3.Mid Summer





【来宮eyes】




「またしても同じ事を……」


 ギラギラと肌を焼く真夏の太陽と底抜けに輝く青空にとても良く映える白い紙吹雪。

 今日は風も弱いから舞い上がった紙の花は、直ぐにはらはらと空から舞い降りてきた。苦笑いをしながら前回同様に拾って、眺めてみればこの前とはまた少し違った書類のようですね。

 全部拾い集めたかどうか確認しに顔を上げたら丁度良く椎名さんの部屋の窓から半泣きの顔が覗きました。


「椎名さん。おはようございます」

「きのー!それ俺のやつー?」

「そうですよ」

「ありがと~!マジで助かった〜」


 俺に気がついた途端にふにゃ~って笑顔の花が咲いた。

 ぱぁぁぁって。

 昨日の今日だから気まずくなってしまうかとも思っていたので、この顔が見れただけでもう暑い中わざわざ大学までやってきた甲斐が有るというものです。

 今日も愛らしくて大変結構。


「こんのドあほぅがっ!早よぉ取り行けや!」


 おや?知らない声がして、椎名さんの顔が慌てた表情に変わってヒョイッと引っ込んだ。

 何が何だか訳が分からないままではありますが、部屋に行ってみないことには始まりません。

 どうせお友達とかそういう方がいらしているのでしょう。


 校舎に入って階段に向かう。

 大きな採光窓のある階段を登りながら真っ白い壁に真夏の太陽の陽射しが照り返って忌々しいと目を眇める。廊下や階段は空調が効いていないので暑いんですよ。

 踊り場に足を掛けながら空を見上げたのと同タイミングでパシッ!と派手な音を立てて何かが踊り場へ落ちてきた。


「きの!本当にごめんね〜」

「椎名さん……」

「おはよーきの!」


 前のボタンを一つも留めていない白衣の裾をマントみたいに翻して、素晴らしい身体能力で階段の途中から飛んできたナニカの正体は椎名さんでした。

 小学生のようなことを……。

 俺に抱きつきそうな勢いで手を広げられてつい苦笑い。犬か何かを迎えるみたいな仕草ですねぇ。

 ここは曲がりなりにも大学の敷地内なので、抱きついたりはしてやりませんよ?


「椎名ッ!早よ片しに来ぃや!」

「あ〜ぃっ!」


 また聞こえた聞き慣れない声。


 軽く混乱している俺に気がついているのかいないのか……気がついちゃいませんね。椎名さんにそんなことを期待するだけムダです。

 またギュッと俺の手を握って部屋に向かう。

 しかも急いで部屋に戻ることに集中してしまった椎名さんは俺と手を繋いでるっていうことが頭からスッポリと抜け落ちたらしくて、元気に一段抜かしで階段を駆け上がってくもんだから俺まで付き合って一段抜かしで飛び跳ねる羽目になった。

 本日二度目の「小学生かよ!」ってツッコミを頭の中で叫びながら必死についていく。実際に叫んだら十中八九舌を噛む。

 あのですねぇ、そもそも椎名さんの方が身長があるんですよ。しかも手足が冗談みたいにスラッと長い。

 俺は標準体型なんだよ!ついてくだけで必死にもなるわ。

 息が上がりかけながらそれでも先程の椎名さんの返事が親しい人に向けてのそれに似ている気がして、胸の奥の方がざりざりとし始める。

 さて、今度の感情は一体なんでしょうね?

 嫉妬……というやつでしょうか?


 階段を駆け上がって、椎名さんの部屋まで廊下を引きられるみたいにして紙束を胸に抱えたまま駆け抜けていく。

 出会った頃、椎名さんの動きをコミカルだと思ったことがあった気がしますけれど、今の俺も他から見ればご同類なのでは?こんなの以前の俺に言ってやったとしても信じないでしょうねぇ。

 お前コイツに情緒を滅茶苦茶に引っ掻き回されるぞ。しかもそれが楽しいとか思うようになるぞ、なんて。ね?


「あぁん?客来る予定だったん?」


 少し訛った言葉と一緒に部屋から顔を出した人物にはやっぱり見覚えが無い。

 肌が透き通るように白い背の高いせぎすの男。年齢はそれなりに重ねているらしく少し草臥くたびれたような印象はありますが、それは実年齢詐欺の椎名さんや河野さんを俺が見慣れてしまったせいかと。

(初町さんはアレでちょっと異常なハイテンションな時があるので違う意味の年齢不詳と致します)

 普通のこの年代の男性に比べて寧ろ色気のある草臥れ方をしているのかもしれません。

 さて、どちら様ですかね?


「おぅ!きのだよ」

「毎度の事ながらお前の説明は色々と足りへんな。ん?きの?どっかで……あ〜、あれか。椎名が絶賛片想い中の学生。手ぇなんか繋いで上手くいったんか」

「ぎぃやぁあああ〜っ!」


 俺と繋いでた手を解いた椎名さんが、物凄い奇声を上げながら慌てて彼の口を塞ぎにかかる。

 本当に大袈裟でパントマイムか何かですか?と聞きたくなるくらいドタバタとした動きで、アホみたいに長い手足を持て余しながらドッタンバッタン暴れる。

 それをそこだけ血色の良い薄い唇にニヤリ笑いを張り付かせた男は、そうはさせまいと軸足を動かさないまま器用にヒョイヒョイと避けて回る。しかも逃げ回りながら椎名さんが俺をどう思っていたのか、どう思っているのかをわざとらしく話していく。

 その度に彼の言葉をなんとか覆い隠そうと椎名さんが奇声を上げる。

 椎名さんは中々彼を捕えることが出来ずに、恐らくはこんな目に遭うと思いもしないで口にした想いを次々と本人おれの前で暴露されていくのが不憫だ……。

 彼の方が椎名さんよりも身長が高い。何よりフットワークが軽いので、椎名さん自身としては必死なんでしょうけど、こちらから見たら飼い主に転がされて息を荒くして喜んでいる犬みたいでとても愛らしい。


「だめだめだめだめ!何言ってくれちゃってんの!やめろバカ」

「バカだぁ?こんなんお前の事だし、そんなに近しい相手ならモロバレしてるだろ」

「だ・ま・れぇぇえええええ!」


 彼によじ登るみたいにした椎名さんがやっと彼の口を塞いだ。

 塞がせてもらったと表現した方がより正確かと。


 言ったら可哀想なんで言いませんが、すべて、まるっと聞こえておりましたとも。

 そりゃあこの距離と声量ですからねぇ。












【椎名eyes】





 ひろのバカ!

 きのに聞こえちゃったかもしれないじゃん!

 慌ててひろの口を押さえたけどもう遅かったかもしれない。

 昨日の事があるから俺に好かれてるのがバレたって大丈夫かもしれないけど、こういうのって他人の口から聞かされるのは違うでしょ!ちゃんと自分から伝えないとダメでしょ!

 俺まだきのにそういうの何にも言えてないし、なんなら片想いしてるとかひろに言った覚え無いし!

 しかもしかも、よりにもよってなんで俺のいる目の前で本人にバラしちゃうのかなー!


「で、椎名さん。そちらの方はどなたで?」

「ひろ」


 俺の手をペッと振り解いたひろが、か~なり冷ややかな視線で俺を見た。

 呆れてますって分からせるみたいに大きく息を吐き出して、海外の映画みたいなオーバーリアクションで肩を竦めながら手を大きく開いて首を横に振った。きのもなんでか苦笑いを浮かべながら俺とひろを見つめてる。


「お前ほんっまに会話ヘタクソやな。あー、きの?俺は三峯みつみね広嵩ひろたか。そこのアホの大学の同級生ってやつな」

「やはり親しい方だったのですね。なるほど、同級生でしたか」

「おぅ。俺は留年してるから歳は少し上だけどな」

来宮きのみや哲哉てつやと申します。ご認識の通り、椎名准教授の講義をとっておりますしがない学生です」


 そういえばさっきから西特有の喋り方がちょっと出て、標準語と混ざった不思議な言葉遣いになってる。ひろ、あんまり知らない人の前ではやらないんだけど。

 ひろの自己紹介に納得したように頷いたきのが自己紹介を返して綺麗に頭を下げる。


 そういえば今日って来る予定の日じゃなかったよね?何か用事があったのかな?連絡は来てなかったと思ったけど……。

 携帯電話は習慣で家を出る時にマナーモードに切り替えちゃうからなぁ。定期的に確認する時間まで気が付かないなんていつもの事だし。


「来宮。だから『きの』な」

「はいそうですね。そのように呼ぶかたが椎名さんの同僚にいらっしゃるので、そこから来ているようですね」

「なるほどなぁ。話には聞いてたけど。まぁ……そうやな、一見すると品行方正ではあるが聖人君子ではない。それどころか中味は相当肝が据わってそう、と。……ふーん、まぁええとこか」

「ひろ!」


 初対面で下から上までジロジロ見ないの!しかも言ってる内容!それ失礼だかんね!

