4.Mid Summer After Night





【来宮eyes】





「きの!きの起きて!きのー!」


 昨日はなかなか寝付けなかったんでもう少し眠ってたいってのに、誰かが体を揺すりやがる。

 折角良い気分だったのにさぁ。今直ぐに起きろって!無情に!容赦なくガックンガックン揺すってくる。

 なんなんだよ。

 そりゃあもう物凄い勢いで肩を掴んで力任せにぐるんぐるんぶん回されて、首がガクガクいう。

 布団の上で船酔いするだなんて冗談じゃない。


「俺、仕事!大学!遅刻しちゃうよ〜!」


 必死の叫び声に渋々目を開けた。

 視界にはあからさまにホッとした顔のしーな。

 あー、そういやそうだな……。俺は休みだけど、しーなは普通に大学行かなきゃならねぇよな。


「……おはようございます。寝すぎてすみません」

「おはよ〜!きのは大学どうする?」

「行きます」


 俺の返事を聞いたしーなは嬉しそうに目を細めて笑った。

 朝から可愛いなぁおい。

 花が咲いてるように見える……とか、俺ってまだ寝ぼけてんじゃねーの?っていう感想を首を振って払って、身支度をしに洗面へ向かう。

 しーなの服は夜の内に洗濯してそのまま乾燥機にかけておいたから着られるはず。

 自分でもちょっと信じらんねぇんですけど、しーなも男だからヒゲ剃ったりするんですよ。なのに、そんな姿を見ても幻滅するどころかなんとも思わなかった。

 これ、屁をこかれても笑って許せるやつだな。


 先に起きている両親と鉢合わせたら面倒臭いなって思ってたら、二人ともさっさと仕事へ行って留守だった。

 テーブルには友達と食べろって色気も何もあったもんじゃない茶色い食事が置いてあった。色味があんまりない、揚げ物とか煮物中心の食事ね。

 しーなは美味い美味い言いながら全部平らげましたけど。

 お気に召したなら良かったですよ。



 さて、今日も変わらずクソ暑い。

 背中にしーなを乗せて、自転車のペダルをグッと踏み込んだ。

 いつもは寝呆け眼の河野さんですからゆっくりのったりたらたらと漕いで行くんですが、今日はハイテンションなしーななんで思いっきり漕いでやる。

 汗を掻くのは嫌だけど、しーなは背中にぺったり張り付いてるし、なんなら腕は俺の肩に回されてるし、だったら時間を掛けないで駅まで駆け抜けた方が早い。スピードを上げれば上げただけ風も切るから涼が取れるっちゃ取れますしね。


「すっげえスピード!」

「遅刻するってしーなが言ったんだろ!」

「言った言った!あー速ぇ〜!!風気持ちぃ~」


 勢いに乗ってぐんぐんスピードを増す自転車。

 ボロいからキィキィ甲高い音を立てるけど、前に自転車屋へ持って行って見てもらったら不具合でも何でも無いからぶっ壊れたりはしないらしい。うっせぇだけで。

 後ろで立ち乗りをしてるしーなは風の抵抗を受けないように背中を丸めて俺に抱きつくみたいにしてる。

 楽しそうな声を上げて騒いでるからそれはそれで良かったんですけど。抱き締められてなんだかドキドキする俺は、やり場の無い思いをそのまま足に向ける。


「きの!下り坂!」

「振り落とされないように気をつけて下さいよ」

「ひゃ〜っ!速ぇ~!」


 びゅんびゅん風を切って駅までの長い下り坂を駆け抜ける。坂の切れ目でシャッ!て音を立てて方向転換。


「ぅおっ!?」


 遠心力で吹っ飛ばされないようにしーなが更にギュッて俺に抱きついた。その弾みで俺の耳にしーなの髪がサラッと触れて心臓がどくんって脈を打つ。


 後は平坦なので軽く流して駅の近くの登録制駐輪場に自転車を停める。

 急にきた台風に巻き込まれたみたいにサラサラの髪を見事にグッチャグチャにしたしーなは、なんだか楽しくなっちゃったみたいで自転車から降りてもヒャッヒャッヒャッて甲高い声を上げて笑ってる。

 そんなに楽しいなら、また乗せてやってもいいですけど。


「いつもこうちゃんとこんな?」

「違ぇよ」

「俺だけ?」

「しーなだけ。こういうの好きだろ?」

「うん。好きー」


 こんなの毎朝やってらんねーよ。疲れるし。第一に朝の河野さんにやったら振り落としかねない。河野さんは昔からとんでもない運動神経してますけど、もう結構オジサンだって自分で言ってるから落とさないように気を付けてはいるんですよ。

