夜のピアノ

sui

夜のピアノ



とある古いアパートの三階、ずっと空き部屋になっていた一室から、夜になると小さなピアノの音が聞こえてくる。


誰も住んでいないはずなのに、音は毎晩、同じ時間にふんわりと流れてくる。

曲はいつもやさしく、少し寂しげで、それでいてなぜか心が落ち着く不思議なメロディー。


その部屋の下に住んでいたリオは、ある夜、音の主を確かめようとそっと階段をのぼった。

廊下の突き当たり。鍵のかかっていない扉を押すと、部屋の中には小さなアップライトピアノがひとつだけ置かれていた。


そして、その前に座っていたのは――透けた体の、おばあさんのおばけだった。


「ごめんね、うるさかったかしら?」と、おばあさんはやさしく笑った。


リオは首を横にふった。


「ううん、すごくきれいな音だった。…それに、なんだか懐かしい気がした」


おばあさんは目を細めて、小さくうなずいた。


「このピアノはね、昔、孫と一緒に弾いたものなの。彼が大きくなってからも、私は毎晩ここで音を重ねてたのよ。でも…気づいたら、私の時間は止まってしまっていて」


それでも、おばあさんは悲しそうではなかった。


「誰かが、またこの音を聴いてくれるなら、それだけで十分なの。音は、心を届けるから」


その夜、リオはおばあさんの隣に座り、鍵盤に触れてみた。

その指先はふるえたけれど、不思議と音は優しく響いた。


次の日の夜から、二人の連弾が始まった。

古いアパートの一室から、静かな夜のメロディーが流れ続ける。

聞こえる人は少ないけれど、その音はまるで遠い誰かの心にそっと届く、やわらかな手紙のようだった。

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夜のピアノ sui @uni003

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