Inter Story 2





【河野eyes】





 俺は〝普通〟とは違っていると思っていた。


 そもそも世の中の全てに対してさしたる興味も抱けねぇたちだったから、俺はおそらく異質なんだと誤認していた。

 一人きりでは、普通の、ごくごく普通の、ちょっと風変わりな性質を持っただけのありふれた存在だって事に気が付く事は永遠に出来なかったかもしれねぇと、要らねぇもんを無理矢理抱え込まされた今ならわかる。

 学生の時なんて、誰だってそんなもんだ。




 俺の持ち合わせてた個性は物事を深く長く考えて分析して、そっから色々な可能性を排除してやっと答えを導き出すっていう回りくどいものだった。

 そんな俺にとって世界のスピードは生まれてからずっと気が遠くなるほど速かった。

 俺が一つの事を考えている内に世界は次の話題、次の話題へと容赦なく移り変わってく。

 一つの事柄の結論を出す前に、次の次のそのまた次のといの結論を答えろと言われては辟易へきえきしてしまう。

 俺はまだその前の前の前の事を考えているっていうのに……。

 同級生も俺をのんびり屋とかぼーっとしてるとかそういう風に思ってたし、家族もそんな感じだった。


 世界は俺の事情なんかお構い無しについてこられない奴を振り落とさんがばかりの勢いで回る。

 振り落とされたらどうなんのかわかんねぇから、なんとか振り落とされないように必死で日常という当たり前の生活に食らいついて生きてきた。


 初めて首の後ろがチリッとするような僅かな違和感を感じたのは中学生の頃だったか。

 周りがする話に理解出来ないものが増えた。

 それは何組の誰とかが可愛いとか、どこそこの誰それの胸が大きいとか、彼女が欲しいとか、そんな感じだったと思う。

 その話題に興味が無さすぎてどう返したものかと思ってたら特に話を振られるわけでもなく話題はポンポン切り替わっていった。

 思春期ってやつだったんだと思う。皆が皆、自分の事で手一杯だし、なんとなく気恥しいから敢えて友達の返事や意見を得ようとしていなかったんだろ。

 そんなもんだからただ相槌を打ってさえいれば何となく時間は過ぎていったし、興味も湧かねぇ女子の事よりも今日の宿題をどうやっつけるかの方が俺には重大事項だったんだから単なる違和感でしかなかったのは仕方がなかったと思う。

 もとより女子どころか毎日顔を突合せてる奴ら以外の顔なんてろくに覚えてなかったんだけどな。

 なんにせよ、世界の回る速度は俺には速すぎた。


「なぁ河野はどの子が好き?」


 ある日、教室で俺に声をかけてきた友達の手元には広げられた少年誌。

 内心面倒臭いなって思ったけど、これも付き合いだし仕方ないかと覗き込んで見てやったらそこには媚びるような笑顔を浮かべた女達が露出過多な水着姿で扇情的なポーズをとっていた。グラビアってやつだな。

 友達は楽しそうにわいわい話をしていたからそんな空気に水を差さないように適当に一人を選んで指さしておいた。

 俺も自分から進んで話さないだけできっとこういう話題に興味があるだろうって仲間に入れてくれているんだから合わせないとな。俺だってそれなりに社交性くらいは持ち合わせてる。

 ただ、居ないなって思っただけだった。

 どれもこれもマネキンが衣装を着てる程度にしか俺の瞳には映らなかったけど、友達は楽しそうにこの子が可愛いとかこれはクラスの誰に似てるとかそんな風に盛り上がっていたと思う。

 その話題に巻き込まれる度、俺は曖昧な笑顔を浮かべて何となく適当な相槌を繰り返していた。


 その違和感が決定的になったのは、高校に入学して少し経った頃。

 男だけで集まって猥談をしたりそういう動画の鑑賞会が行われたりするようになった時に、健全な男子ならば当然感じる興奮ってやつが俺には湧き起こらなかった。

 周りの空気を見てなんとなく合わせてやり過ごしはしたものの、内心かなり驚いた。友達達がオススメのオカズだってコッソリ教えてくれた動画にも俺は一切の興奮を得られなかった。

 そんなバカな……って思ったけど何の感情も湧き上がらないものは湧き上がらない。

 周りがそうなるのなら当然俺にもそういうモノが自然に湧き上がると思ってたし、信じて疑わなかった。

 自分から何か行動を起こした結果とかじゃなくて、極当たり前の生理現象としてそうなるもんだって思ってた。


 学校の性教育の他にだって友達から聞いたり、なんならテレビやら雑誌やらから知識はいくらだって得られた。特に友達の話を聞いていれば分かりたくなくてもわかるってもんだ。

 何かがおかしい。

 そう思って試しに下半身に手をやって動画を見ながら弄ってはみたも事もあるけど、なんの変化の兆しもなかった。寧ろ冷静に自分のモノをジッと眺める羽目になってしまったくらいだ。

 それでも知恵は人並みにあるから高校生にもなれば異性を意識し始めたりなんとなくこういう相手が好ましいとかくらいはあるはずだと当たりはつく。そうなってくるといくらなんでもこれはおかしいと気がつく。

 流石の俺も焦りだしたけれど、人に聞くわけにもいかずに結局は色々試してみるようになった。

 試すったって高校生の考える事だ。たかが知れてっけど。家でそういった動画を見るのもなぁと思って、ネカフェで動画や画像を片っ端から見て、少しでも興味を引かれたものを見ながら少しでも下半身に変化が起きるかどうかを確認していく。