 俺はきのが嫌な思いしちゃわないかってさっきからやきもきしてるのに、当の本人は全然気にしてないみたい……。

 寧ろなんか意気投合したみたいで和気藹々わきあいあいと話してる。

 何を言われるかドッキドキの俺を他所に、二人して主に俺のドジった話で盛り上がるのやめてくれない?

 なんか居た堪れないんだけど。


 そろそろ話題をね、変えないとね?


「きのちゃんきのちゃん?」

「はい?」

「今日はどうしたの?」


 入口で楽しそうに話してるきのからさっち散らした書類を受け取って平静を装いながら部屋に入る。

 行方不明の書類がないか確認しながら恐る恐る聞いてみる。

 きのって来る時には絶対に連絡くれるから、事前連絡無しで来るなんて何かあったかなぁ〜って。


「あー……お届けものです」


 きのがちょいちょいってひろから見えない角度で腰の当たりを指したから、慌ててメッセージアプリを起動させた。

 礼儀正しい朝の挨拶の後に、昨日持ち帰っちゃった鍵を無いと困るだろうから届けに来てくれるってメッセージがしっかりあった。


「あー!家の鍵!!きのが持ってたんだ!」


 きのが苦笑いしながら家の鍵を取り出して、俺の前まで来て手渡してくれた。

 昨日どこかに落としてきたんだと思って今日はしんに渡してるスペアキーを借りて来た。

 無くしたんじゃなかったんだ。良かった~。最悪ドアの鍵付け替えかと思ってたんだ。


「家の鍵ぃ?お前どんだけ……」


 あー……やっちゃった……。

 今のは俺がやらかした。

 折角きのが気を遣ってひろに分からないように伝えてくれたのに、自分からアホっぽくバラしちゃった。


 こうなったら仕方がない。


「酔っ払ってたの!仕方ないんですぅ〜」

「仕方ないことあるかぃ!普通の奴は家の鍵届けてもらわへんやろ!しかも学生に!!」


 俺だってそう思ってんの!も〜っ!さっきっからひろうっさい!

 そんなん言われたらなけなしの俺の威厳が更に失墜するから!

 失墜どころか落ちるとこまで落ちて、更に穴掘る勢いだから!

 どこに掘るのか知らないけど!

 きのに呆れられるのは嫌だ!


「あ〜っ!もぅっ!ひろのバカ!」

「はいはいはい。そしたら邪魔者は退散してやるわ」

「ばぁぁあかぁ〜っ!」

「あーはいはい。また夜なぁ」

「ばかぁぁ――――ッ!」


 語彙力ごいりょくが死んだ。


 ひらひらと手を振ったひろが部屋を出て行って、涙目で叫んだ俺とちょっとうつむいてプススッて笑ってるきのが部屋に残された。

 急な出張でこっちに来てたひろから朝早く連絡があって、懐かしついでに大学に顔出しに来る事になった。ついでのついでに久しぶりに夜に食事に行こうって。

 それなのにきのに変な事ばっか言ってくなんてなんて酷い奴だ!


「大変仲がよろしいようで」


 きのはわんこみたく無邪気に笑った。

 二人きりになって、この短い時間に晒しまくった数々の恥が頭の中をぐるぐる回り始める。


「仲は良いよ。良いけど容赦ない……」

「そうですか?」

「そうだよ〜」

「でも俺はとても良いことが聞けましたけど」


 良いこと?

 俺はひろを黙らせるのに夢中だったから途中からひろが何を話していたのか良く聞いてなかった。だって、片想いとかいきなり言われたら普通は慌てるでしょ?

 しかもたちの悪い事にそのほとんど全部が本当の事だから、なにがなんでも口を塞ぎたくてそっちに集中しちゃってた。


 きのはくふくふ笑ってるからひろのやつろくでも無い話をしたんじゃねーの?



 良くは分からないけどなんだか楽しそうだなって首を傾げて見つめてみたら、きのは口の端っこをにぃぃって引いて、唇が薄くなって柔らかく弧を描く。

 俺の目の前で少し身を屈めるような動作をしてから、ゆっくり深く腰を落としていく。

 きのを追うように目線を下げようとして、顔ごと下げた俺をきのはそうっと下から覗き込むように見上げてくる。それから、俺の膝に手を当てたきのはくぅぅっと猫が背中を伸ばすようにして近づいてきて、ふんわりと俺の唇にきのの唇が触れた。


 ここ、大学。

 びっくりして目を開けたままの俺に、きのはそのままふふって不敵に笑ってみせた。

 何かに迷ってるみたいにきのの指が俺の背中をゆっくりと爪を引っ掛けながらまさぐる。

 白衣特有の繊維の引っ掛かるような感触越しに、これから先を実行していいか悩んでるようなささやかな感覚が背中をつぅ……とすべり落ちて、それからグッて抱き締めるみたいに背中と腰を抱き寄せられた。


 心臓が口から飛び出るかと思った。


 屈んだきのに脇の下から腕を回されて抱き寄せられた俺は、前傾姿勢のままでなんとかバランスを取ってたんだけれど、さすがにそろそろ体勢を維持するのが辛くなってすがるようにきのの肩に腕を回した。


 きのの手のひらがゆっくり俺の腰から背骨を伝って、肩甲骨、それから首の後ろを通って、忙しくて切れないままで伸び放題の襟足をクシュッて軽く握って、それから、それから……


「……っ!」


 んっ?

 唇に違和感。

 ぬるって唇に湿った感触がしたから驚いてつい口を開けた。それを待ってたみたいに薄く開いていた唇の間に舌が差し込まれて、唇の角度が少し変わってあー、これ鼻がぶつからないようにしたんだとか余計なことを考えた。

 他人の舌が自分の口の中を滑る感覚の経験なんて全然ないから、どうしたらいいのかわからなくって。でも嫌ではなくて。目が合ったまま固まってたら、きのの瞳がが優しく笑ったから、またオレはどうしていいか分からなくなってぎゅ〜って眼を閉じた。


 そうしたら、外から響く蝉の声と、換気用に少し開けたままの窓から入った風でカーテンが揺れる音と、身体中を反響するやけにばくばくとうるさい心音が同じくらい近くから聞こえた気がした。


……時が止まったみたい。


 しんが言ってた少女マンガの主人公て、こんな気持ちなのかな?

 マンガとかドラマの女の子の気持ちとかいまいち感情移入出来なかったけど、今ならわかる気がする。

 世界中の全部が切り取られて、今、この瞬間だけ。


 他のものの入る余地なんてどこにも無くなった。


「椎名さん」


 ぼーっとしてたら、いつのまにかキスは終ってた。

 呼ばれて我に返った俺にまた顔を近づけたきのが、俺の唇に人差し指の腹を押しつけた。


「あなたが好きです」


 何か言わなくちゃって思うのに言葉が出てこない。

 何か言わなきゃ、変に誤解されたら大変だって思うのに、物語の主人公達は簡単に答えてるのに。

 どうしたらいいのかわからない。

 頷けばいい?

 でも、きのの指が俺の唇をそっと押さえてるから動けないし言葉もつむげない。

 どうしたらいいか考えてまごまごしてたら、きのはスラリと長い人差し指を少し離してから角度を変えてまたそうっと押し当てた。

 俺の目をじっと見つめながら、指にチュッてリップ音を立ててキスをしてニッて笑った。

 きのの指を挟んでキスしたみたい……。


「秘密ですよ?」






 部屋の真ん中に座り込んで魂が抜け落ちたみたいに呆然としてる。

 きのはまた明日って言って帰っていった。


 俺は論文用の資料をまとめなきゃならないのに頭が働かない。

 完全に思考停止。

 体に力が入らない。いい年なのにみっともないって思うけど、顔がカッカッしてて、『また明日』がただ頭の中をくるくる回る。

 蝉の音が遠くでわんわん鳴ってる。

 本格的に働き出した空調が低いモーター音を立てて、カーテンは僅かにはためくだけ。

 自然に手が頬を覆う。


『あなたが好きです』


 頭の声が不意に切り替わって、ぐわんぐわんリフレインしはじめる。

 きのは俺が好き。

 生まれて初めて言われた。

 恋愛が不得手な俺にも理解わかる、これ以上ない好意の言の葉。

 俺を、好き。


『秘密ですよ?』


 でも、秘密なんだ……

 あ!そっか。俺が先生できのが生徒だから。ん?きのっていくつ?しんと同じだから……二十歳?誕生日次第じゃ二十一歳?俺が三十一歳だから……


「う~っ!わ〜っ!!」


 と、歳の差が半端ない!エグい!

