【遺稿】「藤邸」

蘆 蕭雪

「藤邸」

            「藤邸ふじやしき」      藤尾瑛臣     



【一】

 車窓を見れば、五月の翠黛に淡い紫の群雲が垂れ込めた。竹藪の線路に迫る、隧道トンネルのような合間を抜けると川を挟んで山景が現れる。若緑、新緑の覆う山麓に、碧巌を割る滝のごとく藤花が秀枝から幾筋も湧いた。思えば、道中にも野生の藤が、鉄道の線路沿いの喬木へ絡まって薄紫の花房を垂れていた。或いは、柵や塀の上からしどけなく撓垂しなだれた。時折、花房を尾のように叩きつける。目路の端に、過ぎ去った藤花が紫の雨となって繁吹しぶきった。

 山紫の景色は、万緑を御する野生の藤によって紫に見えた。

 万緑叢中、山紫水明、若き葉叢を虐げる藤花ばかりが川面に映じて栄える。

 行李鞄には、彼から届いた一通の書簡が忍ばせてあった。柳行李ひとつで結構、とは旅の身軽を指す洒落のつもりであったろうか。言葉通り、押入から祖父の形見を出し、飴色の行李鞄を日蔭に干して提げてきた。鞄の底へ紫紺の縮緬の風呂敷を敷き、封筒を仕込んだ。直筆の、寠れた手跡は、長年万年筆を愛用する彼にしては精彩を欠いた。慇懃な文言で、近頃の体調不良と、是非とも隠居先を見舞いに訪ねてきてほしいとの文面が綴られていた。旅路、もとい旅程についても、彼の生真面目な性分からか懇切に仔細を記してあった。それは、電車の乗り継ぎ、最寄駅や運賃に至るまで書き漏らしがなかった。柳行李ひとつで結構、手土産などの心遣いも無用であるとう、結びの挨拶の手前に書かれた通りに荷造りをしたのである。紫縮緬の、大判の風呂敷へ手回りを包んで旅に出た。縮緬の上に、白封筒を熨斗紙のように載せて仕舞った。

 隣の空席に、行李鞄を置いてしまってはどちらが底かも判じ得ない。

 彼の命じた列車は、山間を北の県境へと抜ける鉄路を走る。新幹線を、地方都市で下りて、同じ駅で在来線に乗り継いだ。切符は、彼の屋敷の最寄駅までの片道であった。単線の鉄路を走る車輛は、平野から山間の渓谷沿いへと車輪を軋ませながら進んだ。長閑な、田甫の連綿と続く平坦な地も、急勾配の湾曲カーブに身体が傾ぐほどの山路に変わった。昔の、旧型の車輛の、天鵞絨ビロード張りの座席には、乗客の影もまばらであったのは辺境であったからだろう。鋼鉄の函が、旧い車体を揺らして、軌道の上をごとごとと鳴らしながら登攀した。山肌を、険しい巌の木立が覆って、深山幽谷のそばに、透徹と澄んだ川を眺めて温泉郷の駅舎を見過ごした。

 揺られながら、微睡の沼に誘われたのも二度では済むまい。

 都度、白んだ泥濘に、瞼の隙間から藤の花房が尾をしならせて鞭打った。紫雷が初夏の昼間を裂いてつんざく。薄紫の藤花が、花弁はなびらを散らして藤波の繁吹が車窓に吹き当たる。そこで、半酔半醒の目を開いて、五月の眩しく照る翠黛を眼前にまじまじと見た。野生の、藤花の滝は、路傍に紫の雷雨をも凌いで目覚ましい。山景色の、山紫水明も、薄紫の藤の群生を指して云うのではあるまい。夢とも、地続きの鮮明に、片道切符の降車駅の名前を告げる車掌の声が響く。