 そう、作業。

 ただの確認作業。

 そこで何か変化があったなら店的に俺を注意しなくちゃなんなかっただろうが、淡々とチェックしていくだけの俺は別に何かを言われたことも無ければ画像の閲覧履歴を確認された事も無い。


 動画や画像といっても、全く見知らぬ世界を一つ一つ丁寧に確認していくだけの単調な作業に過ぎなかった。

 中には性的興奮を得るどころかグロさに吐き気をもよおすような性癖のものもあって、俺はそういうものを嫌悪するんだっていう真っ当さに気づいて作業とはいってもそれはまぁ良かったかもしれねぇな。


「マジか……」


 そうすると世間ではノーマルと言われるであろう性行為を中心に見る事になるわけだけど、画面の向こう側でねーちゃんがわざとらしく喘いでるな位の感想しか無かった時、俺には性的興奮がないのかと思って流石に驚いた。

 確かに他人への興味は薄い方だと自認していたし、友達からそういう話をされなければ気が付かなかったくらいだ。日常生活において、全く不便はなかった。

 一応、同性愛やペドフィリアみてぇなのも一通り見たけどどれもこれもしっくり来なかった。いや、これも胃がムカムカするような部類の動画があって、つくづく俺にはこういったものは向いていないのだと自覚を深めるに至ったわけだ。


 そうこうしてる内に、もしかしたら俺には気になる人間そのものが居ねぇんじゃねぇか……?っていう根本的な可能性に辿り着いた。

 そこで違うアプローチから調べてみたら、無性愛者っていう他人に恋愛感情を抱かない人間も居るっていう事が分かって、俺は多分それなんだろうなってところを落とし所とした。

 だってよ?誰に対しても自主的に興味を抱く事がなかったんだから仕方がないだろ。

 誰かを自分のモノにしたいとか、組み敷きたいとか、そこまでじゃなくてもその相手の視界に入っていたいとか、好かれたいとか、そういう気持ちは一切感じた事がなかった。

 それよりも速すぎる世界についていく事の方がずっと優先順位が高かった。

 それは俺には一生涯無縁のものなんだな、そういう風にこの違和感を落とし込んだ。

 性的興奮なんて要は生殖行為なんだから、他人に興味が無いなら無くて当然なのかもしれねぇなって。




 同じ頃、隣の家の子供が視界に入るようになった。

 高校はバス通学だったから、帰りの時間が一定で。渋滞やらがあってもほぼ同じ時間に家に帰る。

 家の手前、隣家の門のとこにある階段に子供はいつでもぼーっと座って上を見上げていた。しかもコイツは酷い雨とかじゃない限りいつも居る。

 毎日の事だからなんなく気になりだした。


 隣の家の前に座ってるから一応頭だけ下げて通り過ぎる。

 ソイツも俺にペコりと頭を下げ返してきた。まだちぃせぇのに会釈なんかすんのかって内心驚いた。

 俺が帰ってくるのは夕暮れ時には少し早い時間。

 昔ながらの住宅街には人気ひとけが全く無くなる。

 俺とソイツしか居ない、誰もいない、誰も知らない時間。

 ソイツは見た目だけなら愛嬌がある。言ってしまえば可愛らしい子供で、親と一緒に居る時はそれなりに愛想も良かったような気もした。歳も離れてるし、なにか共通項があるわけでもなかったから興味が無かったからこの今まで気にしてなかっただけだ。


 普段なら気にも留めないんだけどな。

 

「隣の下の子いつも家の前に居んだけど、なに?」

「哲哉くん?」

「上は女だべ?」

「そうよぉ。お姉ちゃんは学校の校庭でよくお友達と遊んでるところを見かけるわね。哲哉くんの方はちょっとロマンチックなの。お空が好きな子なのよ。お友達と遊ばない日は空を見上げてるの」


 ふと思い立って夕飯の時に母親に聞いてみたら、そんな答えが返ってきた。ちらりと見た姉は興味が無いらしくて「ふーん、それがどうしたの?」って聞いてきたから、何となく目に付いたからとだけ答えておいた。気にならなきゃそんなもんだろうな。

 でもまぁアイツは『お空が好き』って風にゃ見えなかったけどなぁ。

 真っ黒い目玉は空なんか映しちゃいないように見えたし、どこか深いうろみてぇな、小さなガキがするような目じゃないように俺には見えた。


 それから俺は来宮哲哉隣の子供に頭を下げて前を通り過ぎるのが日課になった。

 向こうも何となくペコりとやるものだから、簡単な顔見知り状態だ。


 暫くして俺は、先述したように自分の性的嗜好がおかしいんじゃねぇかって悩むようになった。

 それ自体には諦念にも似た結論を出したけれど、今度はあの子供が気になりはじめた。

 いつまで経ってもそこに佇んでいる子供に、流石の俺でも良心がうずいたのかもしれない。


 ある日なんとなく来宮哲哉隣の子供に声をかけた。

 自身が子供に性的興奮を抱くタイプの人間では無いと分かっていたから、見知った子供に声を掛ける事に躊躇ためらいはなかった。

 子供から好かれる性格をしているとはとてもじゃないけど思えなかったけど、なんとなく無視はされないだろうっていう確信があった。


「何が見える?」


 そう問いかけた俺を視界に収めた子供は、感情のこもらない瞳で見上げてポツリと言葉を零した。

 幼稚園だか保育園だか知らねぇけど、このくらいの年頃の子供だったら急に隣に住んでるだけの年上の男に声をかけられたらもう少し何か違った反応を示しそうなもんだけどな。


「白い月」


 これ、お空が好きな子の答えじゃなくねぇか?