 思わず頭を抱えてうずくまった。

 だって、だって、ねぇ?やっぱダメだって!マズイって!それはないって!しんと恋愛するのと変わらないじゃん。それ、ダメだって。倫理的にアウトだって。


「犯罪だよぉ……」

「何が?」


 顔を上げたら目の前に懐かしい顔のドアップが広がって、びっくりして後ろに引っ繰り返りそうになった。


「あああああ」

「久しぶり」

「池田くんっ?」


 俺とひろと池田くんは三人で一緒のゼミだった。

 在学中はいっつも三人でつるんでて、卒業してからひろは地元に待たせてた彼女と結婚するからって関西の企業へ、俺は大学に残って池田くんは海外からお声がかかって三人バラバラの進路になった。

 誰でもそんなもんだと思うけど、すっごく仲が良かったのに社会に出たら中々顔を合わす時間がなくなっちゃった。

 電子的な連絡は頻繁に取り合ってるけど。


「いつ帰って来たの〜?」

「ついさっき。しんから三峯も来てるって聞いて懐かしくて大学こっちに顔出しに来ちゃった」

「そうだったんだ〜」

「一応弁明するけど、ちゃんとノックもしたし声もかけたよ?中覗いたら椎名、何かうずくまってるし?具合悪いのかと思ったらなんか元気にうなってるし、百面相してるし?何か厄介事にでも巻き込まれてるの?」


 うぐ……。昔から池田くんには何でもバレバレなんだよねぇ。どれくらいバレバレかもいうと、顔色を見ただけで秒でバレるレベル。

 殆どはレポートの提出期限を間違えてたとか、講義の時間変更見落としたとか、そういうくっだらないやつなんだけど。わざわざバラして恥かくことも無いから黙ってようって思っても、池田くんにはすぐバレちゃった。

 今回のこともどうせしんかひろからバラされちゃうだろうし、その前に自分から言っちゃおうかなぁ。

 付き合いも長いし、俺の思考パターンなんてお見通しの池田くんは相談するのに一番適役だもんね。


「で、椎名の考える一番の障害が歳の差なわけね」


 俺の話を一通り聞いた池田くんは椅子に腰掛けて俺の入れたコーヒーを口に含んでから、なんでかしまった!って顔をした。

 軽く咳払いをしてからマグカップをテーブルに置いて、指でツゥッと自分から遠くへ置く。


「うん。きのと俺じゃ年齢差がね」

「俺はそこは気にしなくて良いと思うけど。相手は成人してるし、致した訳でもない。椎名はただ告白をされただけなんだから、現状だけなら犯罪かどうかといったら違うでしょ」

「でも!先生と生徒だよ?」


 また指先でマグカップをツンツン突っついて、優しげな顔に人を安心させるような柔和な笑みを浮かべた。

 笑った時に目尻に寄る皺を見たら、本物の池田くんなんだなって懐かしさが溢れてきて、さっきまで大暴れしていた胸がほわっと温かくなって落ち着いてきた。


「そこは相手が卒業するまで黙ってれば?それこそ、その子が言う通り秘密にしていたらいいでしょ。好きなら胸を張ってれば良い。椎名はそのままで良い」

「でもさ?秘密になんて出来るかな……」

「出来る出来ないじゃなくて、やるんだよ。それに、人を好きになるのは悪い事じゃないと俺は思うよ。特に椎名はね」


 ひろが前に言ってた。

 俺は鈍いから、その子のことを好きだって気が付いた時には恋が終ってるんだって。

 とっても好きで、どうしようもないくらい好きだってわかった時には、もう相手は俺に脈が無いんだって思って気持ちが次の恋に向いちゃってるんだって。

 気がつくまでに長いと一年とかかかっちゃうから、相手の子だってそんなに待っていられない。


 そういう問題点を俺に口で言っても理解できないのは皆わかってるから、学生時代は誰も教えてくれたりしなかった。

 ただ、後からその置き場の無い想いに気が付いて悲しくなる。


「お前に現在進行形で恋心を自覚さしてくれる奴やったら、安心して任せられるんやけどなぁ」


 ひろがいつだったか飲みながらしみじみ呟いた。

 それが嬉しいような、悲しいような、変な気持ちになったから今でもよく覚えてる。


 失恋と呼ぶにはあまりにも不完全で、始まる前に終わりを迎えていて、追いかけようにもその背中の行く先を見失ってから気が付く。

 恋愛とか俺には向かないんだなーって寂しいような、でもまぁ、それが俺には合ってるのかなっていつの頃からか諦めた。人には向き不向きがあるんだって。恋愛は俺には難しいから学問とかでるのが向いているんだって、そう思うことにして今まで生きてきた。

 だって、そう思わないと寂し過ぎるから。


 でも俺は、きのが好きみたい。

 きのに俺のことを好きでいてほしいって心から思う。

 俺に向かって笑いかけてくれる優しい笑顔が誰よりもあたたかくて、視界に入れてくれるだけて胸がぽわってなる。


 はじめて、意識した。

 ずっと霧の向こうにいるみたいな良く見えない相手ばっかりを好きになっていたのに、今はちゃんと相手の姿が見えてる。

 きのの姿をしっかり意識して、してほしいことがある。

 俺の名前を呼んで欲しいって、思える。


 やっと俺は背中に追いつくことが出来たんだ。

 今回は、俺が手を伸ばしさえすればちゃんと手は届くんだ。



「来宮君か……。一度会ってみたいね」

「池田くんが会いたがるなんて珍しいね」

「うん。だって、興味深いよ。とっても」


 ふゎんって笑った池田くん。

 夜にひろと飲むから誘ってみようかな?池田くんはいつも忙しそうだけど、ちょっとくらいなら時間空かないかな?

 ひろと二人に話を聞いて欲しい。だって、この年になるまでまともな恋愛したことないんだもん。

 相談するのが恥ずかしい気もするけど、そんなこと言ってる場合じゃないし。


 多分だけど、きのは背中を向けてないと思う。

 いつもの優しい笑顔で、俺が追いつくのを忍耐強く待っていてくれてる。

 俺の伸ばした手をちゃんと掴まえてくれる。

 離さないでいてくれる。

 根拠も自信もないけど、そう思える。


 そう、思えた。









【来宮eyes】





 あー、やっちまった……。

 またしても俺らしくもない行動をとってしまった自己嫌悪を感じながら開店前のバイト先でグラスを磨く。

 明日どんな顔して椎名さんに会えばいいんだよ。明日は高遠も居る予定だし、あのヒトが器用に立ち回れるだなんて到底思えない。


「はぁ……」


 柄にも無く三峯さんの言葉にすっかり嬉しくなってしまった。

 そんなに前から意識されていただなんて思っていなかったし、それを友達へ話しているとも思わなかった。

 男同士だなんて隠したいもんだろうけど、それは俺の存在を隠したいって言われているような気がして少し淋しく感じる。

 自分に出来るかって言われたら出来ない。

 それくらい当たり前で当然のことなのに、身勝手にも淋しく思う。

 だから、俺のことを話していた事実にテンションが上がってしまったんですよ。


 俺も上手く事が運んだら河野さんにだけご報告を、とは思っていますよ?でも、それはやっぱり上手くいってからな話なわけで。

 俺の恋愛対象は今まで女性だったし、椎名さんが例外中の例外なんです。男性同士の恋愛において、周りにカミングアウトをするのはかなりリスキーだと思うんですよ。しかも、成就するかどうかもわからないのに。

 それなのに椎名さんは話していたわけで。


 テンションが上がり過ぎてやり過ぎた。


「予定外だ……」


 近くに人が居ないのは確認済み。

 磨き終わったグラスをしまいながら言い訳じみた言葉が零れ落ちる。

 あそこまでやったら鈍い鈍くないの問題じゃねぇよ。

 気が付かねぇ奴がいたら、そいつは鈍感の神の申し子かなんかじゃねぇの?