 行李鞄を抱え、無人駅に降り立てば小豆色の車輛がホームを離れた。

 道順は、書簡に同封された手書きの地図を頼りに辿る。駅から、直に歩くと集落があるが、彼の屋敷は人家から離れているらしい。宿場でもない、山間の鄙びた小集落に、昔の地主の何某かが別荘を建て込んだ。或いは、素封家の息子のものだとも聞くが定かではない。但し、であると云う、彼が大枚を叩けば終の棲家を借り上げることもできた。半分は、住み込みの管理人の役目、隠居するには十分だとも縦罫の書簡箋に認めてある。彼の言に従って、川沿いから山際の麓へと蛇行する舗道を歩いていった。狭隘な、しかし瀝青れきせいの舗道が、甍葺きの民家の家並みを抜けて山裾に延びた。裏木戸や板塀には、やはり薄紫の花房が寠れて草臥くたびれる。緩やかな登り坂を、地図を片手に蹌踉と歩いていけば豁然かつぜんと屋敷が現れた。


【二】

 数寄屋門に、白漆喰の塀を囲った邸宅もつきづきしい。彼の云う、曰く付きの理由もまたすぐに知れた。漆喰塀の、棟瓦を越して、甍の軒端に薄紫の藤花をめぐらした二階屋が覗く。短い花房が、御簾のごとく藤花の滝を連ねて揺らげた。樋か何かに、蔓を這わせて野生の藤を手懐けたものと見える。花房は、幾筋かにわかれ、笠の花群はなむらの尾を重ねて段々の滝が屋根に零れるようだった。そして、その二階の甍も、黒甍とは異なる妙な色合いに照っていた。

 濃紫、青紫の、霜が降りた巨峰の果皮のあの怪しげな光沢である。

 釉薬瓦か、不思議な妖艶さを湛えた紫の甍を仰いだ。二階屋は、大正か昭和初期の建築であろう、伝統的な日本建築のところどころに和洋折衷が窺える。右手の潜門に寄り、通用口で呼鈴を鳴らしたが返事はない。仕方なく、正面の格子戸を引いてみれば滑らかに動いた。山奥の日向に晒されて甃石も母屋へと続く。路端は玉砂利を詰めてある。玄関手前に、松の老木が藤を背負って葉陰を斑に散り敷いた。松の緑陰も、木漏れ日の糸雨にさめざめとして濡れ冷める。森閑たる山家やまがの、木立の蓊鬱とした噎せるような香りがした。玄関の硝子戸は、遠目に見た欄間窓と同じく、薄紫の色硝子を嵌め込んだステンドグラスの意匠である。その柄は、弓形アーチを描いて、象る藤花の房を框に繁らせて綾織レースに活けた。東雲の濃淡で、松や軒端をあしらう藤の花房を生き写して瑞々しい。見事な唐破風にも、藤花の滝筋が流れかかってしとどに紫色の雨が降る。

 花弁の、薄紫の花雨は、車窓に雷を閃いたあの烈しさの片鱗もない。

 如何にも、彼の好みそうな邸宅であると思われた。記憶の底に、渡仏した彼からの葉書が忽然と蘇った。二十年近く前、彼は語学のために留学していたことがある。若い時分、国際郵便エアメールで幾度か葉書の遣り取りをした。確かに、当時の書面に「当地こちらでは、藤を屋敷の装飾として育てている」との賛辞を認めた。彼の文才に任せ、藤の咲き誇る風景の写生スケッチに言葉を尽くした葉書であった。想像の中、薄紫の藤に覆われた異国の家並みを幻視した。彼の感嘆、また絶賛の言葉は、その時以降見かけたことがなかった。恐らく、彼の気性には気風が合わなかったのであろう。翻訳家の夢を挫折して帰国した。理由も、「水が合わなかったのだ」と言葉を濁した。帰国以降、彼は懐古主義に傾倒し、純日本的なものへと回帰する傾向を強めていった。それは、しかし異国かぶれの日本趣味ジャポニスムでなく、若人が渡仏以前に擁いていた幻想からの脱却であっただろう。