 確かに昼の月は真っ白で、他の天体なんて太陽くらいしか見えねぇ。

 ただ一つ、今にも消えてしまいそうな真っ白い月がぽっかりと青い空に浮いている。


 毎日空を眺めてぼーっとしているコイツを放っておいていいものかと少し考えた。

 俺の母親が『お空が好きな子』って直ぐに言えるくれぇだから、近所でもコイツがこうして座ってんのはそこそこ有名なんだろう。

 けどなぁ、今時は男でも犯罪に巻き込まれる。

 自分の嗜好を探る為とはいえ、片っ端から見た動画の中に男の子供にしか興味を惹かれない奴のもあったからそんな事が頭の片隅に引っかかったんだと思う。

 あれは俺には胸糞が悪かった。


「あぁ、月か」


 どう返したもんかと考えて、鸚鵡返おうむがえしをする事にした。

 真昼の月は白くて、夜に見る黄色がかった美しい姿よりももっと清楚で寒々しくて、透き通るような春の青い空に深く沈み込むようにして控えめに輝いている。


 なんも考えないで声を掛けたから、この後どうすっかなって思って思い切って提案してみる事にした。


「隣、いいか?」

「どうぞ」


 少し左にズレて俺の座るスペースを作ってくれた。そういやコイツ、チビなのに敬語なんだな。

 俺もコイツにならって空を見上げた。

 すこーんと抜けるようなどこまでも落ちていきそうなあおの中に、ぽっかりと月が浮かんでいて。

 それは決してそこにあってこそ輝くような代物ではなくて。

 ただ、そっと息を殺してそこに存在しているようで。

 なんだかそれがコイツの抱えてるモノによく似てるんだろうなって思った。

 世界中でひとりぼっち。

 俺が少しでも気を抜いたら世界に置いていかれてしまうように、コイツもなにかそんな風な生き辛さを感じてんのか?

 それは、こんなガキが感じるにはまだ早すぎる感傷だと思った。


 堪らず声をかけた。


「ここ、暑くねぇか?」

「今年はまだマシですが、暑いですねぇ」


 季節は初夏。

 プール開きをしたらしくって、隣に座って相変わらず空を見上げるキノからはうっすらと塩素の匂いがした。プールを出てからしっかりとゆすがなかったであろうキノの髪はパリパリしてる。

 この頃には俺は隣の子供を『キノ』と呼ぶようになっていた。それくらいには一緒に時間を過ごしてたからな。キノもその呼び名で反応を返してきたし、嫌だとも言われなかった。良いとも言わなかったけど、文句が無いならそれでいい。

 来宮家とはキノ以外と会話を交わす事がなかったから呼び方がキノでも問題は生じない。

 キノの方も俺の事を河野さんって呼んだ。他にちょうどいい呼び方が思いつかなかったんだろう。隣の家に住んでる歳の離れた高校生への呼び方なんてそんなに無いだろうから、それで構わない。


「……俺の部屋からでも空は見える」

「入れていただけるんで?」

「そう言ってる」


 ほんの少しだけ、驚いた顔をした。

 こう見えてもキノは警戒心が強いから赤の他人の家に入るのは嫌がるかとも思った。

 二人して座り込んでいる道端は段になってるから少しはマシだけど、それでも焼けたアスファルトとその上の空気がユラユラと揺れて陽炎かげろうが見えるくらいに暑い。

 そんなところで空なんか見てられっか。


 俺は知らなかったけど、もしかしてずっとこんな事をしてたのか?だとしたら、冬から?

 クソ暑い夏の熱気の中やら凍える冬の寒風の中で空を見上げる子供を『お空が好き』とか訳知り顔で無責任に放置してただなんて、大人共は何してんだ。

 無性に腹が立ったけど、知らなかった俺も同罪ではある。

 知った以上は見放すつもりも無いけどな。


「嫌なら無理には……」

「いえ。お言葉に甘えます」


 食い気味に言葉を遮って、とても不器用に笑った。

 なんだ、お前笑えんじゃねーか。

 表情に乏しいキノが俺に見せた初めての表情かおはそれだった。




 俺の存在に慣れてきた頃、キノがポソッと言葉を吐き出した。

 本当になんでもないタイミングだったから、最初はただの独り言かと思ったけど。どうやらそうじゃなかったらしく、内容は哲学的で当時ガキの俺には全く分からないようなものだった。