 現に椎名さんは惚けた顔で俺を見上げたままだったし。

 やらかした!て急に我に返って、同時に身体からだ中の血が沸騰しそうなくらいバックンバクン脈を打ち始めた。

 それはそれは物凄い勢いで、抱きしめたままの椎名さんまで音が届いてしまうんじゃないかと心配になるくらいで。鼓動に合わせて体が揺れそうになるのをなんとか堪えた。

 不安にさせないように。出来る限り、刺激をしないように、そぅっと身を離して何とか必死に挨拶だけを告げて逃げるように部屋を出た。


 足早に階段を降りて、校舎から転がり出る。周りに人影が無いことを確認してから、椎名さんの部屋から見えない角度の壁に背中を預けてズルズルと崩れ落ちる。

 全身が心臓になったみたいにドクドクと鼓動に合わせて小刻みに震えるから、両腕で体を抱きしめながらしゃがみ込んで落ち着かせようと頭を膝にくっつけてひたすら堪えた。


「はっ……はっ……く……」


 それなのに呼吸が上手く出来ない。


 なんだこれ。

 なんだこれ。

 なんだこれ。

 

 頭の中がバグったみたいにそれしか浮かばない。

 キスなんて、こんなの今更だ。

 色んな相手と何回もしてきた、俺にはなんの感慨も湧かないって実証済みのただの粘膜の接触じゃねぇか。

 椎名さんとロッカールームでだってしたじゃねぇか。

 それが、なんで今こんなになってんだ。


「嘘だろ……」


 こんなの、知らねぇよ。





 開店したての店に、やけに身なりが良い柔和な雰囲気の男性が来店しました。

 純日本人の顔ではありますが、どこか海外のかたのような、夜の街って概念そのものが形になったような浮世離れした存在。言い過ぎかも知れませんが、それくらい異質だったということで。

 そもそもバーという場所自体が素人さんには敷居が高いらしく。特にウチみたいな本格的な店になるとたちの悪い客は滅多に来店しませんが、地下一階という一見いちげんさんのハードルを跳ね上げてしまう店構えですので、新天地を開拓して回るような趣味の方(雰囲気で何となく分かります)以外の新顔さんは珍しい。

 常連客の紹介や各業界関係者の個人利用でもってるような店ですので、マスターも店の雰囲気にそぐわないような喧しい連中を好まない。そんなわけで、大々的な広告を打ったりもしておりません。

 この男性が来たのは絶対に偶然じゃありませんね。


 俺の推測は当たっていたらしく、彼は柔和でにこやかな。でも、隙が無さ過ぎる完璧な笑顔を浮かべて思いのほか低い声で俺に声をかけてきました。

 それも手を挙げて親しげに。

 カウンターには先輩と俺の二人。

 しっかりと見比べてから、わざわざ俺をご指名ですか。


「君が来宮君だね?」

「そうです。ワタクシのお客様からのご紹介ということで宜しいでしょうか?」


 頷いた彼を確認した先輩は気をつかってサッと俺達から距離をとる。

 常連客の紹介ならばそれなりに店に合った客である。これは従業員の中では共通認識でして。しかも、俺を指名して、俺の問いに頷いた瞬間で無条件でお客様として扱われる。

 名の知れた方々が、ただ酒を飲む為にやってくる店ですからね。

 居酒屋のようにどんちゃん騒ぎをされたのでは店の信用に傷がつくとのことで、この様なスタイルで営業をしております。

 いつ訪れても変わらぬ雰囲気と味をご提供する普遍的な店。それがこのお店のコンセプトです。


「君の名前を知っている。それで充分でしょう?」

「ようこそ。お越しいただきましてありがとうございます」


 先輩は来客対応でまだこちらの声が届く距離にいらっしゃるので、気を使ってくれたのかもしれない。

 彼に軽く目礼してから、先輩へと問題が無い旨の合図を送るとスッと自然な仕草で距離を空けてくれました。

 それを確認してから席を勧めた俺に笑いかけた彼は、するりと席に着くと滑らかにオーダーを入れる。


「ジンとライムだけのギムレットを」


 作れるカクテルが限られる俺にカクテルの処方のヒントを出しながらのオーダーで、おそらく高遠の紹介だとアタリをつける。そう思ってしまえば少し首を倒しながら見上げてくる仕草やふとした表情が高遠を思わせる。

 ギムレットと言う名称を使ったことから、海外の方かもしれませんね。ならば椎名さんの関係者でもあるのかもしれない。


 知識にあるギムレットとは少し違った処方通りに作ったそれを、音を立てないようにそっと目の前に置いた。

 彼はグラスを優雅な仕草で傾けて、それから目尻の皺を深めて俺を見上げた。

 ほら、酒の飲み方が高遠によく似ている。


「うん。美味しい」

「恐縮です」

「俺は椎名の友達でね。池田といいます。聞いたことがあるかもしれないけれど、高遠の兄貴分の内の一人。誰かわからないのは座りが悪いでしょう?」


 頷いてお礼を告げる。

 内心、推測は当たっていたなと独り言ちる。


 彼の笑顔がやたら爽やかで、少しばかり困る。

 ライバルが増えるのはそりゃあ困りますよ。しかも長年の友達で高遠の兄貴分だなんて、彼が椎名さんとどうこうなりたいと一度ひとたび思ってしまえば、なんとなく良い雰囲気とはいえこちらは分が悪いどころか勝負にならないでしょうね。

 三峯さんのようなカラッと竹を割ったような方でしたら胸は騒がないのですが。それに、三峯さんは左手の薬指にThe結婚指輪!と主張するようなリングをはめていらっしゃいましたし。


いぶかしげな顔してる。俺は椎名をそういう風に見たことは無いよ」

「不躾で申し訳ございません」

「構わないよ。そういうのも嫌いじゃないし。同じものを頼んでも?」

「かしこまりました」


 顔に出したつもりはなかったのですが。

 形勢不利だな、と胸に湧き上がった焦燥は見事に彼に見抜かれてしまったらしい。


 彼は笑顔でまたグラスに唇を寄せた。

 その笑顔がなぜかプレッシャーを与えてくる。

 椎名さんが難攻不落だなんて、実は誰に聞くまでもなくなんとなく理解していました。

 だって、彼は魅力的だから。


 他人になんか簡単に興味を持たない俺の心の扉を平気でノックして、隙間からチラッと見てきちゃうような人なんですから。

 いや、違うか。あのヒト、ノックしながらも勢い余って扉をぶち壊して、壊したのを焦って謝ろうとするあまりこっちのことなんかお構い無しに中へズカズカ踏み込んできて、許可なんか全く出してやってないのにゴメンねゴメンねって勝手にど真ん中に居座りやがった。こっちとしちゃあ、なんなんだコイツは?と気になって仕方がないことこの上ない。

 この表現の方が正しい。

 少なくとも俺はそれぐらいの衝撃を受けた。


「俺は椎名の大学の同期でもあるんだよ」

「三峯さんと椎名さん、残りのお一人ですよね」

「そう。あと、俺にはちゃんとパートナーが居るから安心して」


 ゆらりと左手を俺の前へ差出して左手の薬指を俺に見えやすいようにクッと緩く折り曲げた。

 目をやると、そこには華奢なシャンパンゴールドのリングが控えめに光っていた。

 高遠のサービス精神はこのかた譲りでしょうね。


 先程までの隙の無い笑顔から更に口元がふわっと上がって笑みを深めた後、スッと表情が消え失せた。

 店の照明は元々落とされてはいますが、それでも分かる程に目の色の深みが増して、底の知れない黒い瞳が俺を見つめる。

 急に凄みが増した。


「焚き付けに来たんだ」

「俺をですか?」

「もちろん。椎名があんな風になるなんて初めてだからね」


 あんな風に、とは?

 やっぱり昼間のアレが原因でしょうかね。まぁ椎名さんの場合、年長者とはとても思えない時があるのでなんとも言えませんが。思考回路が謎なんですよ。そこが面白いんですけど。

 恐らく、池田さんはアレの後そんなに経っていない椎名さんの部屋を訪れてしまったのではないでしょうか。

 あの惚けた椎名さんの有り様を思い出すと、我に返ってから一人で奇行に走ってるところでも目撃されて、なし崩しに全部話した。

 と言ったところでしょうか。


「椎名は君を好きなんだって」

「ほう……」

「余裕?」

「そう見えましたか?」


…──見えない。


 彼はまた笑顔を浮かべた。

 今度はさっきまでの隙の一つも無い、気を許してうっかり踏み込んだら酷い目に遭いそうな油断ならない笑顔ではなく、歳相応の穏やかな笑顔もの

 子供を見守るような、年下の庇護する対象ものを導くような……河野さんみたいな笑顔に知れず肩の力が抜けた。

 驚くべきことに、俺が自然と初対面の人間に対して警戒を解いてしまった。もしかしたら、池田さんは河野さんともお知り合いなのかもしれませんね。その上で、えて俺の警戒を解いてみせた。その方が都合が良いと判断して。