 戦前建築に憧れ、彼の憧憬に相応しい屋敷をこの山間に探し当てた。

 と云えども、素封家の遺したものであろうことは疑うまい。彼とても、留学先の異文化の総てを厭悪したのではなかろう。藤棚を、敢えて母屋の横に設えるのではない。松の枝葉から、軒端へと藤蔓を添わせ、釉薬瓦の唐破風の紫にもはらはらと薄紫の雨滴が落ちる。彼が異国の地で見た、庭木の藤の驚嘆すべき装飾を眺めて立ち尽くす。暫く、硝子戸の前に足を止め、外観から建物の中へと関心を移した。此処に、彼が蟄居同然の暮らしを営んでいる。四十路過ぎ、楽隠居の身分で、隠棲を望んで住み込みの管理人とは信じ難い。ただ、彼の性分を思えば、邸宅の維持のため、律儀な庭師のごとく熱心に藤の手入れをしている姿も想像し得た。

 四十路の独り身、山奥での慣れぬ生活で体調を崩したとも考えられよう。わずかな時間、躊躇の間を置いて、玄関横の呼鈴を鳴らせば廊下を歩く跫音が聞こえた。框から、石の三和土に降りて履いた下駄歯が凹凸を噛んで鳴る。かん、かん、と数歩を歩いて人影が硝子に差した。欄間を模した色硝子の、桟を挟んで霞んだステンドグラスの硝子戸に男が透ける。引違いの戸を、静かに滑らせ、横へ開いた戸口から、緑の黒髪の艶やかな病身とは思えぬ男が顔を出した。

 

【三】

 彼は、思いの外に、健勝そうな顔色をして出迎えた。

 手紙通りの旅程だった、と彼に応えながら玄関の框で靴を脱ぐ。新品の帆布地の白靴を俯瞰して、夏の季語を先取りであると漏らす声は明るい。蓬髪でもない黒髪とは対照に日焼けを知らぬ白皙である。風采も、当時翻訳家を目指した文士の面影を残していた。頬は、流石に贅肉も落ちたか、頬骨が断崖のように切り立って落ち窪んでいた。微笑を覗かせれば、笑窪に似た皺が寄って皓歯が光る。藤紫の、褪せた浴衣に黒の袢纏を重ねて袖手しょうしゅ*に構える。肌寒いのか、彼の病身を憂慮して、目敏く浴衣の下に透けたままの長襦袢を見た。薄萌黄の襦袢の、懐を掻き合わせながら、彼は框のあがはなに置いた上履きのスリッパを目顔で指して勧めた。

「よく来てくれたね。ずっと君を待っていたんだよ」

「手紙を有難う。二十年ぶりか、年賀状ばかりで無沙汰をした」

 下駄箱の上、簪の藤を一本軸と活けた細口のグラスが目立つ。硝子の瓶は、帰国の折に持ち帰った品かもしれない。再会の感慨を欠き、無難な挨拶が咄嗟に口をいた。不養生、不摂生によるかとは直截に訊き難い。二十年間、苦痛に苛まれる心境の日々であったろう。卒業の前、地方役場の職員になると聞いた。彼の胸中を、長年慙愧ざんきが蝕んだ心身の不調ではあるまいか。緑の黒髪の陰に、虚弱の病の片鱗が潜められている……と憶測すれば、生唾が喉に絡んだ。

 案内に随い、旅館の離れのような二階屋の中を歩いた。塀からの遠望と比べ、旅館の本館と云うよりは小造りであるらしい。建物の周囲を、幅狭な板敷きの広縁がコの字に巡っている。竿縁天井に洋燈ランプが浮かぶ。軒側の、欄間を漏れた光の藤棚へ花影が揺れる。板目にも紫の花影の斑がちらちらと乱れた。部屋には腰障子を並べ、縁側には藤柄のステンドグラスと硝子戸を閉ざしている。右回りに通る間、硝子戸越しに庭を眺めれば景色が歪んで見えた。前方を、横目で斜めに見通すと、角度の具合で氷板を小刀ナイフで細く削ったような凹凸が分かる。昔の硝子板に特有な、氷の濡れた一枚板を透けた風景は山間の秘境である。八枚の硝子戸は、八曲屏風のごとく翠黛の蛾眉を描きながらも溶けて崩れた。稜線を、滲む木立が毳立けばだち、鬱葱たる麓にかけて東雲の雲霞が懸かる。緑を靉靆あいたいと覆う、藤紫の雲から雷雨が降り頻るさまも硝子に捻じれた。