 しーなは喜びそうだと思ったんだよな。見たところ未だに運動神経は問題なさそうですし?乗った瞬間からスピードに備えるみたいにしてたし、あー期待されてんなって思ったわけですよ。


 自分の髪を軽く手櫛で直してから、ひよこみたいに髪がふわふわと跳ねたしーなの髪を直してやった。

 俺に頭を差し出して無防備にされると変な気分になるんですけど、朝なので。

 そこはぐっと堪えて駅に向かいます。








【椎名eyes】





 夏休みの駅はほとんど人が居ない。

 地下へ下る階段でも他に足音がしなくて、日陰に入って少し涼しくなったけどやっぱり空気はムワッてしてる。

 駅の改札とかホームではポツポツ人が立ってるけど、きのは人の並んでない乗車位置に立った。


 二人して並んで待ってたら五分もしないで軽快な音楽が鳴り響いて電車が滑り込んで来た。

 最近は電車に乗ること自体があんまり無いし俺が使うのは地上を走ってる電車だから、暗いトンネルから電車がヌルッて登場するのを見るのは非日常って感じがして楽しい。

 プシュ〜ッて音を立ててドアが開いて乗客が何人か降りてきた。それと入れ違いで乗り込んだ車両の中に乗客は俺ときのだけだった。

 それくらいスッカスカ。


 冷房が効いた座席にきのと並んで座って、ぼ〜っと暗いトンネルの中を流れる光の帯を見つめてた。

 朝だし、二人とも言葉がないけどそれが嫌じゃない。何かを無理やり話していなくても全然大丈夫。そういうしずかな空気。

 単調なタタン……タタン……って電車の揺れが心地好くて、少し眠くなった。

 しんの家のある最寄り駅になっても、人は乗って来なかった。


「……っ!」


 適当に投げっぱなしだった俺の手に、きのの手がそうっと重なった。

 チラって暗い窓越しに見たキノはいつもと何も変わらない。

 でも重なった手を少し持ち上げて、そぅっと指と指が絡まっていく。

 俺の心臓はバックンバックンいつもよりも急ピッチで働き始める。

 ゆっくり、ゆっくりと指が絡まって、俺の手をきのの手が軽く握り込むみたいになった。

 何駅か過ぎたけど、周りには人は居ない。

 暗い窓はまるで鏡みたいで、すまし顔のきのと膝を擦り合わせるみたいにしながらちょっと俯いて口元のにまにまを噛み殺す俺が仲良く写ってる。

 車内はやっぱりタタン……タタン……って単調な音が響く以外は静かなまんま。


 なんか嬉しいなぁなんて思いながら、手のひらに感じるきのの指を握り込むみたいにしてみた。

 指の間にきのの指を感じて、また口元が緩む。


「……ふふっ」


 堪えきれなかったみたいにきのが笑った。

 誰もいない電車の中で、他の人が乗ってきちゃうまで二人してそんな風にして過ごした。




 大学までの道のりをなんとなく、ちょっとだけ距離を離して歩いていたら「おはよう!」って、大学校内に入ってすぐのところで声をかけられた。

 きのの家に泊まった俺は変に意識しちゃって、びくんっ!っ揺れて声のした方に顔を向けた。そこには恭くんが朝なのに爽やかな笑顔で立ってた。

 そういえば恭くんの家はそっちの校門の方向にある駅を使うもんね。登校時間なんて同じくらいになるはずだし、いつも会わないのは俺が車で来てるからだし、今日はたまたま俺がいつもよりも遅いから会っただけで恭くんはいつもこれくらいの時間なのかもしれない。

 よく見たら、恭くんの後ろにはこうちゃんが居た。まだ半分夢の中みたいでうつらうつらしてるけど。

 恭くんは左手でそのままだとそこら辺で寝ちゃいそうなこうちゃんの手を引いてるから、空いてる右手を軽く挙げてくれた。肩には恭くんとこうちゃんの鞄を一纏めにして掛けてる。

 たまーにこうちゃんは恭くんと一緒に来るんだよね。長く大学に居る学校関係者にはおなじみの光景だけど、手を繋いでるのは珍しいね。


「おっはよ〜」

「お二人ともおはようございます」


 恭くんがなんだか微笑ましいものを見たみたいに笑ってから、先に行ってるって校舎に向かっちゃう。

 まだ目が覚め切ってないみたいなこうちゃんもちっちゃい声で「ぅはよ〜……」って言ってから何かを言おうとしてたけど、恭くんにグイグイ引っ張られてその声は遠ざかって聞こえない。