 感情についてだなんてわかるはずもない。

 この時のキノはまだ俺についてを何も知らねぇから仕方なかったんだけど、俺には恋愛感情どころか他人への興味ってものがほぼ存在してねぇと思ってたんだぞ……。


 でも、これでキノがどうしてこんななのか理解した。

 俺の母親や他の大人が言うように空が好きで、何時間でも空を眺めて過ごすようなロマンティストな子供じゃあ無くて。

 ただの賢い子供だったんだな。

 他よりも賢いから、そこに理由を求めてしまった。そんなの大人にだって理解かってる奴の方が圧倒的に少ないのに。

 幼いキノには大人が答えをくれない理由が分からなかっただろうな。

 誰も答えをくれない、言っても理解出来ないだろうとか、子供に向かって分からないって言えないから誤魔化すように怒り出す奴も居たかもしれねぇ。

 だから答えを得られないままここまで生きてきた。でも、賢かったから人の輪から弾き出されないようにいくらだって自分を押し殺してその場を取り繕えただろう。

 『分からない』だって立派な答えだ。

 それを教えてくれるやつが今の今まで誰一人居なかった。それじゃあ肝心の答えは得られないままで、いつまで経っても苦しいだけだ。

 自分がおかしいんだって思っただろ。

 いつだって世界は正しくて、間違えてるのは自分なんだから。

 おかしい事なんて何も無いのに。

 キノは賢いだけの、ただの子供なのに。


「わかんねぇ」


 答えを持っていない俺がしてやれる事は、嘘や誤魔化しをしない事。

 暗い虚みたいだった瞳にサッと光が差した。


「わかりたいのか?」


 俺の部屋のベランダ側の大きの窓の下で、夏の陽射しを背負った小さなキノが俺を見上げる。

 他人になんか興味は無かった。

 それは今でも変わらない。

 けれど。

 よく分からない感情。


「そうしないと世界から弾かれます」

「そうだな」


 この小さくて不器用ないきものは、嫌いじゃない。

 もっと、楽に生きていけば良いのに。

 この小さな体に溜め込むものは鬱屈した自己否定や矛盾であって欲しくない。もっと、ずっと、自由であっていいはずだ。

 屈んで目線を合わせた。

 俺が今から言う言葉が正解か不正解かなんかどうでもよくて、キノの味方になってやれるなら今はそれで良いと思った。


「じゃあ、俺の前ではわからないままでいればいいんじゃねぇか」

「いいんですか?」


 頷いてやった。

 この時、キノの瞳に光が宿った。

 子供らしい無邪気な顔をして、心底嬉しそうに笑ってみせた。


 恋愛感情もわからない、自身の性的嗜好もわからない、他人への興味すらもない。

 そんな俺でもキノは必要としてくれた。

 ……救われた気がしたんだ。


 少しして思い知る。

 徹底的に、逃れられないほどに、ただそれだけが必要なものだったと。

 それを得られていなかったから気が付きもしなかっただけで、自分はそんなに特別いしつな存在ではなかったんだと。


 俺はただの鏡だったんだと。

 驚く程に、鏡だったんだと。

 生きている鏡だったんだと。


 想われたら想われただけの想いを返してしまう。

 与えられた幸せを、同じだけ与えようとする、そういう個性の持ち主だっただけなんだと……。


 キノが気づかせてくれたもの。

 差し出された手を握る事。

 その手をたどたどしく握り返される事。

 守りたいと思う事。

 ただ笑っていて欲しいと願う事。

 俺にでも出来る何かがあった事。



 この暫く後に俺の人生を決定付ける史上最悪の出会いをする事になる……。

 必要だと、思いもしなかったものを。

 とうに諦め果てていたものを。

 これでもかと両腕に抱えて、ソイツは幸せそうな笑顔を浮かべて俺の前に現れた。

 そんなもん欲しくないって叫んだ俺に、ソイツは無理矢理それを俺に押し付けた。


 速すぎる世界で一人で生きて一人で死んでいくんだと信じて疑わなかったのに。

 諦めていた俺の手を掴んでソイツは強引に引っ張って全速力で走り出した。訳も分からないまま引っ掻き回されて、単調だった周りの景色が瞬く間に色を纏って流れていく。


 そこに俺の意思は必要無かった。


 ソイツに見つかったから、俺はもう戻れなくなってしまった。

 こんなに世界には人が居るのに、見つかってしまったから。


 ソイツは俺を見つけてしまった。

 



 俺とキノはこうして付かず離れずの距離感で過ごすようになった。

 否、違うな。

 実の姉よりもずっとその距離は近かった。


 大学生になっても俺の生活に変化は無かった。

 変化を探したところで四つ上の姉が結婚して家を出て行ったくらいで、俺は相変わらず暇な時はキノと過ごしていた。

 キノの勉強を見たり、ゲームをしたり、お互い黙って本だけを読んだり。内容はそんなもんだったけど、代わり映えしない代わりに、穏やかな日常だ。

 うちの親もキノの親も、俺達が仲が良いのはなんでだろう?って思ったみてぇだけど、俺がキノにとって害にならないって判断されたらしくてどちらからも何も言われなかった。


「そういえば、河野さんは恋人とかは作らないんですかね?」


 ある日、ふとキノが聞いてきた。

 あ、明日は雨が降るらしいですよ。くらいの気軽さで俺の地雷をズドンッと踏み抜いた。

 地雷とは言ってみても怒るとかって話じゃあねぇしなぁ。

 キノの事だから毎日俺がキノと一緒に居るから恋人が出来ないとか、邪魔をしてるんじゃねぇかとか、そういう余計な気遣いに至ったのかもしれねぇけど、この幼さで恋人の有無を聞いてくるとは恐れ入った。


「……困ったな」

「すみません」

「いや。そういうんじゃねぇんだけど。俺、恋愛とかそういう感情がよくがわからねぇんだよなぁ」


 キノは首を横に倒して暫くじぃっと俺を見つめてた。

 まだ子供のキノにどう言えば伝わるか。気の利いた答えを用意してやれなくて、どうしたもんかって悩む。

 ただ気にしないで良いと言えばいいだけなのに、キノに変な誤魔化しをしないと勝手に決めていたせいで言葉に詰まる。

 部屋に沈黙が降りてくる。


 小指を差し出した。

 それを掲げると、キノが自然と視線を向けた。


「間違えた世界の方に生まれて来ちまったような、そんな感じか?」


 運命の赤い糸とやらがあるとしたら、俺の糸の先には誰も居ないんじゃないかって思う。

 赤い糸は世界中をぐるぐると回ってうんと先の方でどっかに引っ掛かってっから引っ張られてるような感覚があって、実は先っぽが途切れてるのに気が付かなかっただけで本当は俺の糸の先はどこの誰にも繋がってないんじゃねーかって。

