植物園へ行きましょう。

リス(lys)

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 よく晴れた昼間。気候も穏やかで、暑くも寒くもなくちょうどいい。ほのかに漂う花の香り。土の匂い。

 広い石畳の通路の両側には花壇があり、色とりどりの花々が整然と、行儀よく植えられている。通路の先に目をやると、四角い巨大なビニールハウスのような、壁も屋根も半透明の温室と思われる建物が見える。


 ここは、植物園。

 私は植物にあまり興味が無いから初めて来た。

 当然、両脇の花壇に植えられている花を見ても名前がわかるものなどほとんど無い。小学校のころ育てたことがあるパンジーと、チューリップ、あとは母の日の贈り物のガーベラだけは辛うじて見分けがついた。水やりがされたばかりなのか、濡れた花弁や葉が陽の光にキラキラと輝いていた。


 隣に視線をやり、見上げる。こちらを見てニコニコと優しく微笑む彼と、隣り合って歩くのが心地良い。安心感のある笑顔と真っ白なシャツが暖かな日差しに照らされて、眩しくて思わず目を細める。彼からは、香水なのかほんのり甘く上品な香りがした。


「中、入りましょう」


 促されて温室に入る。ドアは二重になっていた。

 中はまるでジャングルのような、植物たちの楽園だった。曲がりくねった細い通路の両側には、背の高い南国の木、幹が太くて低い木、その隙間を縫うように植えられた、様々な形の色彩鮮やかな花たち。噎せ返るほどの濃密な花の香り。通路の脇には一本の細い川のような水路が、耳に優しい水音をたてながら穏やかに流れている。


 辺りを見回しながら歩いていると、温室内で多種多様な蝶が飼われていることに気付く。花にとまって蜜を吸ったり、ヒラヒラと優雅に飛んだり。

 ああ。だから二重扉になっていたのか。蝶たちが、逃げ出さないように。

 ふと彼を見ると……ピンク、黄色、青、紫の蝶たちが彼に何匹も寄ってきて、その真っ白なシャツに止まっている。蝶柄のシャツみたいでお洒落だ。

 彼は少し照れたように、くすぐったそうに笑ってこちらを見た。私も思わず笑みが漏れる。


「ふふ、大人気ですね」


「……僕が蜜を隠し持っているのがバレたみたい」


 彼が肩をすくめて、冗談っぽく笑った。


 ぼんやりと花や木を眺めながら通路をゆっくりと歩いていく。こんな風に、自然の中を……景色を見ながら歩いたのはいつぶりだろう。透明な天井や壁からは暖かな日光が降り注ぎ、きっと花や木々は喜んでいるんだろう。

 花は綺麗だ。でも、私には花は似合わない。だから別に……あんまり興味は無い。


 ブーゥゥゥン、と蜂の飛ぶような音が聞こえ、思わず身を固くする。刺されたらどうしよう。そのまま身体を強張らせていると、蝶から解放された彼がくすくす笑いながら近付いてきた。