 俺ときのに見送られて二人の背中は真っ直ぐに校舎へと消えていった。


 言っていいかちょっと迷ったけど、後で変な感じになるなら先に言っちゃった方がいいかなぁって。


「あそこまで堂々としてたら誰も何も言えないよねぇ」

「おや?ご存知でした?」

「でした」


 どうせきのは知ってんだろうなぁって思ってた。

 でもさ、きのにとってのこうちゃんってお兄ちゃんみたいなもんだから、知らなかったらマズイかな~って思って今まで話題にしたりしなかった。

 それはきのも同じだったみたいで、二人で顔を見合わせてにへらぁ〜って笑った。


 あの二人ね、俺が学生の時からこの大学の名物カップルだったんだよ。

 これ言うとこうちゃんは『迷物』の間違えだろ!ってむくれちゃうから言えないけど、ゲイのカップルが物珍しいっていうよりも逃げ回るこうちゃんを追い回す恭くんを皆が面白がってたっていうのが正解。しかも普段はぼーっとしてる眉目秀麗でクールな理系の毎年学年上位の先輩を、こっちは見た目チャラいけど文系の学年トップの後輩が毎日毎日「好きですー!」「付き合って下さーい!」って追い回してるんだよ。それに毎回毎回「断る!出直せ!」って返してて、出直していいんだー……って見た人は心の中で一回はツッコんでるんじゃないかなぁ。そりゃ名物にもなるでしょ?

 しかもさぁ、恭くんが付き纏ってる時だけこうちゃんは表情をコロコロと変えながらパチパチとサイダーが弾けるみたいにポンポンと小気味良く恭くんに返事を投げ返してるから、近づき難い雰囲気のこうちゃんにも感情があったんだねぇって皆微笑ましく見てた。

 俺なんかは学科が学科だから、悪いなーって思いながらも観察しちゃったりしてたんだけど、こうちゃんは嫌だ嫌だって逃げてる筈なのにたまに、ほんの少しだけ、わざと追い付かせてあげてるように見えた。よくよく観察してみれば、本当は嫌なんじゃなくて、どうしたらいいのか戸惑ってるだけで、恭くんの存在自体は嫌いなんかじゃなくて、寧ろ好ましく思ってるんじゃないかなってって思った。

 学科っていえば、ひろとか悪いからさぁ……、こうちゃんが卒業までに恭くんと恋に落ちるかどうか他所の学部の人とかと賭けしてたし。しかも、あんなん勝ち確やろ!とか裏で笑ってた。池田くんはこうちゃんと仲が良かったから優しく笑いながらも毎日じゃ気の毒だなぁとは言ってたけど、本気で嫌がってないから止めないって言ってた。

 小さなしんも大学に連れてきてたから、あの追いかけっこを見てたし、俺達三人が講義が被った時にこうちゃんや恭くんに預かってもらったりした。だから今でも二人に対する距離が近いんだよねぇ。


 二人みたいに堂々と手を繋いで歩いてみたいなぁって思ったけど、俺達は先生と生徒だからきのが卒業するまでダメだよね。

 分かってるけど、ちょっと羨ましいなぁって思っちゃった。俺、そういうのやったことないから。

 手を繋いでベタなデートとかしてみたいんだよね。


「ほら、 椎名さんもタイムカード押しに行ってきちゃいなさいな」

「あぃ!」

「先に部屋冷やしときますから」


 大学内だから呼び方が戻っちゃった……。

 仕方ないけど残念だなって思ってたら、きのが笑いながら手のひらを差出してきた。

 ちょっとの間お別れかぁってちょっと残念に思いながら部屋の鍵を手のひらに乗っけたら、手を離す前にパッて握り込まれた。瞬間的に顔が赤くなった俺に向かって笑ったきのは、くるっときびすを返して俺の研究室に向かっていった。

 なんかその背中がさっきの俺みたいに見えて、ダッシュで追い付いて、バッ!て飛び付く。完全に不意打ちだったみたいでトットット……ってたたらを踏んでからなんとか踏み留まった。

 やっぱきのって力持ちっ!