「出来れば大事にしてやってほしい。椎名って平気でこっちを心配させる事ばっかりするから」

「そこは言われなくても」

「そうだろうね」


 そう言って笑った彼は何でか安心したみたいに立ち上がって、来た時とは違う穏やかな雰囲気を纏って店を出ていきました。



 それにしても、椎名さん本人はあんなにふわふわぽわぽわしているのに周りはどうしてこうも癖が強いんでしょうね。

 高遠を筆頭に、三峯さんも池田さんも一癖どころか二癖や三癖くらい隠し持っていそうですしねぇ。

 いや。

 高遠は違うな。三峯さんと池田さんを足して椎名さんで割ると高遠になるのかもしれないと思って、変に納得してしまった。

 それなら初対面のお二人に感じた親しみやすさに理由せつめいが付く。

 池田さんは高遠の兄貴分と言っていましたし、俺にとっての河野さんが高遠にとっての御三方なのかもしれない。

 誰にだって、事情の一つや二つあって当然です。


 大学での河野さんを正直に言うと俺はよく知らない。

 家庭教師の真似事をしながら初町さんが教えてくれる範囲でしか知らなかったし、中学生の俺に大学生活は遠過ぎた。

 でも、河野さんにだって友達は居るんだしそれがもしかしたらこの三人なのかもしれない。

 椎名さんの従弟の高遠と馬が合ったのは、その延長上のことなのかもしれませんね。



 今日は店の都合でバイトが早めに終わったので店を出てから時計を見ると、なんとか終電に間に合う時間だったので急いで駅に駆け込んだら終電どころか二つ前の電車に乗れてしまった。信号に捕まらなかったのが幸いしましたねぇ。

 今日は色々ありすぎてめちゃくちゃ疲れた。

 この時間の電車に乗った記憶はあまりないですが、学生の夏休み期間だからですかね?車内は適度に空いていました。

 座席に座ろうか少し考えて、座ったら眠り込んで終点まで運ばれそうでしたので眠たいのを何とか堪えながらドアの脇に凭れ掛かる。

 景色は面白味の無いトンネルに等間隔に配置された電灯だけ。

 流れていく光の筋を眺めて込み上げてくるあくびを噛み殺す。


 寝落ちすることなく無事に見慣れているはず駅のホームに降りたった。

 見慣れているのは日中の光景ですから、深夜だとこれはまた違って見えますね。そこはかとなく漂うアルコールの香りとか、疲れたように前傾姿勢で改札へ向かって黙々と歩く人々とか。

 そういったものがよく似た別の駅に迷い込んだような違和感を感じさせてくる。

 地下から地上がってきて、街灯の周りを舞う蛾だとか、夜だというのに全く落ち着いていない草いきれの匂いだとか、そういうのを見るともうね、夏真っ盛りだなとか柄にもなく思ってしまった。


 朝は通学に自転車を使うので帰りに店のタクシーを利用しても駐輪場の前で降りることになる。

 折角のタクシーならば家の玄関まで使いたいんですけど、朝にバスを使うのが嫌なんですよね。混む上に大きな通りを運行している関係で遠回りするから。

 自宅からバス停まで歩く時間で自転車を使って家から駅まで直線距離を突っ切れるのに、人がこれでもかとギュウギュウに詰まったバスに揺られながらバス停まで歩いた時間の倍を運ばれる気になんてとてもじゃないけどなれない。

 むわっとする空気の中、自宅までの道のりを急ぐこともないからと力を込めずに自転車を進める。

 汗を掻きたくないので坂は自転車を押して登って、深夜でも交通量の落ちない幹線道路に並行して暫く進んでから環状線に折れて、途端に人の気配の無くなる住宅街へ向かって今度はゆるやかな坂を下る。

 そうして自宅にほど近くなった頃、もう見慣れてしまった人影がふらふらと歩いているのを見つけてしまいました。


 この先どんなに人が居ても、その中に彼が居るのであれば姿を見つけないことなんてないんでしょうね。それくらい普通にその姿を暗い住宅街の中で目に留めて、つい声を掛けてしまう。

 一瞬、疲れているから無意識に半分に眠ってしまっていて夢でも見てるのかと思ったけれど、やっぱりそこに居る。虚像なんかじゃないって、分かってしまうんだからこれはもう仕方がない。


「椎名さん」


 なんでこんなところに居るのか気にはなりますけど、言われなくても何となく分かる気もします。

 思考パターンが本当に謎で分かり難いと感じさせるくせに、手に取るようにわかりやすいと思う時もある。その時々で見え方をころころと変えてくる。

 どうせ河野さん目当てで来て迷ったか、そうでなければ俺に会いに来たんでしょう?

 昼間のこともありますし、少し構えてしまった。

 そんな俺の事情に椎名さんが気がつくとは思えないけれど、構えてしまったことに多少の気まずさを感じた。


「きの!」

「……またヨッパライかよ」


 こっちの事情はお構いなしに全力の笑顔で両手を広げて飛び付いてきた。飛び付かれた俺はというと、自転車ごと倒されないように両足を踏張って耐える。


 アルコールの香りの中に先程嗅いだ香りがうっすら混じっている。なるほど、三峯さんと池田さんと飲んでいてゴキゲンなんですね。

 抱きついてきた椎名さんの笑顔が物凄く、そりゃあもう破滅的さいこうに可愛らしかったので、背の高い大の男が横から飛びついてきたらどれだけの衝撃かなんて些細なこととして目を瞑って差し上げるとしましょうか。


「こんなところで迷子ですか?」

「うんんっ!きのに会えたから迷子じゃなくなった」

「あー……バッチリ迷ってたんじゃねぇか」


 程よく酔いの回った椎名さんがきゃらきゃら花がほころんだように笑うから。俺は仕方なくつられて笑ってしまう。ついつい世話を焼きたくなってしまうわけですよ。この人が笑うなら、まぁ、細かい事はどうでもいいやって。

 ある意味、才能ですね。

 椎名さんは俺に抱きついて、スリスリと犬のように頬を擦りつけてきた。

 昼間のアレを忘れた訳でもないだろうに。

 このヒトの距離感がバグってるところ、どうにかなりませんかねぇ……。


「前にこうちゃんがさぁ、きのの家が隣だって言ってたからさぁ」

「……はい?」

「だから行ってみようかなぁって。こうちゃん家なら何回か行ったことあるし、行けるんじゃないかなぁって」


 で、迷ってたんですね。

 聞かなくても分かっちゃいたけど、聞いてみて本当にどうしようもない理由だったなって笑いが漏れた。

 更にどうしようもない事に、やっぱり俺がついていてあげなくちゃって思ってしまった。

 そう思う事自体がちょっとおかしいんだってのはちゃんと分かってます。

 頭で分かっていてもクソあちぃ熱帯夜に、家の近くの道のど真ん中で抱きしめられて、それで振りほどかないでいてやるくらいにはやられてるんですよ。


「きのに会いたくなった」


 ―――その笑顔、反則ずるい

 まだ俺の首に腕を回したまま、暗い外灯の下でだってわかるくらい瞳をきらきら輝かせて俺の顔を覗き込んで笑うから。

 いや、違うな。街灯と月明かりが大きな黒目に反射して光ってるんだ。

 酔っ払って、道に迷って、不安で潤んだ瞳が俺に会って安心して、嬉しくなって、それで笑って目を細めたから、涙の膜が張ってきらきらきらきら光を反射してるんだ。

 あんまりにもそれが綺麗なモノに見えてしまうから、だからつい笑っちゃうんですよ。あー、綺麗だなって。

 本当に瞳に星が降りてきたみてぇだな。


「仕方ありませんね。もう遅いですし狭い布団で良ければ泊まっていきます?」

「お〜……って、良いの?」

「これ前にアナタが俺に言ったんですよ?親のことなら俺の交友関係とかあんまり気にしない人達ですからお気になさらず」

「じゃあお邪魔します」

「すぐそこではありますけど、乗りますか?」


 俺の自転車を傾けて乗るように勧めたら、嬉しそうにうなずいて俺を解放して下さった。

 改めて自転車に跨って振り向いたら身軽な椎名さんはひょいっと後ろに立ち乗りをした。

 いつも乗せてる河野さんはだら〜っと座ってるだけなので、立って後ろからギュ〜ッと抱き締められるのはかなり新鮮です。

 まあ、落ちないようにだとは思いますけどね。


「では、漕ぎますよ」

「あぃっ!」


 ヨッパライを落っことして万が一ケガでもさせたらいけませんので、出来るだけゆったりとペダルを踏み込んだ。


 少し軋みながら二人分の体重を乗せた自転車が真夜中の生ぬるい空気の中をのろのろと進みだす。

 帰り道で越えなくてはならない坂道はだいぶ前に過ぎておりましたので、有難いことに背の高い椎名さんを乗せて坂を登らずに済みました。


「家まだ先なの?」

「もう直ぐそこです」

「さっきこの道通ったのになぁ」

「そうでしょうねぇ」


 家の方向から歩いてきましたからね。

 いくら以前に河野さんの家に来たことがあるからといって、一度も俺の家に来た事もないのに平気で突撃してくるアナタがおかしいんですよ。

 しかも真夜中に。

 深夜の住宅街なんて住民でもなければどこもここも同じように見えるような気がするんですけどねぇ。

 このまま俺に会わなかったらどうする気だったんでしょうかねぇ。知らないのでしょうが、今日は河野さんは恋人とお食事からのお泊りなんですよ?