「大丈夫。ほら、ここ」


 彼が指差す先にあるのは、赤い花。その花びらのなかに頭を突っ込むようにして飛んでいるのは、蜂ではなく、人差し指ほどの大きさしかない鳥だった。


「これは、ハチドリ。長いくちばしで、花の蜜を吸うんです」


「蜂の羽音かと思った……こんなに小さい鳥がいるなんて」


 羽ばたいたまま、ヘリコプターのようにその場でホバリングして、長いくちばしを花の中心部に差し込んでいるのが見えた。


「蝶みたいに、花の蜜を吸うんですね」


「そうです。だけどハチドリは種類によって、くちばしの長さや形が異なる」


 目の前のハチドリを観察しようとしても、動きが早いし小さくてよくわからない。ブンブンと音を立てて飛び続けている。


「実はハチドリは種類によって好む花が違うんですが、その花の形状に合わせて、くちばしの形を変えるように進化してきたんです」


「ああ。私達みたいに、箸を使う国もあれば、フォークとナイフの国もある、みたいな……」


 私のよくわからない例えに、彼は顎に手を当てて「ははぁ、言い得て妙ですね」と真面目くさった顔で言った。


「……でも花の方も、ただ蜜だけ吸いつくされたんじゃ困る。だから、蜜を吸いに来たハチドリの体に花粉を大量に付けるために、蜜をどんどん花の奥の方へ隠すように進化した。合わせてハチドリも、クチバシをどんどん伸ばすように進化する。こうしてお互いに影響しあいながら進化することを、共進化と言います」


「そうか。花にとっては受粉のために、ハチドリに頭を突っ込んでもらうほうが都合がいいんだ」


 蜜を吸い終えたハチドリがどこかへ飛び立つ。また別の花の蜜を吸いに行くのだろう。その体に、気付かぬうちに花粉を纏って。


「この共進化は色々な植物や動物、虫たちの間で起こっていて……大昔の例で言えば、トリケラトプスのような白亜紀の草食恐竜の進化も、植物の進化、多様性と密接な関わりがある。それからスミレと蜂の例。スミレの一部の種では、花粉運びの役目を担ったのは蜜蜂」


 彼とそんな話をしながら足を進めると、黄色の花が咲いているのに気がつく。プレートには「スミレ」の名前。一匹の、今度こそ本当の蜂が花の周りを飛んでいた。


 思わず足を止めると、彼が「蜜蜂はほとんど人間を襲いません」と、安心させるように優しく笑って言った。


「蜜蜂の針は内臓と繋がっていて、針で攻撃したらそのまま内臓ごと抜けて自分も死ぬ。だから、滅多なことでは刺してこない。巣を守る防衛のためだけ」


 ね、大丈夫でしょ。そう言って少し首を傾げて微笑む彼に、頷いて微笑み返す。

 自分たちの巣を、種を守るため、自らの命を差し出すのも厭わない。意思、というよりは、予めそうプログラムされた本能なのだろう。

 合理的で、冷徹――――急に自然界が、ただ明るく暖かなだけの場所ではないように思えてきた。


「スミレは、ほかの雑多な虫たちに蜜を食い荒らされないように、限られた虫だけが蜜に辿り着けるような複雑な形に進化した。蜜蜂だけが花弁の奥に進める、秘密の入口を作ったんです。途中に、花粉を忍ばせて」


 鍵を開けて扉を開き、蜜蜂を歓待するスミレを想像する。後ろ手に、花粉を隠し持っている。


「入り込めた蜜蜂は、花弁の奥で蜜を集め、その過程で背中に花粉を付けられて……また別のスミレの秘密の入口から入り、蜜を集める。同時に、気付かぬうちに受粉の手助けをする」


 スミレの花弁から出てきた蜜蜂が飛び立ち、また別の花弁に入り込む。きっとこの瞬間にも、花粉を体につけて受粉の手助けもしているのだろう。

 彼は優しい顔でスミレと蜜蜂を見つめて語る。


「……蜜蜂は、別にスミレを助けるつもりなんて更々ない。ただ自分のために……自分たちの女王やその子供のために蜜を集めているだけ。それが結果的にスミレの繁栄にも役立っている」


「……虫も鳥も花も、意図せずともみんな助け合って自然は回ってるんですねぇ」


 私がそう言うと、彼が僅かに片眉を上げてニヤリと笑う。


「ふふふ。実はそうじゃないのも居るんですよ。何も与えず、奪うだけの存在」


 彼の芝居がかった悪そうな顔に思わず笑う。


「……花に、とても詳しいんですね」


 私の言葉に彼は一瞬呆気に取られた顔になり、


「当然のことです」


 と笑顔で答えた。

 ……なぜ当然なのか、私には分からなかった。

 聞く前に、彼は歩き出してしまった。

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