「おゎっ!?」

「直ぐ行くかんね!」


 驚いたのと嬉しいが半々に入り交じったような複雑な赤い顔。

 満足した俺は急いで職員通用口へ向かう。




「来宮と仲良くなったんだ?」

「ぉんっ!」


 職員用のロッカーで恭くんがニコニコ笑いながら聞いてきたから、俺もニコニコ笑って返した。

 そういえば恭くんは小さいきのを知ってるんだって。良いなぁ、小ちゃいきの、可愛いだろうなぁ。子供っていいよね。もちもちで、ぷくぷくで、なんか触ってるだけで癒される。しんも今でこそあんなイケメンさんに育ったけど、小さい時はやっぱりもちもちぷくぷくでいっつも、しいな!しいな!って俺のことを呼びながら後をついてまわって本当に可愛かった。


 荷物をロッカーに放り込んだこうちゃんが少し眠そうな顔で俺に向き直って、ぺこんって頭を下げた。


「キノをよろしくお願いします」

「ちょっと!あおい君!」


 恭くんが辺りをキョロキョロ見回すけど、他に誰もいないし、なんなら恭くんが動揺のあまりこうちゃんを下の名前で呼んじゃってる。二人の時はあおいくんって呼んでんだね~。

 周りに誰か居たらいくらボーッとしてる時のこうちゃんだって、デリケートな話はしないと思うよ。

 なんていうかね、学生時代にあのけっこうキョーレツな追いかけっこをしてた恭くんが周りの目を気にするのもなんか意外なんだけど……。もしかして子供が結婚する時の親の気分?あおい君そうなの?気が早くない?ってなんでか恭くんが慌ててる。

 こうちゃんときのの関係じゃそんな気分なのかもしれないね。俺もしんが結婚相手とか連れてきたらそんな反応しちゃいそうだし。って、まだお付き合いしてもないんだけど……。

 顔を上げてにへらって笑ったこうちゃんに、俺も笑ってぺこってお辞儀を返す。


不束者ふつつかものですが」

「椎名ちゃんも乗らないで!」


 恭くんが珍しくいっぱいいっぱいになってる。


 二人ともきのと付き合いが長いでしょ?その二人が俺がお付き合いしても気にしないどころか、喜んでくれてる。

 それがとっても嬉しい。


「上手くいったのなら良かった。言わなくても分かってるとは思うけど、来宮が卒業するまでは二人の関係は身内以外にはご内密に。……俺が言えた義理でもないんだけど」

「ご内密……秘密ね。うん!そうだよね」

「そう。秘密。まー面倒事にならないように頑張ってくれ」

「大丈夫!頑張る!」

「来宮が相手なら問題無いとは思うけれど。人前ではなるべく目立たないようにね」

「……お前がそれ言える立場か胸に手を当てて考えてみろ」


 こうちゃんは明後日の方向を見ながらボソッて呟いたけど、俺にはそうっと口に指を押し当てて頑張って秘密にしろって笑ってくれた。

 笑った俺の顔を見つめた恭くんが額を押さえて首を横に振った。

 何か不安?


「ま、来宮は頭が切れるし、こちらでもできる限りフォローはするから」

 こうちゃんに睨まれた恭くんがポソッと呟いてからニッコリ笑ってくれた。




「椎名。お前無事だったんだな」

 廊下で声をかけられて振り向いたらしんがさわやかに片手を上げてた。

 さてはお前、今日も課題をやらせる気だな!

「おはよ〜。また課題?」

「違ぇよ。まぁ、それも無くはないけど」


 心外だって肩を竦めてから先に立って歩く。

 でも、無くはないんならそれさぁ……。それに俺の研究室へやに向かってんだよね?ならやっぱ課題メインなんじゃないの?

 でもさっき無事だとか何とか言ってたね。


「お前、昨日の夜どこ行ってた?」

「あ〜……」

「鍵どうすんのかって何回メッセージ送っても既読になんねーし、三峯に聞いたらとっくに帰ってるはずだって言ってくるし。事件に巻き込まれてんならマズイかなって思ったけど、酔っ払って家で寝てるだけだったら騒いでもな……って思って早めに来たらお前さっき来宮と一緒に来ただろ」