「迷ったら最悪こうちゃんの家に泊めてもらおうかなぁって」

「あぁ、やっぱり」

「でもこうちゃんの家も見つからなかったからもう少ししたら泊めてって電話してみようかと思ってた」

「まだ馬に蹴り殺されたくないんでやめてさしあげて」

「うま?」

「いえ、お気になさらず。河野さんのお宅は表札が黒い石ですから見えなかったのかと。我が家も明るい色はしてなかったかな?自宅の表札なんてよく覚えてないな」

「あー、だから見つけられなかったのかぁ」


 そんなわけないでしょうが。

 本当に分かりやすいヒト。でも、会いたくなったから会いに来たなんて、本当に理解わかり難いヒト。

 今は酔っているから思考能力が低下しているんだって思っておきましょうかね。


 それにしても、一緒に居るとどんどん好きになる不思議なヒトなんですよねぇ、椎名さんは。

 ころころころころ魅力すがたが変わっていく。

 傍に居て、同じものを見て、アナタの感じる色んなものを知っていきたくなる。


 住民の殆どが寝静まった真夜中の住宅街を、俺の年季の入った自転車はキィコォ……キィコォ……と錆びかけた変な音を立てて走っていく。


 あと聞こえる音は、俺と椎名さんの心音だけ。









【椎名eyes】





 きのが自転車を漕ぐたびに油が足りてないのか、車輪が小さくキィキィ音を立てる。

 いつもは車でマンションの駐車場まで帰っちゃうし飲んだ日はタクシーを使っちゃうから、真夜中の住宅街を自転車で風を切りながら帰るなんて全然しない。

 学生時代はちぃっちゃなしんと一緒のことが多かったから夜はそんなに出歩かなかったし、しんを家に送っていく時はまだ明るい時間だったし徒歩だった。

 だから今がすごく新鮮で、特別な感じがする。


 前傾姿勢で自転車を漕ぐきのの肩はちょっと掴まりづらくて、落ちないようにぎゅ〜っと抱きついた。

 夏だからこんなにくっついたら暑い。しかも俺デカいし。本当だったらきのにはやぁらかくって、可愛らしくって、ふわふわした女の子が自転車の後ろから抱きついてる方が似合うと思う。

 思うけど、それでも、それを想像したらちょっと……うんん。だいぶ嫌だから目を瞑る。

 きのが女の子を選んじゃったら、俺じゃ太刀打ち出来るわけないじゃん。だって、俺は胸もなければ柔らかくもない。同年代に比べれば若く見られてもきの達から見たらオジサンだし、張り合おうと思うこと自体が烏滸おこがましい。

 考えが暗い方へ行くのを頬を触ってく風を感じるのに集中して振り払ってたら、緩やかに減速して自転車が止まった。


 「はい、とおちゃ〜く」


 おどけてそう言って笑いながら振り向いてくれた。

 ニマッと笑ったきのを見たら、さっきまでの気持ちがフワッととろけてどこかへ消えていって、ぽぅ……て胸が温かくなる。


 きのの家は一軒家だった。

 庭は無い……あ、あった。隣の家との間に無理矢理作られたっぽい自転車置場にきのが手馴れた仕草で自転車をしまう。反対側のこうちゃんの家との間はほとんど間が無くて、塀を挟んでギリギリ。

 実家を出てからずっとマンション暮らしだったからこの感じが懐かしい。


「何?珍しい?」

「へ?」

せめぇんだよなぁ」

「俺の実家も同じ感じだから懐かしかった。しんの家知ってる?あそこと近いよ」

「そりゃまぁ懐かしい。か」


 確かに今時の建て売り住宅に比べたら狭く感じるかもしれないけれど、下町なんてどこもこんなもんじゃないかなぁ?

 言われなきゃ気にならないよ。

 そもそも東京の戸建てってよっぽどの高級住宅地へ行かなきゃ大差ない気がするけどなぁ。


「勝手に卑屈になった。ごめん。あんま綺麗じゃねぇけど、まぁ上がってくださいよ」

「おじゃましま〜す」


 別に汚くないけどなぁ。

 きのは何かを気にしてるみたいだけど、俺の生まれ育った家だってこうなんだよ。

 普通に用事があれば今でも帰るし。弟夫婦が一緒に住んでるから泊まったり出来なくて、夜の戸建ての雰囲気が懐かしくてテンションが上がりそうになる。


 キッチンに寄ったきのがカレンダー脇に貼りつけてあるホワイトボードに何かを手早く殴り書きした。

 こういう感じ!

 家族のルール的なやつ!

 一人暮らしじゃ味わえないやつ!


「風呂お先にどうぞ。これ、一応洗ってあるから使って」


 リビングの隅の洗濯物干しからバスタオルを引っこ抜いて、両面を軽く手で払ってから苦笑いして差し出してくれた。

 急に来ちゃったからなぁ……。

 あんまり友達を泊めたりしないんだろうなぁって雰囲気で分かる。バスタオルなんていつも来るような人がいなかったら予備なんかないよね。

 軽く頭を掻きながらきのが、干してある洗濯物をガサガサと掻き分けてる。


「寝巻どうしよっかなぁ」

「え?」

「俺の服じゃどうしたって入んないでしょうよ」

「あ〜……」


 体格差あるもんね。別に今着てるのでも良いんだけど……。

 きのはまだ頭を掻いてる。


「なんか適当に探しとくから先風呂入ってて」

「ありがとう」


 あーでもないこーでもないって小さな声でぶつぶつ言いながら風呂場に案内してくれるきのにナイショで、横目でちらっとホワイトボードを確認した。

 そこには乱雑な文字で〝友達泊めてる テツヤ〟って書いてあった。

 てつやかぁ、いつか呼んでみたいなぁ。

 てつやだと長いからてつ?てっちゃん?んー……。


 やっぱきのだな。




 風呂を借りてすっきりさっぱりした。

 久々に肩まで湯船に浸かってたら酔いが醒めてきて、もしかして俺って凄い事してんじゃないの!?って気が付いた。

 深夜に教え子の家に転がり込むって……。


「着替え発掘したから置いとくよ」


 急に声をかけられてビクッ!て体が揺れる。そのせいでバシャッ!て派手な音がして、きのが驚いた顔をしてドアを開けた。

 慌てて様子を見に開けたみたいだけど、湯船で顔を真っ赤にしてるだけの俺を見てほっとしたみたいだった。

 ヘラッて笑った。


「…………無事?」

「あ、うん」

「じゃ良いや。急に開けてごめん」


 目がバチンッって合って、二人してなんだか恥ずかしくなっちったみたい。

 俺、素裸だしね。なんかこう、男同士なのに気まずいって言うか。男の裸なんて自分のとか学生生活とかで嫌ってほど見てるし、今更どうとも思わないはずなのに。


「きの……まだ居る?」

「居る。なんかあった?」


 酔ってるからって心配してくれてるみたい。

 さっき慌ててドアを開けたのも、俺が転んだとかそういうのを心配してくれたんだと思う。

 居てくれてるのが俺に分かるようにドアに背中を預けるようにして座ってくれた。

 それが凄く嬉しい。

 きのが俺のことを考えてくれるのがなんだかムズムズくすぐったくて、でも嬉しくて、唇がふるふる震える。


 磨りガラス越しに見える背中に謝った。


「急に押し掛けてごめんね」

「何謝ってんの?」

「だって、ほら、真夜中だし?」

「良いよ。しーなだし。アンタがやることなら別に気になんないから謝んないで」


 あ、呼び捨て。

 きのに名前呼ばれんの、なんか気持ち良いな。

 なんかさぁ、俺って本格的にヤバくない?

 恋愛ってこんなに頭悪くなるのかなってくらいにきのが好きになってる。頭が回らなくって、思い付いたらもう体が動いちゃってる。

 きのが好きだなぁって。

 さっきからずっとそんな事ばっかり考えてる。


「そろそろ上がんなさいよ、のぼせっから」

「あぃっ」


 ギシッて音がしてきのが立ち上がったのがわかった。磨りガラス越しの背中が遠くなる。

 そう言われたら随分長く浸かってる。

 お湯に浸かり過ぎて頭がぷゎぷゎしてきた。


 ふらつきながら浴槽から上がった俺は、見事に足の力が抜けてすっ転びそうになった。

 だいぶ抜けたと思ったけどまだアルコールが残ってたみたいで、長風呂をしたから目を回したっぽい。人様のバスルームで転んで頭打って救急車とか洒落にならない!