「しかし、山も屋敷も見事な藤だね。このことかい、というのは」

「確かに丹精したものだ。泉鏡花の怪談になりそうだろう」

 硝子戸の際、四十路の男が片頬に笑んで戸へ触れた。彼の顔に、陰影のせいか、泉鏡花に精通した青年の面差しがかげった。当時、仏文専攻の彼に仏蘭西フランス語を習った。同窓生の中でも、古今東西の幻想文学を好んだ男である。趣味が通じ、日本各地を旅行した間柄も、親交が絶えてしまえば他人と変わるまい。歳月は霜のように溶ける。鏡花を挙げての譬えに、彼の翻意を思い知ったか寒気がした。或いは、その悪寒は、硝子板に歪んだ山景のせいとも判じ得なかった。

 殊更怯えなくてもいいよ、と彼の声に振り向いて下方を見た。十畳の二間続き、奥の障子戸の前に彼が膝をつく。旅館の仲居の、淑やかな挙措で膝を揃え、長旅ご足労でございましたと労いの言葉を漏れる。彼の表情に揶揄からかうような色はない。黒の袢纏の袖を片手で押さえて、寄った腰高の障子戸へしらじらしく手を添える。初老の、男の皺ばんだ手が、乾いて関節が目立つ枯木の枝を思わせた。袖手に隠した、無惨に痩せた手指が露骨に虚弱をさらす。かすかな音を立てて、障子戸を横へと滑らせる。薄紫の、浴衣の裾が、無理な若作りに色褪せて見苦しい。目を背ける先もなく、彼の片手を追って、障子戸が開くのを見守れば紫紺の色が目路に広がった。

  

【四】

 十畳間の室は、三方の壁のすべてがけざやかな濃紫である。書院造の、左手に床の間、松を彫り込む欄間を除けば紫の壁面だった。凄艶な紫紺が、今や見慣れた藤の花房の薄紫よりも目に迫る。書院窓と、仕切りの襖ばかりが薄明るい。地袋の黄金こがねに、襖の絵柄も金霞を掛け渡して棚引いた。床の間の、松の床柱に沿って天井を仰ぐ。竿縁天井の中心、三房の藤花を模した色硝子の洋燈が花房を下げる。棒立ちのまま、鞄の把手もちてを握って喉に凝る固唾をみ込んだ。

 彼の誘う足許へ、精気を啜った紫紺の畳縁が薄葉色の畳の合間を這う。

 と、彼を見遣れば、頭を傾げて室内を見回しながら訊ねた。曰く付きとは、何も藤の花のことではない。この部屋に覚えはないか、との質問に窮して押し黙る。彼が、些かの落胆に肩を落としたと見えて溜息を漏らす。趣味を知悉すれども、部屋に見覚えがあるとは言い難い。頭上の洋燈は、彼好みのガレ*の作風を真似たものか。淡く霞んだ、磨硝子のような藤の花房をまじまじと見る。旅館に似ている、それで彼との記憶に思い当たる節が浮かんだ。彼とは、確かに幾度か旅行に赴いた。最後の記念に、彼と二人ふたり卒業旅行で熱海へ出掛けたのではなかったか。

 浪漫趣味に憧れ、彼の憧憬に相応しい旅館を観たいと云うので赴いた。

 確かに、彼の憧れそうな高級旅館であった憶えがある。当時は、観光が精一杯で、塀の周囲を巡るだけで済ませた。熱海でも、有名な別荘を、戦後に旅館とした経緯を持つ名宿である。名前を起雲閣きうんかく*と云い、多くの文豪が逗留したことで知られて名声を博した。塀越しに、熱海の市街に建てられた邸宅を想像した。街中ながら、澄んだ青空に、和風建築の本館や離れの屋根が覗いていた。釉薬瓦の洋館もあった。谷崎潤一郎、また三島由紀夫なども滞在したが、彼の関心は別の人物へ向けられていた。土塀を辿る間、「此処で太宰治が『人間失格』の原稿を書いたらしい」と語った。彼はただ、太宰が自死直前の原稿を書いたことに興味を寄せたのであろう。その証拠に、釉薬瓦の甍を仰いで若い憧憬を馳せながら明かした。最後には、此処ここで翻訳の仕事をしたいとの願望と、「その時は、是非に君も訪ねてきてほしい」……と締め括る台詞を聞いた。