 しんて凄いねぇ……。

 よく俺の行動パターンが分かってる。

 しかもきのと来たとこを見られてたんだったら、抱きついたのまで見られてたんじゃ……。


「来宮の家、お前の家と正反対じゃん」


 小さな声でイチャつくなら場所考えろよって聞こえたから、やっぱり見られてたらしい。下手したら電車も一緒だったりして。

 恭くんの位置からはしんの姿が見えてたのかもしれない。だからさっき恭くん変な顔してたのかも。

 釘を刺されたばっかりでこれかぁ。


 しんは一晩中心配してくれてたのに、俺は舞い上がってて連絡のチェックすらしなかったもんね。

 悪いことしちゃったなぁ……。

 本当はまた叱られそうで嫌だけど、ちゃんと正直に話すか。


「んと……きのの家にお泊り?」

「は?」


 しんの笑顔がピシッ!て固まった。

 いきなりお泊りだなんて言ったからかな?しんが今まで見たことのないような顔をして顔を引きらせてる。しんて顔が整ってるから、イラ~ッてした時の迫力が半端無い。

 絶対に変な方向で勘違いしてる!勘違いできのとしんがケンカになっちゃったら困るから、俺が深夜に押し掛けちゃったんだよ〜って説明したんだけど逆効果だったみたい。

 ヒクヒクッて口の端を更に歪めてから額を押さえて目を瞑った。

 多分、感情を抑えてる。


「押し掛けたって……お前、アイツ生徒……いや、そうじゃねー……」

「昨日はひろ達と飲んでたらすっげぇ気持ち良くなっちゃって、そんで急にすんごくきのに会いたくなっちゃって」

「アイツ昨日バイトだったよな?」

「帰りにきのの家の近くで迷ってたらバッタリ会ったんだよ。あ!寝る時しんの寝巻き借りた」

「マジかよ……アイツもよく泊めたな」


 ヘナヘナってしゃが込んだ。

 暫く蹲ってたしんが呆れたみたいにハハハ……って空笑からわらってからもんの凄い勢いで立ち上がって俺の部屋に向かってズカズカ大股で歩きだす。

 これケンカコースだ!慌てて心配かけちゃってごめんねって急いで追いかけて抱きついたら、もう良いよって背中をぽんぽんされた。

 取り敢えず拳は収めてくれた?俺のことになるとね、昔からダメなんだよね。俺以上に感情的になっちゃう。俺が自分で今バカにされた!?とか気が付くよりも先にしんが怒りだしちゃうんだ。自分が何言われたって気にしないのにね。

 やっぱしんのこと好きだな。

 俺の家族だもんね。



「おや、高遠じゃないですか。おはようございます、珍しく早いですね」

「おはよ。昨晩は〝ウチの〟椎名が帰ってこなかったからな。無事か確認しに早く来たんだよ。深夜に突然押し掛けて迷惑かけたみたいで悪かったな」

「いえいえいえ〝俺の〟椎名さんのことなら全ッ然!迷惑なんて微塵も掛かっておりませんので、お構いなく」


 部屋に入った瞬間、中で俺の散らかしてた書類を整理してくれてたきのにしんがケンカを吹っ掛けて、笑顔で火花を散らしだした。

 額がぶつかるくらいの距離で見つめ合って、本当に仲良しだよなぁ。


「ふつーさぁー、泊めるかぁ?」

「しーなは立派な大人ですからねぇ。いつまでそうして番犬セコムしているおつもりなんですかねぇ?」

「なに呼び捨てになってんだよ!」

「おや?何か不都合でも?」

「あるだろ!ここ大学だぞ!」

「自分だって言ってんでしょーが!」

「良いんだよ!俺は!」


 部屋はきのが先に空調を弄っておいてくれたおかげでかなり快適。涼しい。

 二人が仲良くきゃんきゃん言い争いをしてるのを見ながら、三人分のカフェオレを作った。


 柴犬とダルメシアンが仲良くジャレてるみたいで微笑ましいけど、そろそろ止めてあげないとねぇ。

 なんだか楽しそうだからもうちょっと見ててもいいかなって思ったけど、あんまりヒートアップさせちゃって本気のケンカになっちゃってもいけないしねぇ。


「そろそろ落ち着いて」


 落ち着いてもらおうと二人の前にマグカップを置いたら、工エェ……って変な声を出して仲良く仰け反って一気にクールダウンした。

 お前ら失礼だぞ!

 確かに二人が本当にケンカになっちゃわないか様子を見ながら作ったから、ちょっと……ちょ〜っとだけ、粉が多くなっちったけど!










【来宮eyes】





 なんだこれ……。

 目の前で異様な存在感を放ち過ぎているそれは、溶け切れなかった粉末のクリームと思しき塊がぷかぷかと浮かんでいて、時折ポコッ……プコッ……と小さな音を立てて中から真っ黒い泡が浮かんでは、ぽこん……て弾けて中から濁った焦げ茶色の液体と白いつぶつぶが溢れてくる。

 多分、底に溶け切れなかったコーヒーか粉末のミルクが沈殿してるんじゃないですかね。

 なにこれ。

 恐怖しかねぇんだけど。

 これ、飲み物なんだよな?


