、さっき、ちゃんと目を通したわけ。いらないこと話してたら、よけいな遠回りをしてしまってるし」

「ああ、ごめん。文のことを話してたんだった。そういえば、歌が書かれてたね。どんなことが書かれてるのかな」

 慌てて、再び文を読み直している。こっちは怒りを通り越して呆れるばかりだ。いくら、あまり恋愛に興味がないといっても歌ぐらいはわかるだろうに。呆れて言葉も出てこないけれども義隆はちゃんと真剣な態度になってきた。

「ふうむ。こうやって、よくよく見ると一句目は〈いつとかも〉と〈あだびとの〉という所にあの時の一件を覚えていますかという意味が込められているといえるね。二句目では〈わが宿と〉ていうのから考えると、どうも宰相中将は姉さんの消息を掴もうとそれとなく探索めいたことをしたのに。見つからずじまいだった。でも、姉さんは東宮様の添い臥しの任を引き受ける予定になってしまっただろう。だから、こういう事態になって文を送りつけてきたんじゃないか?」

 あくまで理屈で説明するように言う。確かに、この子の意見も一理ある。

 宰相中将は宮廷の女房たちの噂の的にもなる人物ではあるのよ。しかも、無類の女好きときた。ちょっとでも興味を持ったら、しつこく追いかけ回して、相手が根負けするのを伺うところが油断ならない。

 うちの義隆や友成だって普段は誠実な真面目一方で通しているけど。でも、一度はこういう真面目人間が恋狂いするのがもっと、厄介ではあるのだ。

 あの「源氏物語」にも良い例があって、源氏の君の正室の葵の上が生んだ若君で夕霧の君がいる。この若君が親友の柏木の衛門頭の未亡人となった女二の宮様に恋をして、収拾をつけられない事態に陥っていく。

 恋ってそういう風に物事がどう展開していくかわからない所が恐い。

 つまり、浮気慣れしていないとこんな夕霧の君みたいな目にあうというのでは「源氏物語」も侮れないわね。やっぱり、世間によくある例でも実際に起こると苦労するのは当然だけど。あたしは堅物の恋狂いの方が色好みで無類な女好きなのよりもたちが悪いと思う。

 まあ、一緒に生活するんだったら、真面目な方が頼りにできるのだけど。

「て、姉さん。僕の話を聞いてる?さっきからぶつぶつと何を考えてるんだよ」

 不平そうに呼びかける弟の声で我に返る。慌てて、話を戻した。

「あ、ごめん。ちょっと、考え込んでて」

「今はとにかく。どうするんだ。普通はこのような恋文がきたら、返事をするのが礼儀ってものじゃないか。姉さん、こんなこと言うのも何だけど。自分宛にきた恋文を僕が実の弟だとはいえ、遠慮なく見せてしまうのは小さな子供がするようなことだよ。それをわかってて、僕にあえて見せたのだったらまだ、余地はあるけど」

「…だって、あたしもどうしたらいいのかわからなかったのよ。だったら、あんたに相談せずに父上にでも見せろというの?」

「違うよ。姉さんがしようとしてる事は結局、人に自分の災難を擦り付けようとする行為になる。姉さん、一体どうしたんだよ。本来だったら、自分で動かなければならない時なのに。僕に相談したって何にもならないよ」

 しまいには姉であるあたしの方が弟に説教されてしまった。でも、一番最後の一言ではっきりとなった。そうだ、こういう時こそ、自分で処理しなければならない。

 宰相中将と決着をつけなければ、あいつとの仲をどうにか収拾をつけなければ。ただ、中将に脅えて暮らすのはまっぴらだ。

 返事でもして、体よく断ってしまえばすむことだったのに。

「…うん。そうよね。中将からこんな文を寄越されるのもそもそもはあたしにも悪い面はあるのよ。あんたの言う通りね」

 完璧に現実を見据える気持ちになれた。冷静になって、物事を見るのも大切なのよね。あたしは決心を胸に秘め、義隆の居所を後にした。



 自分の居所に戻ると、明かりもついていなくて真っ暗闇だった。女房がいる気配もなくてさっきの決心も鈍ってしまいそうになった。

 釣り灯籠の灯火も弱々しく、妻戸をそっと開けて足を一歩踏み入れる。辺りは妙に静かで勝手に鼓動が激しく波打つ。

 深呼吸して、一旦、気持ちを落ち着けた。

 そのまま、歩を進めていく。段々と不安感が押し寄せてきて、体がすくむ。

 けど、我慢してさらに奥へと進んだ。

 寝床らしき物も用意されていないので、いつも使っている御座を手探りで探した。御座に落ち着くと圭を脱いで横になる。

 ところがその時、何かの気配をあたしは感じ取った。まもなく、覚えのある薫りが鼻をかすめた。どっと汗が噴き出した。

 緊張が全身に広がり、さっきの嫌な予感が的中していたのを改めて実感する。とにかく、この場から逃げなくては。

 その思いだけが頭によぎって這うようにして御座を離れた。近くの几帳の影にまで這って出て行こうとしたけど。髪をぐいっと強い力で掴まれてあたしは一瞬、怯んでしまう。

 這ったままの格好で動きを止められてしまった。

 おそるおそる後ろを振り向くと何か人影が見える。どうも、男のようで白い衣を身に付けているので暗闇の中で浮かび上がっていた。

 下にはよく砧で打ち、艶を出した紫苑色の衣がぼんやりと見えた。

「誰?と、友成なの」

 声を出して相手に問いかけようとしても体がすくんでうまくしゃべれない。すると、その公達らしき男は優美ないかにも恋に手慣れた調子で返した。

「私は友成という者ではないですよ。あなたはあのような男と間違えるのか。あきらめきれないからこそ、こうやって来たというのに。香子姫」

 密やかに囁く低い声はまさしく、宰相中将のもの。聞き間違えるはずがない。

 どうしたらいいのだろう、逃げたいけれど。以前はぎりぎりの所で回避できた。そうこうしている間に中将はぐいとあたしの体を引き寄せてまたしても、軽々と抱き上げた。

「一言でも良いから、哀れだとでもおっしゃってください。でないと歯止めがきかなくなるかもしれませんよ?」

 ふっと黙ると、片手であたしを抱えたまま、妻戸を半開きにして外へ出たのだ。中将がどうする気なのか全く、見当もつかない。

〈あわれとて何を頼らむ露落つる

 空の彼方に誰ぞ見る見る〉

「そういうあなたの気持ちを知りたいです。どういうお気持ちなのか、こちらが教えてほしいくらいなのに」

 あたしは歌を詠んだ。自然と返答してしまっていた。

 でも、うっとうしい事に中将は目をつむっているらしく、先ほどの歌を口ずさんでいる。こっちは早く帰ってほしいのにこいつは馬鹿なのか。

〈闇灯す篝火もなき今宵もや

 我を待たずに空を見つる君

 〉

「…やっと逢えたというのに冷たいお言葉ですね。ええ、あきらめもしましょうか」

 あたしをそのまま降ろすと涙ぐんでいるのか、湿った声で言った。足音も立てずに弟やかの友成にも見習わせたいとてもすっきりとした清々しさを覚えさせる身ごなしで去っていった。

 茫然となって、見送るだけしかできないのも頷ける彼の態度は見事だ。その一言に尽きる。

 ほうっとため息をついてしまっているのでさえ、気がつかないのだった。

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