 そんな説明をした。


「それは……出逢っていないだけでは?」

「うん?」


 キノが真っ直ぐ俺の瞳を貫くように見つめてきた。

 必死さすら滲ませて。

 淡白なキノにしては珍しい。


「まだ河野さんが運命の赤い糸の先のヒトに出逢っていないから。だから、そう思うだけでは?」


 適当だけどって言って、自分の指を見つめた。

 自分で言っておいてなんだけど、運命の赤い糸とか寒いな。


「多分それは俺じゃないと思いますけど。でも、河野さんのことを誰よりも、河野さん自身よりも、この世界で一番大好きだって思うヒトは絶対にいると俺は思うんですよ」


 俺はお前の未来に隣に立って歩いてくてれる奴がいてくれたらそれで構わねぇんだけどな。年齢差を考えたら、何もなければ俺のがどうしたって早くどうにかなるだろうしな。

 その時に、キノがひとりぼっちじゃなけりゃ何でも良い。

 俺の性的嗜好の話とか、心が揺れ動き難い性質だとか、そういう話をキノの情緒の育成の妨げになりかねねぇからって言わなかったからそう思われたのかもしれねぇけど、そうだな。

 そうだったら良いな。

 キノがそういう風に考えてくれるのか嬉しいと思った。






「いつもここに居ますけど、どなたかと待ち合わせですか?」


 大学二年生に進級して、そろそろ日常のペースを掴み始めた春の日。

 大学のベンチで本を読んでいた俺になんの前触れもなく声が降ってきた。

 天気も良くて、アウターも薄い物で大丈夫になった頃だ。

 新入生でごった返す学食や近くのカフェテリアで時間を潰すのは億劫だから、晴れていれば俺はいつもここで本を読んだり予習を片付けたりとか、そんな事をして時間を潰していた。


 最初は俺に声を掛けてるだなんて思わなかったから、本のページを捲る指を止めた以外反応をしなかった。

 それなのに声を掛けてきた相手は俺の返事を辛抱強く待っていたらしく、気配がそこに留まり続けた。

 確かに。銀杏いちょうの下の青いベンチは人が来ねぇし校舎からも死角になってっから、最近は曇りでもここに居る事が一番多いかもしれねぇな。


「俺か?」


 顔を上げたら金色近くなるまで明るい茶色に髪を染めた男が俺を見下ろしてた。

 あー、これ面倒臭ぇ奴だろ。

 見た目で判断して悪いな。

 でもよぉ、くるっと外に跳ね上がった髪に左右の耳にピアスが合計三つ。キツ目に吊り上がった眉に意志の強そうな黒目のでっかい丸型の目。鼻とか口元は涼やかな印象があるけど、丸顔だから幼く見える。

 端的に説明すると、ヤンキーに見えたんだよ。


「そう。いつもここに居ますよね」


 声は思ったより高い。


 ヤンキーの言葉遣いは予想外に綺麗だった。

 はたから聞いてたら、声だけじゃセリフを発した人間と本人の声を反対だと思われても仕方ねぇなってくらい。

 だって俺の見た目は長めの前下がりの前髪から刈り上げた襟足まで斜めに断ち切ったような女とよく間違われる髪型に、スクエア型のフレームの黒縁眼鏡をかけてワイシャツにアーガイルのスプリングセーターにジャケットっていう。見た目は完全に優等生詐欺だって散々同級生にいじられ倒している代物だ。

 髪は面倒だから襟足が長くなったら自分で刈ってて、上の方が伸びてきたら散髪に行くようにしてた。

 この時期はちょうど一番長かったな。


 ヤンキーはなんでかにこにこと笑って俺を見下ろしてくる。


「誰かと待ち合わせかなって」


 なんでこんなに嬉しそうなんだ?げっ歯類でなんかこういうの居たよな。あー、クアッカだ。クアッカワラビー。世界一幸せな動物。

 クアッカワラビーみてぇな顔して俺のことを覗き込んでくる。


「家に帰る時間を調整してるだけだ」

「って事は、この後時間ある?」

「無い」


 なんだ?合コンの人数合わせでもしてんのか?

 随分と嬉しそうに寄ってきたな。一言づつ距離が近づいてくる。あー、ヤンキーはパーソナルスペースが近ぇのか?もう少しでデコがぶつかりそうだ。

 俺はキノの帰ってくる時間に合わせてるだけだけど用事は無いわけじゃない。日々の予習復習なんてものもあるし課題のレポートやらもあるし、夜には家庭教師のバイトをしている。

 それに、キノを一人にしておくのはまだダメだ。


「なんっで!」

「地元で用事があっからな」


 なんでって、お前こそなんでだ?