 悪寒が増して、背中の肌が一面に冷水を被ったように粟立った。

 最後とは、の聞き違いからくる誤解ではあるまいか。慄然として、上履きも脱がずに身構えれば掌が前に過ぎった。襖の手前、片手を差し出した彼が裾を捌いて立つ。浴衣の褄から、錆びた萌黄の長襦袢が裏地となって翻る。背を向けた後姿に、肩から垂れた袢纏の袖まで影絵の黒である。艶めかしい後手うしろでに、彼が艶然と半身を捩りながら半纏を脱いだ。敷居の上、黒袢纏を脱ぎ捨てて、薄紫の浴衣を晒せば花群がはらはらと乱れる。絵柄は、象る藤の花房を繁らせて腰高の痩躯に活けた。浴衣の皺に、肩から褄へと淡い花影がしなだれて裾に縺れる。片褄を摘み、女形の足取りで摺足がすらすらと敷居を跨いで歩く。正面の、黒松の床柱へ凭れて、藤棚を蔓が巻くように薄紫の男が立った。立姿に、散るばかりの藤の花弁が惜しんでまつわる。

 彼の、白い掌が、天井の洋燈へと見えぬ藤花の房を手繰って伸びた。

 後退る足許に、黒く蜷局を巻いた襦袢が絡んで足を取られた。纔な時間、逡巡の間もなく畳の上へと倒れ込んだ。頬を打ち、慌てて両腕で匍匐ほふくしながら頭をもたげて絶句した。ぶら、ぶら、と白足袋の先が揺れている。正絹の足袋ばかりが御霊のように白い。両目を開いて、その足先を追うと、片褄のはだけた薄紫の浴衣に錆萌黄の襦袢が覗く。最早ただ、直視することすら怖ろしかった。頭上に、藤蔓の縄を掛け、天上縊死*のごとく浴衣姿の男が首を吊ってぶら下がる。


【五】

 そこへ一筋、白いものが尾を引いて────真直まっすぐ薄闇を劈いて過ぎる。

 目前に、はたりと落花のように白足袋が脱げた。露白になった、足指が枯枝に干上がって見えた。彼の痩躯は、今や老いた藤蔓の化身と落魄おちぶれていた。贅肉も痩け、浴衣がたるんで腰帯に括れたまま褄を垂らした。人影を見仰げば、天井へと視線が行き当たる。竿縁天井を、縦横無尽に藤蔓が伝って藤棚に似た。竿縁に絡む、藤蔓を絞首の縄に編んで首を吊っているのである。

 手も、また足首も、襦袢から伸びた両脛も藤蔓の束と見間違う。

 薄暗い室内は、洋燈もなく、暗澹たる木陰の泥濘に沈んでしんと静まる。

 愕然と、十畳間を見回せば茅屋と見紛うほどに荒れていた。荒んだ畳から、黴臭い塵埃の煙が立ち昇る。埃を被った、裏葉色に褪せた古畳の感触が掌に触れた。壁も、紫紺でなく、柳茶を薄めた色合いである。書院窓の、無惨に破れた障子には折れた桟が鋭い。襖戸には紙魚しみの群れが這う。とても先刻までと同じ部屋とは思えまい。頭上の天井板、彼の死体を吊るした藤蔓の網目も枯れる。彼の首筋から血管が這い出したかと見え、干乾びた肌も罅割れた。樹皮、或いは木肌とでも呼ぶべきであろう。枯渇した、素肌が樹皮に化けた木乃伊ミイラの成り損ない。縊死の間際、藤蔓の繁茂に精気を絞り取られたとも思われる。輪へ通した、蓬髪の白髪頭もうねりながらほどけていた。薄闇に、藤蔓の裂けたかつらの糸が、横鬢よこびんから細い毛筋のほつれた繊毛を縺れる。