「ほら、言わんこっちゃない」


 そんな俺を見越してたきのはパンッてドアを開けて、俺がタイルに膝を付く前に抱き留めてくれた。


 酔って何も出来ないだろうと判断されて、わしゃわしゃと身体を拭かれて髪まで乾かされた。

 きのの長い指が俺の髪を梳いて、サラサラと髪が零れ落ちてくる。

 洗面所の鏡に写った自分達の姿に気が付いたら気まずくて気まずくて。全身真っ赤になって顔を抑えてたら、また具合が悪くなったと思ったらしいきのにスポーツドリンクを手渡された。

……恥ずかしい。

 俺の髪を梳きながらドライヤーを当てるきのの顔が優しくて、凄い大事なものみたいに触るから。

 俺に触る指がとっても優しくて、それなのに昼の背中を滑る指の感触を思い出しちゃって、鏡の中のきのの指が俺の髪を滑る仕草におぁー!って変な声が出そうになる。

 耐えられる?

 ねぇ?皆こういう空気に耐えてんの?耐えるとかじゃなくて喜んでんの?ねぇ?どうなの?どうしたら良いのこれ!


 頭がパンクしてる内に髪はサラサラに乾かしてもらって、寝る準備も整ってた。

 ちなみに、俺の今着てる服はたまに泊まりに来るしんの寝巻きらしかった。

 きのって友達泊めるんだ!って驚いた。

 驚きが顔に出たらしくて苦笑いを浮かべながらきのが頷く。


「いやぁ、腐れ縁も極まりましたわ」


 いいなぁ。

 何が良いのかわかんないけど、そういうのって良いなぁって。



 入れ代わりできのが風呂に向かった。

 きのは先に部屋へ行ってろって言ってくれたんだけど、なんとなく落ち着かなくて残ることにした。

 本人不在の部屋で待ってるのって気まずくない?俺は気まずいタイプ。

 俺がまだ酔ってるからって散々心配してから直ぐに出るからって言ってバスルームに消えていった。

 程なくしてきのがお風呂を使う水音が響いてくる。パシャパシャ細かい音がしてるから頭を洗ってるのかな?

 さっきのきのもこうして待っててくれたんだ……。


 歯を磨きながらなんとなく洗面台の鏡を見つめる。鏡の向こうでは、なんだか疲れた顔をした俺がシャコシャコと歯を磨いてる。

 そう言えば歯磨きのスペアがあったの意外だなって思ったけど、俺の家にも予備くらいあるから家族で暮らしてたらあって当たり前なのかもしれない。


「う〜ん……」


 口を濯いでから、鏡に映りこんだ自分の姿を改めて覗き込むみたいにして観察してみた。

 確かに自他ともに認める女顔ではあるけれど、だからといって女性っぽくはないよねぇ。童顔って言うならわかるけど。すっげぇ綺麗ってわけじゃないし、特別に可愛いわけでもないし、男女問わず目を引くほど格好良いわけでもないしなぁ。

 とすると顔のパーツかな?口の端をムニ~ッと引っ張ってみたり、目の端を指で色々な方向へいじってみる。

 しばらくそうして色々いじってみた。

 うん。良くわかんない。きのに好きになってもらう要素がどこにも見つからない。


「せめてこう、女の子っぽさがあったらなぁ」


 喉のラインを指先でなぞってみて、はぁああ……って深いため息を吐き出した。だって、あんまし目立たないけどしっかり喉仏が主張してる喉のラインも、男にしては細いって言われる首も、鎖骨から繋がる肩までのラインだってどう贔屓目に見ても男でしかない。

 そんなの当たり前だけど。俺は三十一年間ずっと男として生きてきたんだから。そりゃぁそうだよね。

 だいたい男ウケなんか考えたことも無い。……あるワケねーじゃんか!誰にウケたいんだよ!!


 俺は学生じゃないからきのの交友関係に関してはよく知らないけど、モテないわけじゃないのは分かる。

 しんが滅茶苦茶モテてるんだから、きのだって同じように女の子からアプローチも受けてると思うし、男の子の友達とも話してるのをよく見かける。

 きのと知り合ってから目が行くようになって気が付いたんだけど、いつもきのの周りには人が絶えない。

 人気者なんだと思う。笑いながら廊下や庭で何人かと話してるのを遠くから見かけたことがいっぱいある。中心に居るわけじゃないんだけど、ひとりぽつんと座ってるとかは見たことがないや。

 きのは選ぼうと思ったらいくらだって選べる、選ぶ側の人間なんだと思う。

 それなのに、どうして俺を好きになってくれたんだろう?

 優しい子でも、親切な子でも、可愛い子でも、綺麗な子でも、格好良い子でもなくて、良いところなんて自分でだって見つけられない俺のことをなんで選んでくれたんだろう?

 好きなら、もしかしたら付き合ってくれるのかな?

 昼間のって、そういう意味だったのかな?


 わからない事がいっぱいあり過ぎて混乱する。




「どうかしたんですか?」


 急に声を掛けられてビクッ!て肩が揺れた。

 顔を両手で挟んでぎゅう~っと押し付けた変顔を鏡に写して悶々と考えてたんだけど、鏡には映らない、俺からは死角になる位置にお風呂から上がったきのが腰にタオルを巻いただけの格好で腕を組んで立ってた。

 俺の百面相を見られてたみたいで、ニマニマわんこみたいに笑ってて本当に恥ずかしい。

 俺が着替えの入った籠の前に居て邪魔だったんだろうし、声をかけてくれたら良かったのに……。

 恥ずかしいから。


「な、何でもない!」

「そう?なら良いですが」


 あんまり広くない脱衣所の中、数歩で距離を詰めたきのがちょっと背伸びして俺のほっぺにチュッて音を立ててキスをした。

 なんかそれだけでぽ〜ってなる。

 さっきまでの頭の中のぐるぐるがパーンッ!て弾け飛んだ。

 驚いて口を開けたまま、きのが着替えられるようにずりずり身をずらして入口の外で膝を抱えた。

 また心臓がばっくんばっくん物凄い勢いで鳴りはじめる。こんなのさぁ、俺の年になってれば皆もっと余裕で受け流すよね。

 顔が絶対に赤いから、膝におでこを押し付けてできるだけ小さく見えるようにキュッて体を丸めてうるさい心臓が静かになるのを待った。


 ドライヤーの音が止まって、身支度が終わったきのの手がぽんって俺の頭に置かれた。


「はい、お待ち。んじゃ寝ますか」


 見上げたら目尻に皺を作って優しく笑ったきのが俺を見下ろしてた。

 またポーってなりかけて、慌てて頷いた俺の手を引いて立ち上がらせてくれた。そのまま手を繋いで、勾配のキツイ階段を上がっていく。

 ご両親に会っちゃったら気まずいのにきのが気にした風もなく歩くから、俺は顔を真っ赤にしたままきののかかとあたりを見つめて歩いた。


 きのの部屋は二階の奥だった。

 クローゼットじゃなくてふすまのある布団の敷かれたベッドが置かれた和室で、レトロな雰囲気の本棚や勉強机が置かれてる。机には今風にパソコンが置かれていて、その脇に本や漫画が乱雑に積んである。

 少し照れたみたいに笑ったきのが俺を先に部屋に入れて、苦笑いを浮かべながらドアを閉めた。

 ドアが閉まったらなんだか柑橘系の匂いがふんわりして、なんだろう?って思って匂いがする方を見たら、リードディフューザーが本棚の下の段に置いてあった。

 本棚から目線を上げたらベッドがあって、その上にある窓からこうちゃんの家が見えた。


くさい?」

「うんん。いい匂い」

「なら良かった。臭いとこで寝られないでしょ」

「ちょっと意外だったけど」


 普段きのからは匂いがするイメージが無いんだよね。

 抱きしめられた時に感じたのは石けんみたいな、スッキリした匂い。

 洗濯洗剤か柔軟剤かなって思ったけど、薄まったレモンの香りだったのかも。


「高遠のやつが置いていったんですよ」

「うちにも定期的に置いてってくれてるよ。最初は俺の家って臭うのかなーって思ったけど、そうじゃないみたいなんだよねぇ」

「それ俺も思った!人の部屋に押しかけて来ときながらくせぇっつーのかよって」


 ふたりで顔を見合わせて笑い合った。

 だってさ、やっぱそう思うよね。

 どゆこと?って。


「しかもアイツ、二回目に来た時に真顔で渡してきたんですよ。コレを!どういう意味だよ!ってなるだろ」


 もーだめ!