「し、椎名……」


 流石さすがの高遠も顔が引きった。

 俺の前ではいつだってスカしてるコイツにしては中々レアな顔だな。うん、まあ、これをどうぞ♪って言われたら俺殺されんのかな?って思うよな。わかる。

 いくら従兄だとしても、このキョーレツな飲み物はなかなか見たことないと思うんですよ。だって、ねぇ?

 ……マジで?


 しーなが困ったような顔をして俺達を見つめてる。

 悪気はねぇんだよなぁ、これ。

 たちが悪いことに、本人にしたらいつも通りの手順で普通にカフェオレ入れただけのつもりなんでしょうよ。作ってる過程でこちらを心配しながら何度か手元の確認を忘れただけ。

 いや、忘れんなよ。

 頼むよ。

 チラッと高遠を見つめたら、ごくり……と息を呑んで固まってたし、もう一度しーなを見たらやっちゃった感満載で固まってた。

 ……仕方がない。

 ここは俺が行くしかない。

 本音を言うなら行きたくねぇなあ!

 死にゃしねぇでしょうけど、嫌な予感しかしねぇわ!


 ごくっ……と自然と喉が鳴る。


「ありがとうございます」


 ぐっと見えないように机の影で左手を握って、マグカップに手を掛ける。

 ちょっと揺らしだけで泡が弾けて、見ただけでザラッとしてるとわかる何かが表面にジワッと広がるのを目撃して無意識にカタカタと指が震える。おまけにちょっと持ち上げただけで、コーヒー豆をめっちゃくっちゃにブチ込んで何時間も煮込んだ挙句、焦がしちゃった♡みたいな強烈な焦げ臭さが鼻に付く。

 これを、飲む……なんでインスタントコーヒーからこんな悪魔の飲み物が爆誕ばくたんしてんだ……。

 ごくり……また喉が鳴った。

 匂いと、これを口にした後のことを考えだけでもう口の中が唾液まみれになる。

 もうダメだ。

 考えてたら永遠に飲めねぇ。


 自身の健康を諦めて、一思いに口に入れた液体はどろどろと強烈な刺激を与えながらぐつぐつと喉に流れ込んで来やがった。刺激というか、もはや熱!溶岩でも飲み込んだのかってくらいに痛いっ!ヒリヒリ強烈な刺激で喉がける!

 頭の奥の方で今日は河野さんが大学に来てたな、なら最悪倒れても河野さんに担いで帰ってもらえれば……とか、俺とはいえ河野さんに担がせるなんて絶対にダメ!とか言って初町さんがタクシーで送ってくれそうとか家へ帰り着く算段をつける。こんなヤバそうな液体を飲んで声が出るか?バイトは病欠の電話をしてもらわなくてはならないかもしれない。


「き……来宮……」

「きの、なんか……俺……ごめん」


 くあ~……っ!

 悪い。声が出ない。

 飲み終わってんのにまだ喉がヒリ付くように熱い!胸から言いえぬムカムカが競り上がってくるし、口が閉じられない。

 こんなの口ん中に閉じ込めてたら焦げ臭さで倒れる。


「まぁ、がんばりましたって事で」


 高遠が俺の空になったマグカップに湯を注いで渡してくれた。

 注がれたお湯がマグカップにこびり付いた残りカスを溶かして、さっきのキョーレツな飲み物の正体がやっぱりカフェオレだったんだって教えてくれた。

 だから、市販の物をどうしたらあんな……クッ……考えたら負けだ。

 考えんな、俺!


「……ンンッ。美味しかったですよ」


 無理矢理作った笑顔を見たしーなが安心したみたいに笑った。

 引き攣りながら苦笑いを浮かべた高遠が、自分用のマグカップを一気にあおろうとして、喉を通った辺りで盛大にせ返る。

 気の毒になるぐらいゴッホゴッホッて噎せに噎せて、天を仰いでからテーブルに突っ伏した。


「うっ……おぇえぇぇえ〜……」


 高遠……キャラ変わってますよ?

 口を押さえてどうにかこうにか吐き出すのは耐えたらしいですけど、今まで見たことのないシワッシワの顔でマグカップをテーブルに戻して喉の付け根を抑えて口をハクハクさせてる。

 心中お察し致しますよ……。

 今度は俺がお湯を注ぐ番ですね。


「にっが……まっぢぃ……」


 そりゃまぁ、あの匂いで美味かったら奇跡だから。

 俺はしーなの笑顔の為に自力で奇跡を起こしただけですからね!