 背後を向けば、行李鞄が投げ出されて中身を廊下へぶちまけてある。

 寸刻前、足裏で踏んだ黒袢纏や上履きも見る影もない。傷んだ床板に紫縮緬の風呂敷が転がるだけだった。敷居を跨ぎ、縁の廊下へ膝で退れば腐朽した板がたわむ。二、三歩進むと、風呂敷の影に白封筒を見出した。彼から届いた書簡には見舞いを頼む文言が認めてあった。否、実態は遺書であったのかもしれない。死者に語る口はあるまい。記憶の中、手跡も洋墨インクが淋漓と滲んで判然としなくなる。読み返せば、彼の真意を斟酌することができるであろうか。書簡を手に取って裏返した。宛名の墨痕が、饐えた血の赤黒い色であるとの錯覚に恐懼きょうくを抱いた。

 悪夢か、また幻覚か、白日夢に取り憑かれたとすれば何時からか。

 総毛立ち、行李鞄も拾わず目前の廊下を駆け出した。角を折れ、玄関へ出ると、藪草の葉影が開いた硝子戸から見えた。動悸を抑え、二度と背後を見るまいと思いながら外へ転げる。この屋敷も、何某かが放置したものなのであろう。借家を碌な管理もせずにいたらしい。しかし、悪夢と云えども、旅館の内装を眺めたことは疑い得なかった。彼が、伝聞を継ぎ剥ぎ、鮮明な幻影を見せていたのではあるまいか。仏蘭西文学ならシャルル・ノディエ*の信徒であった。荒蕪こうぶした廃屋に、骨髄の幻想趣味が昂じて、自分の首吊り死体を飾ろうなどとは悪趣味が過ぎる。藪草の中を蹌踉と歩きながら、松の葉叢を見上げた。巌の幹へ、藤蔓が巻きついているが若葉も花もない。唐破風や、甍の崩れた棟にも、薄茶色の藤蔓ばかりが縄を掛ける。黒甍の屋根が、藤棚が頽れるように荒縄の蔓に縛り上げられて傾く。

 半酔半醒、夢遊者の心地でふらふらと漆喰塀の方へと近寄った。

 棟瓦の残骸を越して、蓊鬱たる山端が紫の群雲を脱ぎ捨てて身震いする。

 山紫の景色は、万緑を御する野生の藤によって紫に見えた。五月の翠黛を、藤の群生から浚い出す緑風が山肌をすすぐ。薄曇の下、緑の覆う山麓に、無尽の藤波がのたうちながら花弁の鱗を剥いでいく。薄片の、薄紫の鱗が引き毟られて花嵐と舞った。掌中で、二十年来の学友から届いた書簡が乾いた音を立てた。亀裂のような皺の寄った白封筒を握り締める。雲でも雷雨でもあるまいと思われた。擦り傷のひららく頬を、川向の山際へと流れていく風が撫でていった。



【注釈】(字数順)

* 袖手:両手を着物の袖に仕舞うこと。

* 起雲閣 :熱海の近代別荘。戦後は旅館として営業された(現在は熱海市の有形文化財)。

* 天上縊死:萩原朔太郎の詩の題名。松に首を吊る縊死の情景が描かれている。     

* エミール・ガレ:十九世紀に活躍したガラス工芸作家。

* シャルル・ノディエ:十八世紀の作家。フランス幻想文学の祖とされる。


【注意事項】

* 本稿初出:同人誌『玉紫‐藤尾瑛臣綺譚集』

* この作品はフィクションです。実在の事物とは関係ありません。自殺に関する記述がありますが、肯定や助長の意図はありません。作中の内容は、情報の正確性や信憑性を保証するものではなく、また法令等に違反する行為を推奨する意図はないことを明言します。

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