 ヤンキーは顎に手を当てて、首をクイッと捻る。


「河野君だよね?」

「あ?そーだけど?お前誰だ?」


 本当にお前誰だ?俺にヤンキーの知り合いは居ねぇんだけどな。誰かが大学デビューをキメたのかって顔をまじまじと確認してみはしたけど、やっぱ知り合いじゃねぇみてぇだけどなぁ。

 んー……でもなんかどっかで見たような気はする。けど、わかんねぇなぁ。

 至近距離で見つめ合うようにして話は続く。

 あー、こういうのなんつったっけ?メンチの切り合いだっけか。じゃああれか?俺は今ヤンキーにからまれてんのか?

 どうしたもんか眉を寄せた途端に至近距離で視線が絡まって、焦ったようにヤンキーはぴょんって距離をとった。


「あ!俺は初町恭一っていいます。一学年下で」

「ふーん」

「高校の文化祭で河野君が踊ってたの見て!ずっと話してみたくて!」


 あー……なんかあったなぁ。頭数足りねぇからって頼まれてダンスさせられてひでぇ目に遭ったやつ。

 他校生も入れる催しだったからその後から呼び出しだの手紙だのストーカー紛いのつきまといが凄くて、暫くの間はかなり面倒臭くって辟易した。

 するってぇと、コイツの格好はヤンキーじゃなくてダンスとかやる奴等の格好なのか?高校の時は友達と会うっつっても制服ばっかりだったから俺が知らねぇだけで。


「大学でもダンスやっているのかなって思ってたんですけど、サークル見に行ったら居ないって言われて」

わりぃな、アレはあん時限定だ」

「踊っていないんですか!?」

「そもそもダンス部じゃねぇからな」


 大袈裟に頭を抱えてズルズルと地面にくっつきそうなくらい凹みやがった。

 なんなんだ、コイツは……。

 項垂うなだれた姿がおやつを貰えなかった犬みたいであまりにも不憫で。

 時間が来た俺は帰るからなって合図のつもりでヤンキーの頭をポンッと撫でて駅へ向かった。


 ファーストコンタクトはそれだけだ。


 それから事あるごとに初町は俺の前に現れた。

 きっかけがダンスだったんだからそれをやらねぇなら俺に用は無さそうなもんだけど、初町の奴は何時何時いつなんときもあのクアッカスマイルを貼り付けて俺の前に現れては、俺に拒否権なんかねぇんだなって諦めを抱かせる勢いで俺の日常をこれでもかと滅茶苦茶に引っ掻き回した。

 お前はどこで俺の動向を観察してるんだ!ってほど絶妙なタイミングで現れて、逃げ場すら与えてもらえなかった。

 いいか?人前でいきなり抱きつかれりゃ男同士だってギョッとすんだぞ?

 ヤンキーじゃなかったとしても他人との距離の狭さはかなりのもんだ。

 恐ろしいことに本人は抱きついてるつもりなんかさらさら無いみてぇだけどな?腹だの腰だのに腕を回されながら顔を覗き込まれて、せめてもの距離を取ろうと仰け反るのなんか日常茶飯事と成り果てた。


「河野君!今日も相変わらず素敵ですね!好きです!付き合って下さい!」

「あ?また来やがったのか……」

「あれ?熱ある?ちょっとほっぺ熱いね」

「お前……」

「無理したら駄目だよ?」

「だから、話を……」

「医務室行こうか!」

「話を聞け!」

「うん?」

「熱なんかねぇぞ!」


 いきなりこういうやりとりが開始されてみろ……。

 いくら他人に興味が無い俺でも対応せざるを得ないし、なんなら俺よりも俺の事にこいつは詳しかった。

 俺が自覚していない体調不良だの、自分自身でも分からない気持ちの不調だの、そんなものまで俺よりも先に見抜いてみせた。


 お前のせいで俺の日常はメタメタだ。



「……お前は何がしてぇんだ」


 土曜日、家族連れやらカップルでごった返す水族館に居る。

 しかもキノまで連れて。


 朝、俺以外の家族が出払って誰も居ねぇ家のチャイムを押して現れた初町を見た瞬間、日頃の行いから反射的に玄関のドアを閉めようとした。

 そこを流石の反射神経でガツッ!てドアの隙間に足を挟んで、素早く指をじ込んでドアを閉めるのを阻止しにかかる。尚も抵抗しようとした俺の力を上回る力で勢い任せにドアをじ開けられてみろ、大抵の物事に興味の無い俺でもサァァァッと背筋が凍るような恐怖を感じたぞ……。

 そんな恐怖モンできれは一生知りたくなかった。

 いつも通りにキノが家に来る予定だったから相手を確認しないでドアを開けた事を後悔しても遅かった。

 初町は最悪のタイミングで現れたキノに『君が河野君の仲良しな子だよね?これから一緒に水族館行かない?』ってクアッカスマイル全開で声をかけた。

 押しの強さに驚いたキノは気圧されて目をまん丸にしてこくこく頷いちまった。キノが頷いちまった以上は俺が同行しないわけにもいかねぇから、強制的に連行される羽目になって今に至る。

 何の罰ゲームだこれ。


 で、さっきの俺のボヤきに戻る。

 いっそ清々しいまでに爽やかに笑って、聞きたくもねぇ内容の言葉を吐き出しやがった。


「なにがしたいって、デートだけど?」


 何も知らない奴が俺の姿を見ずにこのやり取りを見たんなら、好青年のありきたりな恋人への告白に見えるのかもしれねぇけどな。

 俺は目の前が真っ暗になったぞ。

 お前も俺もどっからどう見ても男だろうが。

 キノは興味津々で巨大水槽に張り付いてる。もしくは気を使って距離をとってくれてるのかもしれねぇけど。とにかく聞こえてなくて良かった。


「……あ?」


 初町の恐ろしいところはこれをあの笑顔で言ってるところだ。

 忌々しいクアッカスマイルを浮かべて、なんで今更当たり前の事を言ってるの?って小首を傾げられても恐怖しか感じねぇんだけどなぁ。しかも、後退あとずさった俺を逃がさないように手首をやんわりと掴んだ。