 相手がしーなじゃなかったら、まずはお前が先に飲んでみせろよって勧めたやつに突き返してるわ。

 武士の情けで入れてやった白湯を飲んでもまだダメらしくて、目に涙を溜めてうぐって嘔吐えずいてる。


「あ〜……胃がムッカムカする」

「しん……えーっと、だいじょぶ?」

「……一口でこれかよ。あのさぁ、来宮って味覚おかしいんじゃねーの?」


 おかしくねぇから!

 正常だから苦しんだんだろうが!

 アンタ、見てたから俺に湯をくれたんでしょーが!


 大抵のことは笑って許す高遠の尋常じゃない様子に、しーながおろおろしはじめた。

 流石さすがの高遠にもあれはキツかったよなぁ……。いつもの程度のやらかしならば、まぁなんとか取り繕えたんでしょうけど。味覚っていうか、痛覚っていうか、気合いでどうこうできないレベルの衝撃を前に陥落せざるを得なかったらしい。

 俺だって、ギリギリでしたよ。

 今だって胃が痛いですからね?

 夜バイト中に胃痛で倒れねぇだろうなって不安に思っていますとも。


「……帰る」


 はい?

 荷物を持ち上げた高遠がぷりぷり怒りながらドアに手を掛けた。

 何がなんでも俺としーなを二人きりにしてたまるかっていう気概のこもった鉄壁のガードはどうしたんです?

 少し背を丸めて鳩尾みぞおちの辺りをしきりに撫でているから、他のことに構っていられないくらい深刻にカフェオレダメージが響いているのかもしれませんけど。


「あのさぁ。一応認めてやるから」

「はい?」

「椎名と付き合うの、認めてやるっつってんの!」


 今小さな声で〝不本意だけど〟って言っただろ!

 聞こえたっつの!


 何度だって言ってやるけど、元々のきっかけを作って俺の平々凡々な人生をとんでもねぇ方向へ軌道修正しやがったのはお前ですからね!


 不機嫌そうな高遠はそう吐き捨てて部屋を出ていってしまいました。

 残された俺としーなは顔を見合わせてから苦笑い。

 だって、付き合うとか、ねぇ?

