第5章 Fragment Output: Split Rain

第20話 空白の陣列

 クラリスが戦列を離れてから、まだ数日しか経っていないはずだった。

 だが、その“空白”は、特別戦術班にとってあまりにも大きかった。


 会議室の座席は、いつも通りに並んでいた。

 だがその中に、彼女の席だけが静かに“空いたまま”になっている。


「出撃メンバーは以上。ノルダ、支援演算の段取りは任せる。リク、今後の対神罰演算ログの照合を……」


 ロジェ=クレイスの声は淡々としていた。だが、その語調には、どこかしら“微調整された空気”が混ざっている。

 クラリスがいたときのような、やや抑え気味のリズムが残っていたのだ。


 リクは返事をしながら、ふと気づく。

 誰も、クラリスの名を出していない。

 自然と触れないようにしているのか、それとも、言葉にした瞬間に崩れそうになるのか。


 ──彼女は、もうここにはいない。


 だが、“いない”という事実が、逆に彼女の存在の大きさを浮き彫りにしていた。


「別に……クラリスがいなくても、任務は回るでしょ?」


 沈黙の中、リリエンがぽつりと呟いた。視線は資料に向けられたままだったが、その言葉には確かな鋭さがあった。


「は? お前、何言ってんだ」


 ザイクが振り返る。その声には怒りと戸惑いが滲んでいた。


「俺らのバランスってのは、あいつの“いない”ところで成立してたんじゃねえよ」


「……ふん、じゃあ何? いなくなった途端に崩れるようなら、それこそ問題じゃない」


「そういう話じゃねぇだろ」


 ぶつかりそうな空気を、ロジェの一声が断ち切る。


「以上。作戦詳細は各自確認」


 それ以上、誰も口を開かなかった。



 その日の会議が終わったあと、リクは廊下でノルダとすれ違った。


「……なあ、ノルダ」


「ん?」


「クラリス……今、どうしてるんだ」


 一瞬、ノルダの表情が止まった。だがすぐに、薄く笑ってみせる。


「手元の記録では、彼女は今、後方支援棟の演算保守班に配属中。簡単に言えば、整備と機材の解析担当だ」


「整備って……クラリスが?」


「そう。手先、不器用だって言ってたのにね。本人は『やるしかないでしょ』って」


 ノルダの口調には、少しだけ、感情が滲んでいた。


「でも、たぶんそれでいいのよ。あの人は“ヒーロー”であることから、一度ちゃんと降りなきゃいけなかったんだと思う」


「……今も、戦ってるのか?」


「たぶんね。でも、戦場じゃない場所で。自分と向き合うって、そういうことだから」


 ノルダは小さく息を吐いて、ぽつりと続けた。


「……それでも、なんか楽しそうだったよ。笑ってた。慣れてないのに、ちまちま配線とか直しててさ」


 リクは何も言わなかった。


 だが胸の中には、小さな違和感のような灯りが残った。


 ──クラリスは、今も戦っているのかもしれない。


 戦場ではなく、自分を保つために。


 そして──


 俺は、どうなんだ。

 

 俺は……ただ、彼女の隣にいただけだったのかもしれない。


 それを今、痛いほど思い知っている。



 その夜。特別戦術班のフロアに、緊急通達が走った。


「第十二区域外縁部にて空間偏位演算反応を観測。現在、演算異常が増幅中。現場は制御不能領域に移行の兆候」


 ノルダがモニターに表示された演算図を睨みつける。


「……これ、神罰兵じゃない。けど、近い。演算ノイズの構造が違う」


「どういうことだ?」


「軍が言うには、“空間を抜ける存在”──これまで誰も捕捉できなかったやつが、ようやく姿を現したって」


 ロジェが腕を組みながら続ける。


「今回の任務は、捕獲優先。目標は……“反転のノーア”」


 その名を聞いた瞬間、フロアの空気がかすかに緊張した。


 名だけが独り歩きしていた“存在”。

 どんな兵器でも捉えられず、命中記録すらない。

 けれど確かに、戦場を揺らしてきた“神罰模倣体”。


 リクの目の前に、軍内部の記録資料が転送された。


【捕獲対象:反転のノーア】

【記録件数:12/命中回数:0】

【空間偏移能力:軍内未定義】

【備考:存在検出時、即時追跡プロトコルを発動のこと】


「リク、出てもらう。ゼロの演算性能なら、あいつの偏移構造を追えるかもしれない」


 リクは頷いた。


 クラリスがいないこの陣列の中で。

 今度は、自分が前に出なければならない。


「了解。俺がやります」


 その言葉に、誰も異を唱えなかった。


 ただ、ゼロの端末が静かに点滅していた。

 まるで、“次の弾を装填している”かのように。

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