「ずっと好きだって言ってるのに、全然本気にしてくれてなかったんだ?」


 聞きたくなかったんだよ。

 脳みそが言葉が届くのを自然に拒否してんだ。そっちこそこの拒否を本気の拒絶ととれ。


 初町は俺の前をちょろちょろしながら毎回毎回『好きだ』とか『付き合って欲しい』とかを連発した。

 大学内で有名になるくらいにな。

 最初は突然の告白劇に戸惑ってた周りも、今じゃまた振られてんのかよとか、何敗目だー?とか愛あるイジりをするようになっちまった。

 慣れってこえぇな。


「あれをどう?」


 最初は嫌がらせされてんのかと思った。

 途方に暮れて見つめた水槽の中では、大きなエイが悠々と泳いでいく。


「だって、好きだって言わないと伝わらないし。信じてくれていないだろうなって思ったけど、人前であれだけ派手に言っていれば少なくとも害虫は寄ってこないでしょう?俺と河野君を本気で取り合う気も無いのに興味本位の他人が河野君にちょっかい出してきたら嫌だし」

「顔見る度に好きだとか付き合えとか言われても全く本気さが伝わってこねぇけどな。なんなら今何言ってんのかも全然わかんねぇけどな」

「マジかー!」


 だから、なんなんだ。

 このげっ歯類、蹴っ飛ばして良いか?


「だから、さ。好きなの。河野君が!」

「お前、目ぇわりぃんじゃねーか?」

「両目とも裸眼でちゃんと見えてるよ。なんならここからあの水槽の魚の展示パネルも読めてるよ」


 尚悪い。

 いくら恋愛感情が死滅してるとはいえ、俺は男のつもりだ。

 お前もそうだろ?俺に何を期待してんのかはわかんねぇけど、男なら求愛する対象が違うだろ?


「怪訝そうな顔してる」

「しねぇ奴が居ると思うか?」

「思わないね」


 このげっ歯類……。




 この調子で俺は初町に付き纏われ続けた。

 聞いて驚け!

 三年だ。

 三年間ずっと俺はこのげっ歯類から求愛行為を受け続け、しまいには新入生が驚く以外は誰一人としてこの異常事態を気にしなくなった。

 面白がった奴らに賭けのネタにされたり、たまには付き合ってあげなよーとか余計な事を言われたり、大学二年の春に初町と出会ってから三年もの間、散々な目に遭い続けた。

 概ね好意的なものばかりだったけど、これは稀な例だかんな!

 俺の人権どこ行った!


 大学四年生の秋だったか、とうとうキノまでもがげっ歯類を俺の恋人だと勘違いしだした。


「そういえば、明日の買い物は初町さんはご一緒ではないんで?」

「……は?」


 部屋で勉強をみてたら当たり前の事みたいにキノがげっ歯類の話題を振ってきた。恐ろしい事にあのげっ歯類はキノを懐柔したらしかった。

 四年にもなると進路を決めなくちゃならなくなった。俺はこのまま大学院に進む事にして、そこそこ忙しくなっていたからキノが初町と親しくなってたのに全く気が付かなかった。

 キノも放課後活動とかが始まってたし、俺とばっかり居なくても前ほどの危うさが無くなってたから油断してた。あのげっ歯類はいつの間にか俺が会えない日にキノに家庭教師の真似事をしていたらしかった。

 家庭教師と違うのは報酬の金を受け取らないでその代わりにキノと居る時の俺の話を聞きたがったり、大学での俺の話を聞かせたらしい。


「すみません……」

「いや。お前の迷惑になってねぇんならいい」

「それは、まぁ」


 キノは最初こそ俺の交友関係を思って断れなかったらしい。そこには、大学で俺がどんな風に過ごしているか気になったっていう子供らしい好奇心もあったなんて言われたら叱れねぇ。

 あのげっ歯類、げっ歯類のクセに頭はかなり良いからそこに関しては信頼出来るしな。


 最悪な事にあのげっ歯類はこの調子で真綿でじわじわと首を絞めるように、あの世界一幸せな笑顔を浮かべて外堀をザックザック勢い良く埋めていった。

 こりゃもう外堀を埋める勢いじゃねーよ。

 キノまで懐柔されたらそりゃもう本丸落としに来てんじゃねーか!


「でも、あいつは恋人じゃねぇぞ?」

ちげぇんですか?」

「違ぇ」


 意外そうにキノが首を倒した。

 子供にどんな勘違いをさせてんだ、あのげっ歯類。キノが男同士の恋愛が普通だと学習したらどうしてくれんだ。

 そんな特殊な奴は俺の周りにはお前一人だけだ。


「彼相手だと河野さんの表情がクルクル変わるからそうなんだろうなぁって思ってました」


 聞き捨てならねぇ!