 しかも、あんな態度を取られたんじゃさっきの液体がとんだポイズンドリンクだったってバレバレじゃねーか。

 俺の努力をどうしてくれんだ。 


「きの、今の本当はまずかったんでしょ?ごめん。飲んでくれてありがとう」


 案の定しゅん……てしてしまったので、これ幸いに垂れてきた頭を撫でてみました。あー、サラッサラの髪が気持ちいい。

 落ち込んだのは可哀想だけど、分かりやすく落ち込んでいてそれはそれで可愛いですよ。惚れた弱みってやつですかね。何やってても可愛い。


「俺は大丈夫でしたよ」


 本当はすげぇ味だったけど。

 注意を逸らしたこっちにだって非はあったんですからおあいこですよ。

 曇った顔も魅力的ではありますけど、しーなにはやっぱり笑っていていただきたいんですよ。


 俺に撫でられて復活したしーながばっと顔を上げる。


「あのあのあのっ!」

「はい、なんでしょうか?」


 急に慌てたみたいにずいっと首を伸ばしてきたしーなが捲くし立てるみたいに話し掛けてくる。

 なんか頬が赤い。

 このヒト本当に分かりやすいな。


「さっきの!」

「さっきの?」

「しんの!」

「あぁ……」


 さっきのって、今さっきのか。

 確かにしーなを動揺させるには十分な捨て台詞ゼリフでしたね。俺だってビックリしましたし。

 お前がそれ言う?って。

 実の姉貴が結婚しようが何しようが全く興味も無いくせに、しーなに関しては本当に狭量なんですから。


「付き合うって……」


 口をぱくぱくさせながら言うから、つい手が伸びてしまいました。


 触り心地の良い頬を撫でてから身を乗り出して、薄い唇を食むようにして口付けをした。

 今度は顔を近づけたと同時に目を瞑って薄く唇を開いてくれました。

 さっきの焦げた匂いがするキスになったら悪いな、とは思ったんですけど。味まではしないはずなんで、少し耐えて下さいね。


 あ、甘い……。

 俺の口がバカになってんのか、しーなの口ん中が甘く感じる。

 鍵が掛かっていないので少しで止めておくはずだったのに、抵抗も何も身動みじろぎひとつされないからうなじに手を突っ込んでしっかりと堪能してしまった。


 最初に姿を見た時にはこうなるだなんて、全く思いもしなかったんだけどなぁ。

 精々ちょっと親しくなって、青春の一ページの中に収まる程度の存在だろうなって思ったのに。

 それがどうしてこうなったんだか。


 確かにそうだな、

 落っこちたら、はいおしまい。



「俺と付き合って下さいませんか?」



 口をいて出た言葉が今まで発したどの言葉よりもずっと重たくて、体が小刻みに震えるくらいに緊張して、思わず胸の辺りを押さえた。

 惚けてたしーなの顔の赤みがみるみる濃くなっていく。


「え……」


 いつも以上にわかりやすく緊張して、口をひし形に空けたまま俺を見つめている。

 あまりにも固まっているので駄目押しにこちらから何かを言った方が良いのかもしれない、とか考えた。

 でも迂闊うかつなことを言ったらまた変に混乱させそうだから黙ってしーなが何かを言うのを待つ。

 しーなはまだ口を開けたまま固まってる。


 暫くそうしてから始まったのは、とんでもねぇやりとりだった。

 こういう時って、OK貰って大団円フィナーレじゃねぇの?


「きの。俺ってきのから見たらオジサンだよ?」

「まぁ世間的にはそうでしょうね」

「俺で良いの?付き合うんだったら優しい女の子とか、親切な女の子とか、ふわふわな可愛い女の子とか、キリッと綺麗な女の子とか……」

「しーなは優しくて、親切で、素の時はふわふわしてて可愛くて、講義中とかキリッとしてて凛としててとても綺麗ですけど?」

「う……ほら、しんみたいなタイプとかの方が良いんじゃないの?一緒に居るといつも楽しそうだし」


 恐ろしいことを言うヒトですね。

 先に言った女の子とやらはまだしも、なんで俺が高遠とどうこうならなきゃならないんだ。ヤる時どっちが下なんだよそれ?体格的に俺だろ。心の底から嫌だわ!御免だわ!アイツとは腐れ縁がちょうどいいんだよ。

 しかし、なるほど。

 しーなにとってあまりにも心配になる歳の差か……。


 なるどねぇ……。


「ふぎゅっ!」


 気持ち悪い想像をさせて下さったお返しに鼻をつまんでやりました。

 驚いてきゅっと両目を瞑るのが愛らしくて、これ良いな。クセになりそうだわ。

 不安なのはわかりました。

 が!


「俺は、あなたが好きなんです」


 わかって下さいね?

 可愛い女の子も、親切な女の子も、あとなんだっけ?そんなもん要らねーんですよ。俺が隣に居てほしいのはアンタなんだから。タダでくれるって言ったって丁重にお断りさせていただきますよ。

 人をこんなに夢中にさせておきながら、本人に自覚がないだなんて本当にたちが悪いったらない。


「でもっ」

「まだ言います?」


 まぁ、しーなは大人ですからねぇ。

 対する俺はしーなから見たらまだまだ子供に見えるんだろうし、そうしたらこの反応も仕方ないのかもしれない。

 何かを言いかけてる唇に人差し指をピトッと押し付けて黙らせた。


「もし、しーなが嫌じゃなかったら。ですけど」

「ぅん?」

「よぼっよぼのじじいになっても、一緒に居るつもりなんですけど」


 みるみる笑顔になるんだから。

 こんなに愛しい人を手放せるわけが無いじゃないですか。

 そうしたら、ねぇ?

 それくらいの覚悟くらいしてますよ。

 教えてなんかやらないけど。

 しーなを好きなんだって分かった時に考えたんだよ。

 相手がしーなが言うみたいな女の子だったら普通すぎて考えなかったと思うんですけど、しーなを選ぶんならそりゃあリスクとか、一緒に居る為に何をしなきゃならないかとか、ライフプランを一通り。

 ビックリするくらいアッサリ思いついて、一緒に爺さんになって縁側で茶をすする姿まで何となく想像出来ちゃったんだよ。


「ずっと、一緒に居てくれるの?」

「さっきの訂正」

「えっ?」


 顔色が悪くなった。

 もしかしてしーなって俺が思ってるよりもずっと繊細に出来てんですかね?

 本当にしょうがねぇなぁ。


「しーなが嫌がっても、放してやる気ねぇから」


 幸せになる覚悟をして下さい。

 こちらはもう、出来てますので。

 何が起きても俺を信じて下さい。

 俺は何があってもちゃんとしーなを信じますんで。


「卒業したら、一緒に住みますよ」


 また花が咲くみたいにブワァッ!て笑顔になった。


「うん!」


 後は、卒業まで秘密を守り抜くだけ。

 二年前と半年。

 先がなっげぇなぁ……。






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