 ご家族が寝てるからって必死で耐えてたけど変な声が出そう。お腹を抱えてヒッ…ヒッ…って体を震わせながら声を押し殺して笑っちゃった。


「そりゃあ問い詰めましたとも。そうしたらアイツ、何の匂いもしなさ過ぎて落ち着かねぇとかわけ分かんないこと言い出して」


 あーだーめーだってぇ〜……。

 笑い過ぎて過呼吸起こしそ。 


「なんだっつうんだって話よ」


 眉間に皺を寄せてるきのと、当然だろ?て顔をしたしんが目に浮かぶようでまた面白い。

 二人のやり取りっていっつもそんなだから面白いんだよね。


 笑いすぎて涙をこぼしながら俺の家に匂い消しが置かれたわけを教えてあげる。


「俺の家に置いてくきっかけになったのはマジで臭い消しだったけど」

「は?」

「ボロボロ期間ってアレでしょ?部屋の掃除どころか換気も出来ないから。別に何かが腐ってるわけじゃないけど、強いて言うなら俺が腐ってるから」

「腐ってんの?」

「こうちゃん腐ってない?」

「……腐ってるっちゃあ、腐ってるな」


 今度はきのがハハッて笑い声を上げた。

 ご両親が寝てるのを思い出したらしくて、ハッと我に返って苦笑いした。


「まぁ、狭いし汚いけど。どうぞ」


 だから、狭くも汚くも無いけどなぁ。なぁんでそゆ言い方すんのかなぁ?

 家に入る前にも言ってたよね?


「俺はこの部屋好きだよ」


 だって、言わなきゃ伝わらないでしょ?

 きのがさっきからそういう言い方してるの、そういうことでしょ?

 好きな子に格好付けたいやつ。

 自分に置き換えたらなんとなくわかった。

 なら、ちゃんと伝えないと。


「はい?」

「家も。狭いだなんて思ってないし、汚いとも思ってないんだけどなぁ。さっきも言ったじゃん。きのは俺のこと信じてくれねーの?」


 男の子の部屋なんて誰だってこんなもんじゃんね。

 むしろ、一般男子大学生に比べて綺麗にしてる方じゃないの?

 俺の大学時代の部屋見せてやりたい。あー、やっぱダメ。幻滅される。池田くんにめっちゃ叱られながら何回片したことか……。


 きのが目を見開いて俺を見てる。

 変なこと言った?


「そうですね。ありがとうございます」

「どういたしまして。で、なんの、ありがとう?」

「いつもと逆ですね」


 ふふふって笑ってから手が伸びてきて、ぎゅうぅって俺のことを抱きしめた。

 俺の方が身長が高いから肩に顔を埋めるのがちょうどいいみたい。


「本当に……」


 それ以上は聞き取れなかった。

 きのからはやっぱり何の匂いもしなかった。









【来宮eyes】





 このヒトってどうしてこうなんだろう?

 どうして俺の琴線に触れるんだろう?

 琴線に触れるどころか掻き乱してくるんだろう?

 俺の奥の奥にある……のかどうか自分にだってわからなくって、ついぞ触れられなかった琴線こころに裏表の無いまっさらの優しさをぶつけて共鳴させてくる。

 どこまでも飾らない、ありのままの椎名光希しーなって琴爪にんげんが、錆び付いて全く震えなかった来宮哲哉琴線かんじょうを掻き鳴らす。

 今まで誰にも、何にも、河野さんですら動かせなかったのに。どうしてこんなに急に震えるんだ?

 しかもそれは戸惑いはしても、決して不快いやじゃない。


 どうしてこんなに、あったけぇんだろう?




 成人男性二人で寝転がるには俺の布団は狭過ぎる。


「あー……布団、狭くてごめん」

「ん〜?」


 とはいえガキの頃ならまだしも、今となっては友達なんて滅多に家に呼ばない。

 ここ数年は高遠と河野さんくらいだよ。

 河野さんは泊める必要ないから泊めた事ないし。なんなら窓から河野さん自身の部屋が見えるし、その気になれば飛び移れるんじゃないですかねって距離。二人ともそんなキャラじゃないからやったことはないけど。

 ベッドの上に敷いたままの狭い煎餅布団に二人で横になってる事が恥ずかしくて仕方ない。

 相手が高遠だったら恥ずかしいも何もないんだけど、相手がしーなになった途端にこれだ。


 そういえば、しーなはなんか大きなベッドに寝てそうなイメージがある。

 大人二人が平気で寝られるようなやつ。前に三峯さんを泊めていたと記憶してるから、来客用のベッドもあるのかもしれない。

 高遠や池田さんあたりがしーなが一人暮らしを始める時にインテリアに口を出してるんじゃないかっていうのがその根拠なんだけど、当たってんだろうなって自信はある。


「狭いかなぁ?」

「狭いでしょうよ」

「でも、俺好き〜」

「というと?」


 ごろんって俺の方を向いてにぱって笑った。

 笑うと童顔なのが更に際立って俺より年下に見える。

 あー、可愛いなぁもう。

 客用の布団なんかないから一人用の布団でくっついて寝てるわけで、この距離感は拷問に近い。

 真っ暗だったら良かったけど生憎あいにくと使い古した遮光カーテンしかない。

 隙間から漏れる淡い月光程度でも暗闇に慣れた目はなんとなくどころかしっかり相手の姿を捉えてしまう。


「きのにくっついてられるから」

「ふへ?」


 変な声出た……。

 ぎゅって抱きつかれて体温がぶわぁぁぁって上がってくのがわかる。

 心臓が物凄い勢いで高鳴ってて、全力疾走した後みてぇだな。この距離じゃこれもう伝わってんだろ?


「きのの匂いがする。このレモンみたいな匂いがきのの匂いだったんだねぇ」


 ぼんっ!て顔から火を噴きそう。

 俺のことを抱き寄せて、髪に鼻をうずめてくんくんって犬みたいに鼻を鳴らしやがった。

 も〜ダメだ!


「なんか安心する〜」


 ぎゅうって抱き締められてる腕から逃げ出して、腰に引っ掛けてたタオルケットを無理矢理頭から被せてやった。


 心臓が大変な事になり過ぎててこんなの寝られるわけねぇだろ!

 このヒトに会うまでの眠気どこ行ったんだよ!

 帰って来いよ!

 今すぐ!

 こんなん生殺しじゃねーか!


「寝ろ!ヨッパライ!」

「むぐぐ……」

「今直ぐ!大人しく!!寝てくれ!!!」


 タオルケットをぎゅうぎゅう押さえ付けて、むぅむぅいうしーなを黙らせた。

 そう!しーなは酔ってる。

 全てはヨッパライの戯言たわごとだ。

 押し付けすぎて落としたんじゃねーよな?って顔を覗き込んだら、すやすやと幸せそうな顔して寝息を立ててた。

 いちいち反応していたら身が持たない。


「……俺の心臓壊す気か」






…―――――眠れない。


 つか、眠れるわけねぇよなぁ。

 引き剥がしても引き剥がしても俺を抱き締めるみたいにして寝息を立てるしーな。

 いっそ布団から出てクッションを枕に転がろうと思い立ってベッドを降りたんだけど、俺の居た空白をしーなの手が淋しそうにパフッ!パフッ!て探し回るから結局戻る羽目になった。

 で、また抱き枕状態。

 無防備な吐息が終始耳元で聞こえてガッチガチになってる。


『好きとか言わなきゃ良かったかな』


 言ったせいで変に意識する。

 いや、まぁ、好きなんだけど。それは事実なんだけど。今、この状態で他の奴に横からカッ攫われるなんて想像しただけではらわたが煮えくり返る勢いですけど。

 言ってなきゃ、そういう未来だって十分有り得たはずで。


『やっぱさぁ、バレちゃマズイでしょうが』


 でも、付き合っちゃえば良かった。

 付き合ってって言ったらしーなはOKしてくれたんじゃないかって思う。

 後で改めて交際を申し込むよりも、あの場の勢いで言っちゃえば良かった。今更言うのは中々ハードルが高い。でも、これだけ引っ付いてきててお断りも何もないとは思うけど……。

 でも、しーなに秘密にしとけって言ったって無理なんだよなぁ。出来るんだったらこんな悩んでねぇわ。


「ん……む……ぅ……」


 寝言?

 何かむにゃむにゃ言ってから俺を抱き締め直す。

 小さな子供みてぇ。あー、小さな子供知らないから概念ですけど。


「しょうがねぇなぁ」


 シーツの上にサラサラと流れる髪を指に絡めて笑いを噛み殺した。


 近くに居るだけで幸せだって認めてやりますよ。

 好きだから、一緒に居たいんだって。

 アナタが笑う時に一緒に笑って、泣いたら一緒に悲しんで、腹を立てたなら理由を聞いて、楽しいものを一緒に見つけて生きたい。

 たまには秘密の恋だって悪くないでしょう。


「おやすみなさい」


 眠ってるしーなの鼻先に触れるだけのキスを落として、抱きしめてくる背中に手を回して眼を閉じた。


 今まで生きてきた中で一番わけのわからない気分。

 胸が詰まって、でも苦しくなくて、泣きたくなる。


 これが、死んでもいいって気分なのかもしれない。

 死んでもいいくらいに、幸せ。



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