 驚いて目を見開いて固まった。

 俺があまりのことに酸欠の魚みたいに口をパクパクしてる間にキノがうーん……と唸ってから続けた。


「河野さんがあんなに表情を変えるなんてよほど気を許してるんだなって思ってたんですけどねぇ。いつも楽しそうだし」

「楽しそう……あのげっ歯類に俺が楽しそうに……なにを……どうして……」

「げっ歯類……」


 あ、やべ……。頭ん中でげっ歯類って呼んでんのバレた。

 キノが少し驚いたみたいに呟いて視線が宙を舞う。

 動揺しまくる俺の事なんかより、どの動物の事なんだろう?とか考えてそうだな。


「あの邪悪な笑顔がクアッカに似てんだよ」

「邪悪?どれ?」


 黙ってネットで調べて見せてやったらキノにしては珍しくにこやかに笑った。

 それから、指でホームページの文を指す。


「コイツ、げっ歯類じゃねぇみてぇよ?」

「は?」

「カンガルーの仲間。カンガルーはカンガルーって種でげっ歯類じゃねぇんだって」


 あぁぁぁぁぁぁぁぁ!?

 クッソ!

 腹立つー!

 あの世界一幸せな笑顔がぶわぁぁああっと頭を過って猛烈に腹が立った。俺はどうしようもない怒りに拳を握りしめてわなわなと俯いて震える。

 間違えたのは俺だしアイツは悪くねぇかもしれねぇけど、三年近くも頭ん中でげっ歯類って罵倒してたら残念!カンガルーでした~ってなんだよ!


「あーっはっはっはっ!しかもコイツ世界一幸せな動物とか呼ばれてるじゃん!別に邪悪な笑顔じゃないけど、確かに似てるわ」


 怒りに震える俺をよそにキノが声を上げて笑った。

 こんなにキノがあからさまに声を上げて笑ってるところなんか初めて見た。

 俺が驚いて固まってたら、キノが画像を指さして涙を浮かべながら笑う。


「これ、じわじわ面白いな。ヒーッ!あー面白い!よくまぁこんなマイナー動物思いつきましたね。笑顔の特徴そっくり!河野さんは初町さんのことよく見てんだな」


 あーっ!

 なんなんだ!

 クッソォォオ……!

 こんな事でキノの笑顔を引き出したくなんかなかったぞ、俺は!

 あのげっ歯類(偽)のやつ、どこまで俺の生活を侵食してくれば気が済むんだ!!





 そして、卒業式当日。

 改めて思うとこの時の俺はどうかしてた。

 きっと三年も付きまとわれて、わけわかんなくなってたんだ!


 式典が終わって卒業記念パーティーまでいつものベンチでボーッと時間を潰してた俺は本当にボーッとしていた。

 卒業とはいっても院に進む俺は大して変わる事もないし、卒業記念パーティーと言われてもめんどくせぇなぁ位の思いしか無かった。それよりも適度に温かい会場に眠気を誘われてそれに耐えるのに必死だった。

 そんな風に外で眠気を覚ましていたから、初町の姿に気がついた時には時すでに遅しってやつだった。


 初町は俺が三年に上がる頃にはもう茶髪にピアスは卒業済みで、出会った頃に俺がしていたようなトラッドスタイルを自己流に着崩した落ち着いた服装になっていた。

 周りがいじるくらい露骨に俺の服装に寄せてきてたし、客観的に評価すれば俺よりも似合ってんじゃねぇか?って位にはフォーマルになり過ぎない程度に着崩したトラッドは似合っていた。

 それでも、自分の服装に寄せてこられた俺はこいつの姿を見る度にゾォォォォ……と背筋を冷たいものが走るようになって、俺はわざと適当な服装へ普段着をシフトした。

 

「あおい君。そろそろ諦めて俺と付き合ってよ」


 逃げ損ねた俺をとっ捕まえた初町が珍しく真顔で俺を見つめて言い放った。

 俺は顔を歪めた。

 ちなみに服装については密かにお揃いにしようと思って俺のを真似たのに俺がやめちゃって残念との事だった。

 もう絶対にトラッドなんか着ねぇからな!



 ……そして、俺は初町から逃げる事を諦めた。



 男と付き合うなんて考えてもみなかったけど、初町にとって付き合う相手が何をどうしても俺でなくてはならないなら。

 そうまで言うなら、しかもそれを実践してみせたなら。

 実際に出会っていたのが高校三年生の秋だったって言うなら、初町は脇目も振らずに四年半も俺を追いかけていた事になる。

 それはもう、諦めるしかない。




 こっからは紆余曲折あった。

 その過程で、俺は無性愛者でも何でもなかった事が(恐ろしい方法で)実証された。されてしまった。最悪だ。あの野郎、わかっててわざと距離を取りやがった。

 しかも俺は元来他人に興味が無かった筈なのに、アイツは俺の心の琴線を無茶苦茶に引っ掻き続けてる。

 興味が無いも何もあったもんじゃないような、どうしてくれようかと日々拳を握りしめながら頭を悩ませるような、そんな風になし崩しに生活を引っ掻き回されて今に至る。

 そういう意味では、アイツの事を考えない日は無かったかもしれない。


 俺の赤い糸とやらは、もしかして本当にアイツに繋がってんじゃねーかって。そりゃあ十年近く一緒に居たら嫌でも思うっつーんだ!

 何をしたって、どこへ行ったって、何がなんでも離れりゃしねーんだもんよ。

 しかも俺に何の見返りも求めないで、ただ一緒に居られたらそれで良いとか言っていつもあの世界一幸せそうな笑顔を浮かべて隣に張り付いている。


 ……諦めの境地に立ったぞ、俺は。





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